平成10年4月、父の二郎が私に話があるという。

開口1番

二郎「わし・・・・てんごした。」

30年以上聞いたことがない大阪弁であった。

父は小学5年生まで大阪で育ったが、大阪弁を使ったことは今まで一度もないのに。

私は大方の見当はついていた。

 

それは、亡き私のパートナー真由美さんが矢内電気で私の仕事を手伝ってくれていた時の事、

ゴミ箱の中から変な紙切れを取り出し、

「これ何???」

と私のもとに持ってきた。

それは証券会社の領収書、額面260万円

始めは何か分からなかった。その次の週は額面200万円の領収書

その次の週は額面180万円の領収書

どうも父二郎が株をしていたが、それの損失ではないかと思っていた。

そして「わし・・・・てんごした。」であるから、

株で大損してしまったと素直に言えない二郎が、「てんごした」と濁して言ったんだと思った。

 

その予想は的中であった。

もう銀行から資金が借りられなくなって行き詰まったらしい。

「でものう、家を二軒とも売ったら無くなるくらいの借金しかしてないけん。」と二郎

いやいや、担保物件で返せるくらいしか銀行は貸さないんだから自分が加減したみたいに言うなよ、である。

清巳「ほんでも、株が下がった言うても倒産しとらなんだら下がったなりの価値が残っとるやろ。」

二郎「いや、わしは信用取引しとったけん、株券は買うてない。」

清巳「信用取引?それ何?」

それまで信用取引というものを知らなかった。この時二郎に説明を聞いて初めて知った。

清巳「じゃあ結局なんぼ負けたん?」

二郎「わしは過去を振り返らず、未来を向いて生きる人間やから過去のことは言わん。」

清巳「屁理屈言わんとちゃんと言え。」

二郎「絶対に言わん。一生言わん。」

何じゃそれ。

 

 

 

 

 

私が家業の矢内電気の仕事をはじめ、1年後には父の二郎は仕事をほぼ私に任せっぱなしになった。

体が動く今のうちに社交ダンスの競技会に出たいという理由で、

しばらくお前が矢内電気を切り盛りしとってくれということであった。

まだ私が何も分からない時に父は仕事から離れたため、私は役所の人や元請けの建築屋の人たちに頭を下げ、教えを乞いながら、分からないことを一つずつ解決し仕事を進めていた。

二年くらい経ち、何とか難なく仕事をこなせるようになってきたとき、

気が付けば、一部の人が陰で私のことを『何にも専務』と呼んでいた。

 

矢内電気はインター住宅とビルメンテナンスという二つの建築会社の下請け工事をしていた。

父がインター住宅の仕事に全く顔を出さなくなったので、インター住宅関連の人たちは

「社長は(父)ビルメンテナンスの仕事に専念しとんの?」と私に問い

私は一応「そうなんです。」と答えていた。

 

ビルメンテナンスの人たちは「社長はインター住宅の仕事に専念しとんのか?」とやはり私に問い

私は同じく「そうなんです。」と答えていた。

 

誰も全くのド素人が1年そこそこで全部の仕事をこなしているとは思わなかったのだろう。

私も敢えて自分が両方の建築屋とも営業、見積から現場管理、請求までの業務を全部しているとは言わなかった。敢えて言う必要はないと考えていたのだ。

 

するとある日、インター住宅関連の人にこんなことを言われた。

「矢内君、君はインター住宅の現場管理の仕事はしているが、ビルメンテナンスの仕事は社長(父の矢内二郎)、社長業(資金繰りや経理その他業務)も社長がしているわけだよね。君はそれだけの仕事で一人前の給料をもらっているのかね。」

気づいたときは『何にも専務』と呼ばれていた。

 

本当はインター住宅の仕事もビルメンテナンスの仕事も、営業、見積、現場管理、請求、経理の仕事も私がこなしていた。このまま何も言わないでいたら『何にも専務』という誤解が事実のように広まってしまう。

これではいけないと思った私は、何かチャンスがあれば自分がしている仕事の本当のところを皆に言って誤解を解消しようと考えた。

 

ある日そのことを母の良美に話した。

清巳「僕は最近インター住宅の人に『何にも専務』と言われとんよ。インター住宅の電気工事の現場管理だけで、大した仕事もしてないのに一人前の給料もらっとると言われて。」

良美「それはいかんね。」

清巳「ほうやろ、じゃけん今度なんかの折に、どっちも僕が仕事をしよるとインター住宅の人にもビルメンテナンスの人にも言をうと思いよんよ。」

良美「そんなことしたらいかん。」

清巳「え、何で?」

良美「そんなことしたら、お父さんが何にもしよらんことになって顔がつぶれる。」

清巳「ほんなら僕が事実仕事を全部しよんのに、『何にも専務』と呼ばれたらええと言うこと?」

良美「それはいかんね。」

清巳「ほうやろ、じゃけん今度なんかの折に、どっちも僕が仕事をしよるとインター住宅の人にもビルメンテナンスの人にも言をうと思いよんよ。」

と、わざと一字一句同じ文言で言った。すると

良美「そんなことしたらいかん。」

清巳「え、何で?」

良美「そんなことしたら、お父さんが何もしよらんことになって顔がつぶれる。」

清巳「ほんなら僕が事実仕事を全部しよんのに、『何にも専務』と呼ばれたらええと言うこと?」

良美「それはいかんね。」

清巳「ほうやろ・・・・・・・・・

 

一字一句違わないこのやり取りが延々と繰り返された。

1クール2分とすると、10クール20分は少なくとも繰り返された。

最後は私が根負けして言うのを止めた。

母が言うのは結局、

たとえそれが事実であっても、私がどう言われようとも、父の顔を立て続けろ・・なのだろう。

もちろん私は両方の元請建築屋に事実を伝えた。嘘ではないのだから。

 

 

前回述べた通り、父の二郎は昼間は家で仕事をしていたが、夜はどこか別の場所で過ごしていた。

 

母は夕食の後、妹の妙子が自分の部屋に行くのを見計らって、中学生の私によくこぼしていた。

良美「職場の人は男が家に帰らない時は必ず女がいると言うんだけど、清巳はどう思う?」

私が「僕もそう思う。」というと

「やっぱりそうよね。」

こういう会話が何度かあった。

(もっとも、私が30代になって「昔こんな話をしたよね」というと、母は子供にそんなことを言うはずないから絶対に言ってないと言い張っていましたが。)

 

実は家に帰ってこないだけでなく、この頃無言電話が一日に何十回も掛かってきていた。

それも父の女の存在を疑わせるものだった。

父の二郎はそのことについて

「飲み屋の女がかけてきとんじゃろう。最近呑みに行ってないけん。」

と言っていたが、それなら一日に20回も30回も無言電話をかけるものかと私も母も思っていた。

 

もっとも家で寝ないということは、夜はどこか(多分女と)で寝ているわけで、この無言電話もつじつまが合わないので不思議であった。無言電話ということは、恨みつらみがあって、仕返しか当てつけなんだろうから。

 

私が20代になって、父の家業である矢内電気の仕事をするようになると、電気業者以外の職種の職人とも話をする機会が増えた。

そうするとある大工の親方がこんなことを言った。

「お前の親父が温泉街から連れて帰った女は今どうしとんぞ。」

何のことかと聞くと、あまりに呆れた話が出てきた。

当時建築業界では、年1回ほぼ全ての業者が観光バスを数台貸し切りで温泉街に慰安旅行に行っていた。

10年以上前のある年の慰安旅行、やはり温泉街に行ったそうだが、そこでねんごろになった女が居たそうだ。父の二郎は

「この女を連れて帰るけん、お前ら先に帰っといてくれ。」

と言って帰りの観光バスに乗らず、別行動をしてその女を地元に連れて帰ったというのだ。

その時期と、父が家に帰らなくなり無言電話が掛かってくるようになった時期とがそう遠くないのだ。

この話は大工だけでなく、他の業種の親方からも聞いた。

 

それ以外にも父のあらゆる行状が私の耳に入ってきた。父のそういう行動はみんなのひんしゅくを買っていたのだろう。わざわざ子供に言うような内容ではないと思うのだが、敢えて複数の人が私にそのような女性がらみの話をしたということは、余程たまりかねていたのだろう。