匠の謙遜な態度を大いに褒めそやした殿様は、匠の気持ちを汲んで、
奥方様への贈り物を見事作り上げたご褒美を、匠だけでなく職人町の親方たちにも取らせました。
さらに、祝いの日にめでたいことが重なったので都の町なかでも酒がふるまわれ、
都の人々は名君のはからいを口々に誉めたたえ、この喜び事をみな総出で祝うのでした。
そして、この春最初の桜のつぼみが開く頃、
殿様と奥方様と、屋敷じゅうの人々に盛大に見送られて、
匠と女房は都を出発しました。
途中で職人町を通り過ぎると、
「また来いよ!」
「さびしくなるな」
「隣の親方が、急な仕事が入って見送りができないって残念がってた。
くれぐれもよろしくって言ってたぞ」
「かみさん共々元気でな!」
「その気になったらいつでも俺の弟子になってくれよ」
「またぜひ一緒に仕事しよう!」
と、あちこちの軒先から声が上がり、
匠はそれぞれに応えながら、嬉しさに涙ぐんでいました。
女房はそんな匠の姿を見守って、
温かい気持ちに満たされていました。
賑やかな街並みを離れ、いよいよ山道にさしかかる頃、
匠と女房は空気の匂いが変わるのを感じました。
匠は両手を広げて、その空気で体の中を満たそうとばかりに、いっぱいに吸い込みました。
「あぁ…山の匂いだ。
都はいい人がいっぱいいて楽しかったけど、やっぱりこの匂いが落ち着くなぁ。
この調子で歩けば、山の桜が開くより前に家に帰れそうだな?」
と、匠が嬉しそうに言ったその時、
女房がへたりと崩れ落ちました。
「どうした、おい、しっかりしろ⁉︎」
女房は、
動揺する匠が自分の肩を揺すり、
目に映る泣きだしそうな匠の顔が、急激に曇っていくのを感じながら、
「…ごめんね。
あの木のそばへ、連れていって…」
そう言って気を失いました。
匠はもちろん、女房自身ですら初めは気づかなかったのですが、
どこででも生きられる野草とは言っても、湿り気の多い鬱蒼とした森の中で生い立った女房にとって、
都の乾いた空気と塩分の強い海風はあまりにも異質な環境で、
それが大きな負担になっていました。
その上、冬の間じゅう屋敷の中で奥方様に仕えていたために、
ほとんど土に触れられなかったことも、女房の力を奪っていきました。
さらに、四六時中 匠のそばにいた里での生活とはうって変わり、
二人それぞれが忙しくなって一緒に過ごせる時間が減ったことで、
女房は人間の姿を保つことすら難しくなっていたのですが、
それだけはいやだと気を張り詰め続けて、もはや限界に達していたのでした。
しかしそうとは知らない匠は、
どうしてこんなことになったのかと混乱しながら、
それでもいちるの望みに賭けて、
二人が出会ったあの木のそばへ女房を連れて行こう、それだけを考えて、風のように走り続けました。
匠に背負われている女房は、その肩に頬をあずけながら、
終わりの時が近づいている自分がまだ女の姿でいられる、まだ匠に愛されていることが単純に嬉しくて、
必死な匠に申し訳ないと思いつつも、この旅路をまるで蜜月のように感じていました。
いつしか日は沈み、空に辛うじて浮かぶ消えかけの下弦の月は、
二人の道行きを照らすにはあまりにも頼りない、弱々しい光を灯していました。
ちょっと短めですが、
キリがいいのでここまでで。