私が家業の矢内電気の仕事をはじめ、1年後には父の二郎は仕事をほぼ私に任せっぱなしになった。
体が動く今のうちに社交ダンスの競技会に出たいという理由で、
しばらくお前が矢内電気を切り盛りしとってくれということであった。
まだ私が何も分からない時に父は仕事から離れたため、私は役所の人や元請けの建築屋の人たちに頭を下げ、教えを乞いながら、分からないことを一つずつ解決し仕事を進めていた。
二年くらい経ち、何とか難なく仕事をこなせるようになってきたとき、
気が付けば、一部の人が陰で私のことを『何にも専務』と呼んでいた。
矢内電気はインター住宅とビルメンテナンスという二つの建築会社の下請け工事をしていた。
父がインター住宅の仕事に全く顔を出さなくなったので、インター住宅関連の人たちは
「社長は(父)ビルメンテナンスの仕事に専念しとんの?」と私に問い
私は一応「そうなんです。」と答えていた。
ビルメンテナンスの人たちは「社長はインター住宅の仕事に専念しとんのか?」とやはり私に問い
私は同じく「そうなんです。」と答えていた。
誰も全くのド素人が1年そこそこで全部の仕事をこなしているとは思わなかったのだろう。
私も敢えて自分が両方の建築屋とも営業、見積から現場管理、請求までの業務を全部しているとは言わなかった。敢えて言う必要はないと考えていたのだ。
するとある日、インター住宅関連の人にこんなことを言われた。
「矢内君、君はインター住宅の現場管理の仕事はしているが、ビルメンテナンスの仕事は社長(父の矢内二郎)、社長業(資金繰りや経理その他業務)も社長がしているわけだよね。君はそれだけの仕事で一人前の給料をもらっているのかね。」
気づいたときは『何にも専務』と呼ばれていた。
本当はインター住宅の仕事もビルメンテナンスの仕事も、営業、見積、現場管理、請求、経理の仕事も私がこなしていた。このまま何も言わないでいたら『何にも専務』という誤解が事実のように広まってしまう。
これではいけないと思った私は、何かチャンスがあれば自分がしている仕事の本当のところを皆に言って誤解を解消しようと考えた。
ある日そのことを母の良美に話した。
清巳「僕は最近インター住宅の人に『何にも専務』と言われとんよ。インター住宅の電気工事の現場管理だけで、大した仕事もしてないのに一人前の給料もらっとると言われて。」
良美「それはいかんね。」
清巳「ほうやろ、じゃけん今度なんかの折に、どっちも僕が仕事をしよるとインター住宅の人にもビルメンテナンスの人にも言をうと思いよんよ。」
良美「そんなことしたらいかん。」
清巳「え、何で?」
良美「そんなことしたら、お父さんが何にもしよらんことになって顔がつぶれる。」
清巳「ほんなら僕が事実仕事を全部しよんのに、『何にも専務』と呼ばれたらええと言うこと?」
良美「それはいかんね。」
清巳「ほうやろ、じゃけん今度なんかの折に、どっちも僕が仕事をしよるとインター住宅の人にもビルメンテナンスの人にも言をうと思いよんよ。」
と、わざと一字一句同じ文言で言った。すると
良美「そんなことしたらいかん。」
清巳「え、何で?」
良美「そんなことしたら、お父さんが何もしよらんことになって顔がつぶれる。」
清巳「ほんなら僕が事実仕事を全部しよんのに、『何にも専務』と呼ばれたらええと言うこと?」
良美「それはいかんね。」
清巳「ほうやろ・・・・・・・・・
一字一句違わないこのやり取りが延々と繰り返された。
1クール2分とすると、10クール20分は少なくとも繰り返された。
最後は私が根負けして言うのを止めた。
母が言うのは結局、
たとえそれが事実であっても、私がどう言われようとも、父の顔を立て続けろ・・なのだろう。
もちろん私は両方の元請建築屋に事実を伝えた。嘘ではないのだから。