父が株の信用取引で大損し、自宅住屋と事務所を売りに出さなくてはならなくなった。

それを母良美に説明した時

「え、うそー、信じられない。そんなことないと思う。」

と言い、

詳しく説明すると、再び

「え、うそー、信じられない。そんなことないと思う。」

また同じ説明をすると、

「え、うそー、信じられない。そんなことないと思う。」

と、何十回か繰り返した。

私は、どうして何度説明をしても振り出しに戻るのか、理解できなかった。

そして、これは認知症なのかと思った。

しかしこのときはまだ母の認知は保たれていた。

 

数日してやっと母が父の株の信用取引での大損を認めたと思ったが、私が

清巳「お父さんは自分が株で大損しておいて、矢内電気の仕事を手伝うどころか、毎日寝てばっかりで、自分がどうにかしようと何の行動もせんくせに、株の失敗のことを話して仙谷さん(父の知り合いの不動産屋)に家を売ってもらうように頼んだら、それも気に入らんと怒りまわる。どうやって自分の作った借金を払うつもりか。」

というと、母から出た言葉は、

良美「清巳、お父さんは人より若くして仕事を始めた人なんよ。もうお父さんは十分働いたんやから、今度は清巳が頑張って家族を支えなきゃ。」

 

この時はまだ母の退職金を株にあてたことは知らなかったが、数千万円を株で失い、月々80万円を借金の返済に充てなければならない状況だった。

矢内電気は実際のところ、私が仕事をするほか、二人の職人に外注で発注しているだけの零細企業、しかもバブル崩壊で建設業は大不況、月80万円の利益を上げることも難しく、まして私の作った借金ではない。

それを父二郎は何も働きもせず、私が全部引き受けろということか。

母のその言動に、わたしは絶句した。

さらに「外でお父さんの信用を落とすことは言われん。」

その他いろいろな問答があったが、

つまり母の言うことは、父が株の信用取引をして失敗したことは一切他言せず、毎日寝ている父には何も言わず求めず寝かしておいて、私が働いて借金を返し、父に代わって家族を養えということだ。

母の言うことは私にとってとてもできることではなかった。物理的にも、心情的にも。

 

ある日、そうか善悪の理屈が分からない人だから感情に訴えようと思い立った。

で、私はこう母に訴えた。

清巳「何もかも押し付けられて、私はとてもとても苦しい。」 すると、なんと良美は

良美「ああ、清巳がかわいそうー、私が代わってあげたいー。」 と叫ぶように言うのである。

 

この人何を言っているのか、貴方の言うことで私は苦しんでいるんですよ。

今迄父の二郎に頼りすがって生きてきたのはわかっている。

その父を怒らせない機嫌を損ねない、私にもそういう行動をとらせることが貴方の安心安全なのだろうが、その貴方のやり方考え方が私にとっては苦しいのですよ。

 

私は腹が立ったと同時に呆れていた。少し考えてこう続けた。

清巳「いまの貴方は、溺れまいと私にすがりついて自分は水面から顔を出し、代わりに下でブクブク溺れている私に向かって『ああ、私が代わってあげたい。』と言っているようなものですよ。」

すると母の良美は

「苦しいという清巳に代わってあげたいという親心があんたには分らんのかね。」

答えて私、

「貴方が楽で幸せになりたいのは分かるけど、それは私を苦しめることなんやと言よるんよ。」

こんな問答をしばらく繰り返したのち、論理的に行き詰まった母は

良美「私の幸せがあんたの幸せなんよー」と金切り声で叫んだ。もう意味すら分からない。

 

「子供のことを第一に考えない親はいない。」「子供のためならたとえ火の中水の中」

と言い続けてきた母良美の現実の姿がそこにあった。

私は母と話をすることを諦めた。無理だ。

 

事務所が売れ、住屋も売れて、両親はアパートに引っ越しした。

そして、私がたまにそこを訪ねた時母と話をすると、妙なことに気が付いた。

以前母は私に

「昔お父さんに髪の毛をもって引きずられたことがあるのよ。」

と言っていたが、そのことを改めて言うと、

「そんなことは一度も無かった。」

 

また私が中学生のとき、父の二郎はずっと夜家に帰ってこなかった。何年も。

その時母は中学生の私を捕まえてこう言っていた。

「職場の人に聞いても、男が家に帰ってこないのは外に女がいるというんだけど、清巳はどう思う?」

これも、改めてその話をすると

「そんなことは言った覚えもないし、子供に言うはずもない。」

となる。中学生の時のこの話は一度や二度ではない、何度となく聞いた。それなのにである。

忘れたのか?ボケてきたのか?

 

父の不利になることを外で他言しないように私に言っていた良美であったが、

自分自身も父二郎の自分(良美)に対する悪行を他言しない、というか他言してないことになっている。

自分の退職金全部を父に株につぎ込まれ、あげくに多額の借金まで作られ、良美は自分の人生が大きく狂ってしまった。

人生の危機になってしまった自分が、その原因を作った二郎を責めるよりも、二郎に今まで以上にすがりついて生きていくことを選ぶことで不安から逃れようとしていたのだろう。今はそう思う。

 

 

 

 

 

 

ある日母の良美から電話が有った。

「明日引っ越しを手伝いに来て。」

私は驚いた。

そもそも引っ越しの話を聞いていない。

マンションを買ったというが、その話も初耳である。

 

で、翌日言われた住所に出向くと、妹夫婦と伯父伯母夫婦が引越しの手伝いに来ていた。

父二郎は私の顔を見て少し驚いていた。

どうも私が来ることは知らなかったようだ。

そこそこ片付けが終わり、お茶タイムになった。

 

そこで、初めて知ったのだが、

このマンションは、購入してから壁紙や床の色、部屋の仕様を決めて工事を進めるシステムだったらしい。

そういう話が確か伯父から出て、その流れで義弟と伯父が保証人になった話が出てきたのだ。

それが1年前だという。

完全に私には内緒で進めていた。

伯父は私に内緒にしていたことは知らなかったようだ。だからつるつる話がでてきて状況が私にも分かった。

妹は私にそんな話はしていなかった。1年も期間が有って・・・

もちろん二郎が口止めしていたのだろうが、それにしても・・・・・

 

もちろん私はマンション購入の保証人にはならなかっただろうし、それどころか二郎のすることをいちいちチェックしただろう。

二郎はそういったことも想定して警戒してはいたんだろう。

私のブログ044に書いた通り、父の株の信用取引で大損した時に、

「今(当時)残っている借金を返済しないと家土地を売らせないと銀行が言っている。そのために銀行から金を借りて、その借金残額を返済するように銀行が言っている。その新たな借金は清巳が連帯保証人になることを銀行が条件として指定してきている。だから連帯保証人になってくれ。」

という両親の頼みに対して、連帯保証人にはならないとはっきり断った。

044に書いたように、それ以前に二郎の借金の連帯保証人になったときに、二郎に騙されていた経験が有ったからだ。ここでは詳しく書かないが、ご丁寧に何重にもである。

だから二郎がこのマンション購入の保証人を私に言わなかったことも、まあ分かる。

 

だが、マンションの購入自体を黙っていて、引っ越しも内緒にするということは、親子関係が完全に崩れることになる・・・と私なら思う。

つまり、父の二郎は私と親子関係が切れてもいいというつもりだったのだろう。

そして母の良美がそれを良しとしなかったので直前に私に連絡してきたのだろう。

確かに二郎は自分にとってメリットのない者とは付き合わないようなことを言っていた。

そういうことかと思った。

たとえ子供でも、自分にメリットが無ければ要らないのか。

いや、昔のように二郎の失敗や悪事をなすりつけられて何も言い返せなかった都合の良い私ではなく、

二郎の嘘やズルを暴いて指摘し、言うことを聞かない私の存在は、もはや邪魔でしかないのかもしれない。

 

 

 

ついに私は精神科にかかることにした。

昭和の時代としては、重い決断だった。

母が勤める総合病院の精神科部長の井伊先生に、母から相談してもらった結果、

別の病院の精神科医を紹介してくれた。

それが前述の毛利隼人先生である。

 

毛利先生のところには週一回の精神科面接に行っていた。

薬も出たが、当時は知識も興味も無かったので、どんな薬だったか全くわからない。

薬は効いているのか効いていないのかよく分からなかったが、

先生はよく話を聞いてくれた。

私のそれまでの仕事や婚約者との様々な経緯から、体の気になるところの話など。

前ブログで書いたが、最初の医療面接での先生の言葉は

 

「君はとてつもなく大きな超自我を作ってしまったんだね。」

 

というものだった。

私が悪いとか、私が弱いとか、そういうことは何も言われなかった。

ホッとした。

私は「君が弱いからだ。」と責められるのかと思っていたからだ。

 

面接を重ねていくと

人生では少しもミスも許されないという思いが自分の中に有ることに気が付いた。

それは子供の頃から何度となく父の二郎から言われた言葉だった。

「たった一つのミスで積み上げてきた全ての物を失うんだ。」

「社会では100点でなければならない。お前のように98点で満足していられるのは小学生のうちだ。」

 

そんな父の言葉も知らない毛利先生だったが、先生の言葉は違った。

 

「君は完璧主義のようだね。人生は70点で合格なんだ。」

 

えっ、それでいいの。

 

またある時、自分の至らなさを思い知りうなだれていると、毛利先生はこう言われた。

 

「人は自分の弱さを認めた時から、強くなれるものなんだよ。」

 

自分の弱さを認めれば、自他ともに認める弱い人間となってしまうのではないのか?

私は強くなれるのか・・・・・・・そう言ってもらえるんだな。

私の心は少しずつ救われていった。

 

ただ体はというと、ずっとしんどい状態が続き、抜け出す兆しが無かった。

故に、仕事ができる状態にはならなかった。

 

約半年経ったとき、

「君はこんなこと(専ら治療生活をしている事)をしていてはいけない。」

「君はまだ若い、社会の中で生きていかなくてはならない。」

「私の治療は今日限りで終わる。」

と突然言い渡された。青天の霹靂だった。

治る兆しが見られない私にとっては、匙を投げられたと思った。

信頼していたのに裏切られたと。

 

もう私は自分でどうにかするしかないと思った。

そして、少しづつ父の家業を手伝いながら、仕事ができるようになっていった。

 

その間、いや、今でも、毛利先生の言葉は私を支え続けている。

今は、毛利先生が「私の治療は今日限りで終わる。」

と言って頂いたことに心から感謝している。

あの時の私を一番信じてくれていたのは毛利先生だったのだと思う。