私が最初にパニック発作に襲われたのは平成元年

当時名古屋に住んでいて、最寄りの地下鉄駅から出勤しようとしていた。

駅までは坂道を上る。

その日は何故か息が切れきれで坂道を登っていた。

駅の入り口の手前で急に息が苦しくなって動悸もしてきた。

そして何とも言い表せない不安感。

何かヤバい。でも救急車を呼ぶのは恥ずかしい。

で、タクシーに乗り名古屋第一日赤病院に行った。

 

病院に着くころには、動悸息切れは収まっていた。

内科医師に症状を説明すると、

「ああ、それは過呼吸ですね。息の吸い過ぎです。」

「お薬とか、出ないのですか?」

「もう収まっているんでしょう。薬はありません。もし次起こったら、紙袋を用意しておいて口に当ててください。息の吸い過ぎが原因なんですから。」

あんなに苦しかったのに、こんなにあっさりした対応なのかと思った。

 

これより数か月前くらいだったか、ちょっと酷い風邪を引いた。

呼吸器症状に、下痢、吐き気、激しい倦怠感

インフルエンザかと思って病院へ行くと

「ただの風邪でしょう。」

えっ、こんなにしんどいのに! と思ったが、医者が言うにはただの風邪

 

仕事も休まず続けていたが、倦怠感はひどくなるばかり。

お客さんにちょっとすみませんと言ってトイレに駆け込み、吐いたり、下痢をしたり

そして素知らぬ顔でまた応対

そんな生活が続いていた。

 

ようやく倦怠感の収まって来たかと思っていた矢先の青天の霹靂だった。

その当時はパニック障害という言葉もなく、

ある意味そういう病気が存在しないかの様だった。

 

 

私が矢内電気の仕事を手伝い始めた頃は、まだバブルの頃だった。

矢内電気の売り上げは5~6000万円くらいあった。

バブルが崩壊して景気が悪くなり、事業売り上げは徐々に落ちていっていた。

消費税を支払う事業者の売り上げが、まだ3000万円の頃である。

父の二郎から「お前にちょっと頼みがある。」と電話がかかってきた。

内容はこうである。

 

二郎「お前が職人から直接申請を頼まれてしよる矢内電気設計エージェントがあらいのう。」

清巳「あるよ。」

二郎「そこに、矢内電気から五、六十万円を流したいと思うんじゃがのう。」

清巳「どういうこと?」

二郎「今の矢内電気の売り上げが、三千と五十万円くらいなんじゃが。3000万円をちょっと超えとるだけで消費税を払わんといかん。お前のところに五、六十万円を流したら、3000万円切れて消費税を払わんでようなる。お前が直接仕事をしたようにお前の帳簿に付けてくれんか。そしたら消費税分の金が残って家族みんなが助かるんじゃが。」

 

まあ、これは二郎としては脱税である。が、私の個人収入は増えることになる

と、一瞬思ってしまった。

 

清巳「ええよ、現実に僕がその仕事を直接したらええんやろ。ほんで僕がその分の所得税をこっちで払えば、矢内電気としては消費税が減るということやろ。」

二郎「・・・そんなことしたらお前、所得税分持ち出しになるぞ。」

清巳「収入が増えたらその分の所得税は増えるやろ。入ってくる収入より多い税金を取られたりせんわい。」

二郎「わしが言いよるんは、仕事を回すからしてくれということじゃなくて、お前のところで仕事をしたことにする帳簿だけを作ってくれと言いよるんぞ。」

 

全く意味が分からなくなった。

 

清巳「言いよる意味が分からん。」

二郎「ほじゃけん、お前のところには現実の仕事もお金も行かんのぞ。お前のところに仕事を回したことにするために、お前のところの帳簿に仕事を請けたように書いてくれということぞ。それでお前がそのまま申告して所得税を払うたらその分マイナスになるじゃろが。」

 

一見、私の為を思ってものを言っているように聞こえなくもないが、ますます意味が分からない。

ちょっと冷静に考えた。

 

二郎の言う通りにすると、

私個人の矢内電気設計エージェントの帳簿に、してもいない仕事を請けたように書き込み、帳簿上売り上げは上がる。が、実際には仕事もお金も入ってこない。

その通り申告すると実際得ていない収入の分の所得税を多く払うようになるので、申告するときの損益計算書にはそれを書き込まない。そして書き込まない帳簿で申告する。

ということになる。つまり、二重帳簿になる。

 

私のブログ、アダルトチルドレンからの回復2, どうにかしなくっちゃの2 脱税 013 に書いたように、

かつて父二郎の言う通りに、個人のお客さんからの仕事の売り上げを抜いて矢内電気の帳簿をつけていたら、税務署に入られた。まあ、脱税だから当然だが。

その時二郎は税務職員に、「経理は息子がしているので私は分かりません。」と責任を私になすりつけた。

二郎はそういう人間である。

その時の私は税務職員に対して、「実は父の二郎に言われて売り上げの一部を抜いて記帳しました。」とは言わなかった。というか、言えなかった。何故か分からなかったが。

だから二郎は、こいつは(清巳)自分(二郎)が不利になるような証言をしない。または出来ないと思っている。そして、過去のほとぼりが冷めたと思い、今度は念入りに作戦を立ててきた。帳簿という証拠も残るように。

というところだろうか。

 

私がもし、二郎の頼みを聞いてそういう偽の帳簿を作ったらどうなるか。

 

税務署が矢内電気に入る。二郎は「息子のところに仕事を譲ったので、そちらに聞いてください。帳簿もあるはずですよ。」と税務署に言う。税務署は私に帳簿の確認をする。私がその帳簿を見せる私が売り上げ隠し(脱税)をしていることになる。私が「実は父に嘘の帳簿を作るように頼まれてしたことで、実際のお金は私は受け取っていません。」と言えなければ、私が所得隠しをしたことになり、追徴課税は私にかかる。

 

まあ、二郎はそう算段していたのだろう。

もし私が真実を税務署に言ったとして、

二郎は「確かに私がそう息子に頼みました。」と正直に言うかどうかは分からない。

もしそう言えるような人間なら、初めからこんなことは頼んでこないだろう。

どっちにしても二郎の脱税の片棒を担ぐことになる。

 

私は二郎のこの頼みを断った。ちょっと気が動いた自分が恥ずかしいが。

そして母の良美にこう言った。

「前回のほとぼりが冷めたと思ったんやろか。また我が子を盾にするような話じゃったわい。」

と、父二郎との話の内容を説明した。

予想はしていたが、母はやはりこう返してきた。

「お父さんはあんたを盾にしたりせん人よ。お父さんの言うことをそんなに悪くとられん。あんたを信頼しとるから言いよることよ。お父さんを助けておあげ。」

 

何か期待して、母に言ってみた私が馬鹿だった。分かっているはずなのに。

 

子供の頃はよく、「子供のことを1番に考えない親はおらんのよ。」と言われ育っててきた。

そういう親の言葉を信じれない自分のことを、悪い子供なんだと自ら責めたこともあった。

でも、子供の頃の自分の感覚は、あながち間違ってはいなかったということだ。

 

 

 

自分が何故今の自分であるかを知るため

自分に深く関わりが有った人が何故そのような人であったか

その人の生まれ育ったルーツから考える

今回も父、その後編

 

後編は中学卒業後の住み込み就職編である。

私が30代のある日、母がこう言った。

「井口産業に就職したことはお父さんにとってマイナスだったと思う。」

私もそう思っていたのだが、何でも父の言う通りで決して逆らわない母の一言としては、

意外に冷静に父のことを観ているものだと思った。

 

私が子供の頃は、この井口産業での自分(父)と私を比べてよくダメ出しを喰らったり、嫌なことをさせられた。

 

①私が食事の時に嫌いなものを残そうとすると、

「それを食べるまでは次の食事はやらん。」

「えっ」

「わしが中学卒業して勤めとったときは、毎日麦飯やった。社長の家族は米の飯を食いよったのに。麦飯はまずい。わしが食わずに残しとったら次の飯を入れてくれんかった。何日でもぞ。」

何日でもというのは二郎お得意の大げさな表現なんだろうが、それなりの事実が有ったのだろう。

「わしは米の飯を食いたくても食えなんだが、お前には米の飯を食わせてやっとる。何を嫌いやから食べんなんちゅうわがままなことを言いよるんぞ。」

言うことは一応筋は通っているが、二郎自身は嫌いなものは残すので、子供としては納得いかないのだ。

 

②私が小学3,4年生の頃

「宿題が嫌じゃと。何をいよる。本当にお前は勉強せん奴じゃのう。今日から飯が済んだら11時くらいまでは勉強せいや。」

「えっ」

「お前は宿題みたいに人にやれと言われたことさえ、ええじゃ嫌じゃというてせん。本当の勉強というんは自分が自ら進んでやるもんじゃ。わしが働いとったころは夜の9時くらいまで働いとった。飯食って風呂入ってから、わしは誰に言われんでも、寝る時間を惜しんで製図とかの勉強を夜の2時3時までしよった。お前には11時まででええと言うてやっとんのに、そんなことも出来んのか。」

毎日2時3時までしていたとは疑わしい(実に嘘が多いので)が、まあ2、3日はそういう日もあったのだろう。

それにしても、比べているのが16,17歳の自分と、9歳くらいの子供なんだが。

 

➂小学生のある日、こんなことが日課として課せられた。

「明日から寝るときはわしの枕元に、来て正座して両手をついて『おやすみなさい』と言え、朝になったらまたわしの枕元に来て、正座して両手をついて『おはようございます』と言いに来い。分かったか、毎日やぞ。」

「そんなこと、友達誰もしよらんよ。」

「わしはしよったが。住み込みで働いとったときは毎日社長にそうせいと言われてそうしよったが。お前はわしに養われとんやから、せめてそう言うことでもして感謝の気持ちをあらわせ。」

 

あまりたくさん書くときりがないので三つくらいにしておくが、

これが嘘でないなら、住み込みで働いていた時は、毎日朝から夜遅くまで働き、社長家族は米の飯を食べているのに麦飯しか食べさせてもらえず、朝と寝る前は正座して手をついて挨拶するのを日課とされ、たまに夜遅くまで何かの勉強をして能力を身に着けようとしていた。という感じだろうか。

 

父二郎はこの井口産業での経験が嫌だったのだろうが、嫌なことを当の相手には嫌だと言えなかったのだろう。そして、自分より弱い相手ができると、そこに向かって仕返しをしてしまったのかもしれない。

もしかしたら当時井口社長に「お前を住まわせてやっとる。うちの給料でお前は生きている。」というようなことを言われていたのかもしれない。それが私に対しての、「わしがお前を養ってやっとんじゃ。」とか「誰のおかげで飯が食えとんじゃ。感謝を示せ」という言葉に繋がっているんじゃないか。

もっとも、自分が嫌だったことは他人、子供にはしないという考えと意志を持っていてくれれば良かったとは思うところだが・・・・

 

二郎は、井口社長のことを恨んでいたかもしれないが、自分も力を持ったら井口社長のようになってやろうという気持ちもっ強くあったのではないかと思う。

次のようなエピソードから、二郎がそう思っていたのではないかと思うようになった。

 

私が20代後半か30代前半だったと思う。二郎がこんな話をした。

 

「自分が住み込みで働いとったときに仕事で行きよったところが、当時珍しかった喫茶店の裏でな。そこがコーヒーのええ匂いが漂っとった。コーヒーというてもな、コーヒーのガラなんじゃ。ガラが裏のごみ置き場に捨ててある。そこからええ匂がするんじゃ。喫茶店でコーヒー飲むなんて言うのは、その時の自分には夢のまた夢じゃったが、いつかコーヒーを飲んでやろうと思ったもんじゃ。」

私が小学校低学年のころ、夜になって私を寝かせた後、居間で両親がサイホンでコーヒーを入れて飲んでいた。昭和40年代だから、自宅でサイホンコーヒーなんてどこの家でもそうそうしていることではなかった。

数年して、サイホンでコーヒーをたてることはしなくなって、ネスカフェのインスタントになったのだが、一時でも願いをかなえて満足したのだろう。

 

また、母から井口産業についてこんなエピソードを聞いたことがある。小学生にする話ではないのだが。

 

予定より1日早く奥さんが旅行から帰ってくると、井口社長と若い女の浮気の現場に遭遇した。

奥さんが「何しよるの!」と怒鳴ったら、女は片側だけハイヒールを履いて走って逃げていった。

ということが周りの人の語り草になっているのだと。

二郎の度重なる浮気は、自分も浮気が出来るような人間(井口社長のように)になりたかったということがあったのかもしれない。

私が浮気を責めた時、二郎は

「家庭を壊す浮気はいかんじゃろうけど、家庭を壊さん浮気は甲斐性なんじゃが。」

と高笑いをしたことを今でも許せない。

そもそも甲斐性といっても、母も看護師として働いているからこそ、そこ(浮気)に回す金もあるんじゃないか。

 

母の言う通り、父二郎にとって井口産業での経験は人生にとってマイナスであったろうと思う。

しかし、自分にとって嫌な、辛い経験であったとしても、それを昇華し自分の人生に活かす人もいる。

それが出来ず、自分より弱い存在にそのフラストレーションを向ける我が父親を残念に思う。