まだ浅い春の朝、桜のつぼみはやっと膨らみかけたところでしたが、
霞のたなびく空は天女のまとう薄衣のように、これから来る季節への期待感を包んでいました。
主君と奥方様が迎えた大きな節目の日を祝うため、
並んで座った殿様と奥方様の前には、家臣たちがうち揃い、
下働きの者たちもみな庭に集まりました。
おごそかな挨拶が済むと、
小さな箱を捧げ持った匠が現れて、
広間の縁に座して一礼しました。
「このたびはおめでとうございます。
こちらは殿様より奥方様への、
お祝いのしるしでございます。
奥方様、どうかお納めください」
匠の述べる口上はよく響き、女房はじぶんの夫の、初めて聞く声音にどきりとしました。
殿様が広間に上がるように促すと、
匠はすっと立ち上がり、広間の中央に進み出て、
無駄のない仕草で箱の蓋を開け、中のものを取り出しました。
それは、
花をかたどった磁器の香炉でした。
「まあ、」
奥方様は、こんな趣向が用意されていたことに驚いていましたが、
自分への贈り物、と言われたものに目を注ぎ、
青白い光を透かして、あたかも本当に咲いているかのような花の佇まいに、うっとりとため息をつきました。
「きれい…」
殿様は奥方様のそんな様子を満足げに眺め、
奥方様は殿様の温かい視線に笑顔で応えました。
「よくやってくれた…ごくろうであった」
殿様は匠にねぎらいの言葉をかけ、
それにしてもなぜ香炉なのか?と尋ねました。すると、
「それは、わたくしが申しましょう」
と、奥方様が言いさしました。
そして、匠と、庭の奥に控えているであろう女房にも聞かせるように、
ゆっくりと話し始めました。
「そなたが、はな の夫なのですね。
わたくしのために、よくぞ長い間働いてくれました。
贈り物、たった今見たばかりですが、たいへん気に入りました。
この香炉…
わたくしと、はな を出会わせる仲立ちとなり、わたくしの元気の源であったのが花の香りだったから、
そなたがこれを考えてくれたのだとよくわかります。
合わせた香も、はな の匂いにそっくりで…よく作ることができましたね」
奥方様がひどく感心して言うので、匠は思わず口を開きました。
「いや、実はその香はおいらが作ったんじゃないんです。
おいらは香炉を作るのに手一杯だったし、
香合わせっていうのは難しすぎて、おいらにはとてもできないと思ったんで、
職人町の調香師のところへ女房を連れて行って、
こいつと同じ匂いを、って頼んで作ってもらったんです。
それに、おいら磁器を作るのも初めてだったから、
職人町のみんなに助けてもらわなければ、
一人じゃなんにもできませんでした。
だから殿様、奥方様、これはおいらっていうよりも、
職人さんたちみんなの力でできたものなんです」
さっきの凛とした口上とは別人のような匠の声と口調に、奥方様をはじめ一同はきょとんとなりましたが、
殿様は匠の正直な言葉に相好を崩しました。
「おぬしはつくづく面白い男だ。
何も言わなければ、おぬし一人の手柄にもできようものを、
職人たちへの敬意を忘れず、自らは決して高ぶらない。
気に入った。天晴れな心がけだ。
だがおぬしがどんなにへり下っても、
おぬしがどれほど立派な仕事を成し遂げたかは、その香炉が物語っている。
なるほど、職人たちの技術に頼りもしたのだろうが、
何よりもおぬしの奥方への思いやりがなければ、
これほど奥方を喜ばせるものは生まれなかっただろう」
奥方様も微笑んで言いました。
「はな も巻き込んでいただなんて、
そなたと はな は、よく心が通じあっているのですね。
殿、この場を借りて申しますが、
はな には本当に世話になりました。
わたくしよりもずっと若いのに、
まるで姉のように頼もしく、わたくしを支えてくれたのです。
わたくしはどんなに助けられたでしょう。
そのうえ夫のそなたも、わたくしのためにこんなに素晴らしいものを。
ほんとうに、ほんとうにありがとう。
そなたたち二人の骨折りに対して、
わたくしからは何も用意がないのが心苦しいのですが、
もし、そなたたちもともに喜んでくれるなら…」
奥方様はここまで言うと、
恥ずかしそうにうつむいてしまいました。
どうした?と心配そうに近寄った殿様に、奥方様が何か耳打ちすると、
殿様の表情がぱっと輝きました。
「皆、喜べ!奥方が懐妊した!」
殿様のひときわ明るい声と、
待ちに待った嬉しい知らせで、
一同は喜びに沸き立ちました。
庭の片隅に控えていた女房は、
匠の作った贈り物が奥方様に喜ばれ、匠が殿様に褒められて、まるで自分のことのように誇らしい気持ちでしたが、
それに続く殿様の一声、
そして次々と上がる「おめでとうございます」の声と、重臣も下僕も一緒になって喜び合う姿を見ているうちに、
嬉しさなのか安堵なのか、涙が頬を伝うのを感じました。
ふと気がつくと、
いつの間にか隣に匠が立っていました。
「よかったなあ…うん、よかった」
匠はそれだけ言うと、いたわるように女房の肩を抱きました。
女房はその手に自分の手を重ねました。
匠は久しぶりに女房に触れて、
こんなにも華奢ではかなげだったかと改めて思いました。
そして、この小さな体でよくがんばったと、肩を抱く手に力を込めるのでした。
気が変わりました。
11月中に終わらせます。
今後2時間おきに連投いたします。