私は26歳の時から、自分がなぜ今のような生きづらい自分であるのか、それを子供の頃の思い出を紐解きながらずっと考えてきた。それももうこの頃には10年以上になる。30代後半になっていた。

子供の頃に自分が思い込んでしまったもの(ビリーフあるいはスキーマ)を書き換える作業をしていた。

元々は仏教の四聖諦(苦集滅道)のつもりで、論理療法を知ってからはビリーフの書き換えとして行っていた。

一定の効果は有ったものの、当初自分が期待していたほど全てが楽になったわけではなかった。

 

まあ、それはそれ、何故ここでこんなことを言うかというと、思いついたのだ。(30代後半の時)

私が今の生きづらい私であるには、それ相応のことがあってのことだが、母がこういう母であるにも、父がこういう父であるにも、三木菱さん(祖母と思って一緒に暮らしていた人)がこういう三木菱さんであるにも、それ相応のことが彼らのルーツに在るからだろう。

 

どうして今の私が今の私であるのかをより理解するために、彼らがどうしてそういう彼らであるのか考えてみることにしたのだ。

 

今回は母良美である。

 

 

母の父は戦死して、母はその顔も直に見たことがない。

母の母、すなわち祖母はその実家に身を寄せた。しかし祖母は母が3歳の時に病死している。

母は母の祖母の家で育てられた。瀬戸内のとある島である。

母の祖母は山で仕事をしていたので、母の面倒は母の叔母たちが主に看ていたらしい。

その叔母の一人が三木菱さん。もう一人の叔母は『おていさん』、私が生まれた時には既に他界していた。

母は三人の親代わりに育ててもらったのだ。

 

自分の父親は生まれながらに知らず、母は自分が3歳の時に病死しているので、

母良美はおそらく自分は生きていけるのかと、とてつもなく不安な3歳であったかもしれない。

3人の親代わりの言うことは何でも聞かねば生きていけない。そう思っていたかもしれない。

すがるような思いで生きていたのだろうと思う。

おそらくそれが、依存性パーソナリティー障害(医師の診断でなく私が思っている)の大きな原因になっているのだろう。

「お父さんと結婚したのも菱さんが『ええじゃろう』というたから。お菱さんも亡くなり、この上お父さんもおらんなったら、私は誰の言うことを聞いて生きていったらええん・・・・・・・・・・・」

と言った母の言動も、このあたりにルーツがありそうだ。

 

母は小学校、中学校とも成績優秀、と言っても体育や音楽、図工は別だが。

三木菱さんの言いつけを守りよく勉強したらしい。

菱さんは私清巳と母良美を比べて「お前(清巳)はわしの言うことを聞かん。良美はよう言うこと聞いたぞ。」

とよく言っていたが、母は自分が生きていくために叔母たちに決して逆らわず、言われることを一所懸命にしたのだろう。その分、自分でものを考えないし、融通が利きづらい。

母良美の中学の恩師梶原先生の奥さんが母に付けたあだ名は、コンクリートだそうだ。

流し込まれたらそのままの形でカチカチに固まって、後で形を変えられない。  なるほど!

 

だが、人の言うことを良く聞き真面目な性格であるから、大人にはとても好かれたようだ。

母の中学の恩師梶原先生は、中学卒業で就職させようとした母の祖母に対し、

「こんなに優秀な子を勿体ない、看護学校に進学させるべし」と直談判し、母の祖母を説得。

母良美は看護師になる。おかげで、実家の家土地、山は祖祖母の死後、人手渡ったそうだが。

恩師も進学する母良美の通知表を(無理に)オール5にしたのは過去にブログで書いた通りだ。

 

母は自分でものを考えようとしない。すがって生きていく対象の人に決めてもらおうとするし、その人の機嫌を取るのになんでも献上する。

自分の退職金を「私は世の中に疎いから、」とすべてのお金を父に渡したりするのもそういうところだろう。

また自分の子供も献上する。(父の二郎に) そういう経験が私の記憶には多々ある。

 

母と話をしていると、母の都合の悪いことが忽然として母の記憶から飛んで無くなってしまうことがよくある。

防衛機制の否認に近いと思う。否認は抑圧と違って、原始的、幼児的な防衛機制だ。

本当にある種、幼児と話しているみたいに思うことがよくあった。

母良美の母松子が亡くなった3歳の時、母の人間性の成長が一部止まってしまっていたのかもしれない。

文字通り、三つ子の魂百までである。

 

母は既にこの世にいないが、晩年は認知症と診断されていた。

義弟は母のことを本当の認知症ではないと言っていた。

というのも、義弟の父が認知症で、その症状は良美の比ではなかったそうだ。

私も良美の認知症に疑問を持っていた。

良美は私を見ても誰かわからない。でも、父のことも分かる、妹のことも分かる。姪っ子(孫)のことも分かる。義弟(妹の配偶者)のことさえも分かる。

私は当時、父二郎に逆らい、家族の間に波風を立る。

良美にとって私は、自分の依存生活を脅かす存在だったのだろう。

 

また、火の始末が出来ず、料理が出来なくなったが、自分で服を着れる。便コネもしない。

父に電話をしても繋がらず、「自分が今どこにいるのか分からない」とバスターミナルから私に電話をかけてきた時や、マンションの知らない部屋に入ろうとして警察に通報された時は、父が決まって社交ダンスに出かけた時である。父の浮気相手が社交ダンスのパートナーであったことをおそらく母も気づいていたのだろう。

正面切って父に意見することは無かったが、これが母の父に対する抵抗だったのだと思う。

 

そして「私はなーんにも分からない。」と誰に聞かれなくても自ら言い放っていた。

母の認知症は、防衛機制の延長に見えた。

何もできない自分に退行すると、誰かが自分の世話をしてくれる。

自分のとって都合の悪いものは見ない、しない、認めない、である。

 

数年前、母良美は亡くなった。位牌のそばに家族の写真が飾ってある。

その写真には、ベット上の母、父の二郎、妹の妙子、義弟、姪っ子二人の姿が映っている。

私の姿はそこにはない。

 

 

平成10年、父が株で大損し

平成11年、事務所の家土地、住屋の家土地が売れ、株の借金を清算できた。

 

家業の矢内電気は仕事のほとんどを私がしていた。父の二郎は月一、二日程度の仕事内容だった。

で、私は二郎に言った。

清巳「矢内電気に戻ってまた仕事をしたらどうなん。」

二郎「何でぞ。」

清巳「何でって、自分が株で大損して家土地まで全部無くしたんやろ。お母さんの退職金も全部棒に振ったんじゃない。また仕事をして取り返そうとか思わんの?まだ定年の歳にはなってないよ。」

 

言われて嫌なことだろうことは分かっているが、私は当たり前の事を言っているつもりである。

二郎「何言よんぞお前は、お前に給料を払ちゃりよんのはこのわしぞ。」

清巳「給料を払ろちゃりよる言うても、その払うための売り上げをあげる仕事は何年も前から僕一人がしよるよ。僕は自分が働いて報酬を得とんよ。」

二郎「社長はわしじゃが。お前はわしから給料もろうとる身分じゃろが。」

 

と再び言う。その時の私はそれで引き下がるアダルトチルドレンではなくなっていた。

清巳「実質働いとんのは僕よ。僕は自分の働きの報酬を得とるだけ。父さんはほとんど働いてないのに飯食えとるやろ。それがおかしいとか、有難いとか思わんの?いつも矢内電気を創立したのはわしじゃとか言うけど、何十人も従業員がおる会社じゃないんよ。矢内電気は専従者が一人だけの零細個人事業よ。本来自分自身が働かずに飯が食えるわけないやろ。」

 

こう言うと二郎が激高するだろうことは分かり切っていた。

二郎「創立者というのはそれでええんじゃが。世の中とはそういうもんじゃ。それが気に入らんのなら矢内電気を辞めて出て行け。」

私の収入源はほとんど矢内電気。(ほとんどというのは、職人さんたちが私を気の毒がって、職人自身が取ってきた仕事の電気設備の申請業務を、「矢内電気じゃなくてあんた自身に頼みたい」と言われて、矢内電気設計エージェントという名前で、わずかながら別収入があった。)

気に入らないことを言うなら収入源を断ってやるぞ。それでも言うのかということだ。

二郎の最終兵器、生殺与奪権発動である。

だが、孫子の兵法053に書いたように、この最終兵器は読めていた。

 

実際私が辞めたら、困るのは二郎である。

8年間現場から離れていた間に、インター住宅の建物の構造も変わり、仕事の仕方も全く変わっていた。材料単価も仕入先も変わっていて、二郎が仕事に戻ったところで今度は二郎が右も左も分からないだろう。

二郎自身も分かっているはずだが、私は二郎の言うことに逆らえないと思っていたのだろう。

 

清巳「そう、分かった。株で大損してからの一連のことは、職人にもインター住宅にもビルメンテナンスにも話してある。そしたら職人さんたちは、僕から直接仕事を請けたいと言いよるんよ。インター住宅の沼田部長も僕に直接仕事を出してもいいと言ってくれとる。『いつでも言うて』と。ビルメンテナンスの森山常務も同じじゃ。森山常務なんかは『お前、ろくでもない父親を持ったもんやな。』と言うくらいじゃ。あの人らしい言い方じゃわいな。ほんなら明日から矢内電気じゃなく、矢内電気設計ということで仕事しょうわい。」

 

そういうと、細々とした声で

二郎「…待ってくれ…」

清巳「待ってくれって何?気に入らんのなら矢内電気を辞めいと言うんやろ。だから辞めるよ。」

二郎「待ってくれ・・・・それじゃわしが食えんなる。」

清巳「じゃあ、どうするん?」

二郎「今まで通りにしてくれ・・・」

 

働く気は無いんかい!

と思いはしたが、これ以上やり込めなかった。弱弱しい声だったので。

結局その後も、働かない二郎の生活費、小規模企業共済なども矢内電気から出し続けた。

 

上述の職人さんや建築屋さんが私と仕事をしてくれるという話は

実はあの時とっさに思いついた嘘、はったりである。

いつか私が、二郎にとってあまりに気に入らないことを言をうものなら、おそらく矢内電気を辞めさせるだの、給料をやらないだのということが二郎の口から出てくるだろうとは思っていたので心の準備があった。

だからこそ、その時点で冷静に嘘ではったりをかます余裕があったのだろう。

予想に反してちんけな幕切れではあったが。

二郎の生殺与奪権発動にこのような逆らい方が出来たのは初めての経験だった。この時既に30代後半。

 

最後に父がぼそりと言った。

「下剋上じゃのう。」

 

もしも私が矢内電気の職人や得意先と直接取引を始めて、収入が入らなくなった二郎に対し、飯を食いたければ私の下で働けということなら、それは下剋上かもしれないが、それはしていない。

もしそうしたことをしてしまえば、私は二郎と同じ穴のむじなになってしまう。

私から見れば、定年の歳でもない大の男が、息子の働きと女房の年金(以前は給料)で飯を食って、自分は働かないばかりか株で大損したわけだから、とにかく普通に働けということを言ったまでである。

言われたことが気に入らないで、生殺与奪権を盾に取ってみたものの切り返された。そういう話である。

 

だが、二郎にとっては下剋上なのであろう。

そういえば私が子供の頃よく言っていた。

「世の中は下剋上じゃ。強い者が勝ち、弱い者が負けるんじゃ。」

今回は自分が負けたという自覚があるということなのだろう。

 

 

 

平成10年、父の株の大損が発覚し、それに対する父の対応もあまりにあまり。

いくら負けたかは言わない。その理由は自分は過去を見ないで未来だけを見て生きる人間なんだとか。

父も矢内電気に戻って、少しでも借金返済のため働くように言うと、「そんなことしても焼け石に水」だそうだ。

家を売って借金を返すことに奔走するわけでもない。

ただ家で布団をかぶって昼間も寝ている。

 

それなのに一人働いている私に、すまないも有難うの一言もないどころか、お前に給料を出してやっとんはわしじゃと言い張る。

確かに矢内電気の代表者は矢内二郎のままだが、私に出す給料の元になる事業収入を挙げているのは実質私だけである。その事業収入から私の給料も出ているが、二郎の給料たる事業主貸からその他実質の生活費や借金の返済(不動産ローンとカードローンの返済)も出ているわけだ。

 

家族は(母と妹)、父二郎は自分が食べれなくても息子の私だけに給料を出していると信じ込んでいる。

親戚一同は二郎が株で大損したことは知らず、家を売るのは私に事業を譲ったが、事業が上手くいかない為と説明している。もちろん二郎の説明によるものだが、ついでにそういう無力な息子を庇ういい父親になってもいる。

 

本当のことが分かっているのは、私のパートナーの真由美さんだけ。

私はとにかくこの時の二郎の言動行動が我慢ならなかった。

真由美さん一人分かってくれてはいたが、それでは自分が納得いかなかった。

 

それで思いついたのは、誰かに手紙を書いて真実を分かってもらおうということである。

先ず人選だ。誰に書くか。先ず三人の候補を挙げた。

父の実の兄、和春伯父、茨城県在住

父の妹の配偶者、国広叔父、県内在住

母の中学時代の恩師、梶原先生、県内在住

一番道理を重んじてくれるだろうということと、父へはっきりものを言えるということから、和春伯父に決めた。

 

手紙を書き始めたら、あれもあれもと言いたいことが山のように出てきた。収拾がつかない文章になる。

それを何度も何度も整理し、校正した。

自分の感情が表にあまり出てしまうと読み手が嫌たく感じるだろうと、一字一句を吟味して、事実だけを伝えようとした。幾日も幾日もそれらを繰り返し、納得いくものに出来上がるのに4カ月を要した。

 

ところが不思議なことに、いざ出来上がったら、手紙を出して自分の気持ちや真実をどうしても分かってもらいたいという気持が、どこかへ消えて無くなっていた。

手紙もしばらくは出さずに置いていたが、半年位して捨ててしまった。

 

心理学を勉強していた私は、それより随分後になって、出さない手紙を書くという心理療法があることを知った。自分でも知らないうちに自ら心理療法をして、心が整理されたのだと分かった。