平成元年、パニック発作後の無理な帰郷で

食事もほとんど摂れず、風呂に入れば夏なのにしばらくガタガタ震える状態。

そのうえ、パニック発作中の胃カメラ検査で消耗しきった私は、ほとんど動けない状況になった。

で、母が看護師として勤める病院に入院することになった。

内科病棟である。

母は小児外科病棟の婦長、内科病棟の婦長は母の後輩であった。

 

入院すると、一日に何回か、仕事の合間に母が様子を見に来ていた。

特に来てほしいわけではなかった。むしろちょっと嫌なくらいだった。

だが、(客観的に考えると) 親として、心配して見に来るのは仕方ないかと思っていた。

しかし、病棟としては、他の病棟の婦長が出入りするわけだから、嫌だったのかもしれない。

 

入院している内科病棟の婦長さんが、私のベットのところに何度か直に話に来た。

婦長「親に何度も来てもらって、恥ずかしくないの?親離れしなさい。」

私「母が来るのがダメなら、僕が頼んでいるわけじゃないので、直接母に言ってください。」

婦長「あなたが親に言うことに意味があるのよ。」

私「・・・・・・?、どういうことですか?」

婦長「あなたが親離れしないといけないから言っているのよ。あなたの為に言っているのよ。」

正直、面倒くさいことを言う人だなあと思った。

 

看護師である母は家にいることが少なく、私は子供の頃、誰もいない家に帰ることが多かった。

子供の頃にそれを母に言って責めたことがあった。

そのことに関しては後悔している。母に辛い思いをさせたと。言わねば良かったと。

だから母は、今更ながらに世話を焼くことで罪滅ぼしをしているのではないかと思っていた。

二十歳も遠く過ぎてから、このように親に世話を焼かれることは恥ずかしくもあったが、

それで母の気が楽になっているかもしれないのなら、入院中はそのままにしておこうという気が有った。

そのことも、内科病棟の婦長には当時話してみたが、それに対してのコメントは無かった。

あまり興味を示さなかったというか、ほぼ無視だった。

 

さらに婦長はこんなことまで言い出した。

婦長「うちの娘は立派に働いているわよ。もしあなたのような人が娘と結婚するなんてことになったら私は絶対反対するわよ。」

 

なんのこっちゃ である。

 

この内科病棟の婦長さんの娘は高校の1年後輩である。

同僚の看護婦の娘さんが、私の通う高校に入学すると、彼女の入学前から母に聞いていた。

向こうも私のことを聞いていたようで、校内で会うとお互い会釈するくらいのただの知り合いだった。

特に親しくしたこともなく、どうして結婚なんて話が急に飛び出すのか意味不明であった。

というか、体調が最悪で入院して、どうして婦長さんの娘と比べられないといけないのか。

 

婦長さんは、私のために言っているというように言うが、全くそうは感じなかった。

ただ嫌な思いが残って、心が傷ついただけである。

しかもそれは一度ではなく、何度も。

 

あらから30年以上経った。

心理学やカウンセリングも多少なりとも勉強したが、

この時の婦長さんの言葉が、本当に看護師として助言か何かのつもりなら、明らかに落第だろう。

私が言うのもなんだが、役に立たないどころか、害がある。

 

一体何だったのか、いまだにわからない。

まあ、今の私にとっては、ただの思い出であるが。

 

 

 

平成元年、強烈なパニック発作を起こした当日に帰郷。

それも多難な一日だった。

今回は当時付き合っていた彼女もいっしょに実家に来ていた。

 

前のブログにも書いたが、

夏の盛りなのに、風呂に入った後は体が冷えすぎて、

毛布にくるまれながらガタガタ震える有様であった。

立っているのもしんどい状態。

 

彼女には帰省したら、唐揚げがめちゃくちゃ美味しいビアホールに連れて行くと約束をしていた。

が、私がそんな状態なので「とても今、外に出て何かできる状態じゃない。」というと、

「じゃあ私は何のために来たの。」と言われ、極めて不機嫌に。

しぶしぶ繁華街に出て行った。

そのビアホールに行ったかどうかは今記憶に残っていないが、

「もう限界、帰る。」と言ってタクシーに乗る時には、

一人で立っていられず、彼女の肩に支えられていたのは覚えている。

 

私が愛知に帰れる状態ではなかったので、彼女を一人で帰し、私は実家に残った。

食事も満足に摂れない状態だったので、胃がおかしいのではないかと、胃カメラを受けることになった。

 

母は看護師。母が勤める病院でいつも私は診てもらっていた。

地元では大きな病院だった。

胃カメラは初めての経験、当時の胃カメラは今のカメラに比べると、随分太い物だった。

カメラを飲む前に、小さなコップの麻酔薬を飲んでのどを麻酔する。

その麻酔薬を飲んだら、息が苦しくなってきた。

息が出来なくなりそうだと思ったら、発作が起こった。

「ちょっと待ってください。息がしにくいです。」

当時パニック発作という言葉も無かったし、医師すらその名を知らなかった。

だから、私もそう言うのが精一杯。他にこの自分の状況を知らせる言葉が無かった。

 

二分か三分は待ってくれたかと思う。だが、医師も痺れが切れたのだろう。

「他の患者さんも待っているから、さあやりましょう。」とカメラを入れ始めた。

医師の手元をつかんで拒んだが、看護師にその手を外されてカメラは体の中に。

とにかく、とにかく苦痛だった。

 

「胃は何ともないですね、きれいですよ。」

病人を見ないで病気を診るとはこういうことを言うのだろう。

まあ、このころ医師すらパニック障害を知らないのだから、無理もないのかもしれないが、

発作が起こっている最中の胃カメラ検査になってしまった。

(もっともその時の私の状態がパニック発作だということは、後から知ったことだが)

 

検査が終わってロビーのベンチでぐったりしていた。

もう座っている元気も無いくらい消耗しきっていた。

通りがかりの看護師さんが何人か声をかけてくれたと思う。

そのうちの一人がストレッチャーを持ってきてくれて、近くの処置室で休ませてくれた。

有難かった。

 

その日何とか家に帰ることは出来たが、ほとんど動けないくらい消耗しきっていたので

結局入院することになった。

 

 

 

 

 

 

平成元年お盆が来た。仕事の休みをもらって帰郷の予定。

今回は当時付き合っていた彼女もいっしょに連れて行く約束をしていた。

 

休みになった当日、朝起きたら突然の不安、動悸、息苦しさ。いきなり発作だ。

あの日の悪夢がよみがえる。

なんとか収まったが、発作に耐えるだけで体力をかなり消耗。

これ、今日帰郷できるの?

と思ったところで、旅支度を整えた彼女が家にやってきた。

 

事情を話し、

「そういうわけだから、帰郷はやめにしよう。」

というと、

「せっかく私もあなたの実家に行くということで有給を取ったのに、どうしてくれるん。無駄にしろというの?」

押し切られて帰郷することになった。

 

列車で約3時間半、それから船に乗るという行程だ。

大阪まで列車で出て、さあ船の乗船手続きというところで大問題。

予約の無い人は当日乗船手続きは出来ません。

なんで???

毎年何度も当日乗船手続きして乗っているよ。

 

実はこの年、この船会社はかなり定員オーバーして運行し、座礁していた。

おそらく、運輸省に大目玉で指導を受けていたのだろう。

私以外の人も数人、窓口で口論になっていた。

「急にそんなこと言われても、ここまで来ているのに・・・・」

「決まりですので」に一点張りでらちが明かない。

「今日ご予約いただければ、明日の便には空きがあります。」

「じゃあ、船に乗るために大阪で一泊しろということか。」とブチ切れる人もいる。

私には、予算的にも体力的にも、その選択肢はなかった。

 

「やっぱり帰郷は止めて、帰ろうよ。」と彼女に言った。

しかし彼女の中には、私の帰郷を辞めるという選択肢は無かった。

「どうすんよ、どうすんよ、どうすんよ。」と、かえってまくし立てられた。

 

隣りの県に行く船会社は、今日乗船手続きできるらしい。

今日の夜の船便で隣り県に行き、翌朝列車で帰郷する。それしか無かった。

朝4時に船が着いた。始発列車は6時過ぎ、駅の構内で仮眠して特急列車に乗った。

特急列車なので、最寄り駅と言ってもちょっと遠い駅だった。駅からはタクシー。

実家についたときは立っていられないほどへとへとだった。

 

実家に付いたら、汗が噴き出ていた。早速風呂に入った。

風呂から出てしばらくすると、ガタガタ震え始めた。毛布を着ても震えは収まらない。

お盆だぞ。夏の盛りだぞ。なんだこれ?

体温を調整できないほど、自律神経が弱っていたのだ。

初めての経験だった。