朝まだき、森の奥に光が届くにはまだまだ遠い時分、
それでも夜明けが始まると、空気の色がだんだんに軽くなっていきました。
昼夜を分かたず歩きづめてきた匠は、
闇から徐々に姿を現す地面を、ただ黙々と踏みしめて行きました。
暗闇の中もまったく迷うことなく進んでこられたのは、
匠と女房の強い願いのせいなのか、それとも木の精の導きなのか。
匠にとってはどちらでもいいことでした。
あの木のそばに連れていって、という女房の頼みを果たしてやったら、
女房はもう一度目覚めるのか、それとも…
いずれにせよ行ってみるしかない、
匠の思いはそれだけでした。
そうして無我夢中で歩き通し、
たどり着いた思い出の場所。
久しぶりに見る老木はところどころ干からびて見えましたが、
匠が女房の花と出会ったあのうろも、そのままに残っていました。
季節はあのときより少し早いせいか、朽ちかけの枯葉ばかりで苔もまだまばらにしか見えず、
女房をどこに降ろしてやったものか、少しでも柔らかい場所を匠が探していると、
「この木に、わたしを、寄りかからせて…」
背中から、三日ぶりに女房の声が聞こえました。
「気がついたのか!」
匠は嬉しさに泣きそうな声を上げながら、女房を前に抱き直した瞬間、
その変わりように愕然となりました。
唇からは血色が失せ、ただでも色白だった肌はまるで、あの贈り物の磁器のように青白く、無機質な色合いになっていたのです。
匠はそれには気づかなかったふりをして、
女房の体を木の根元へ凭せかけるように、優しくゆっくりと降ろしました。
「ありがとう…」
「よかった。やっぱりここに戻ってきたら元気が出るんだな。
腹、減ってないか?それとも水飲むか?」
と、荷物を探ろうとした匠の手に、女房はとっさにものすごい力ですがりつきました。
その手には体温がありませんでした。
「行かないで…ここに、いて」
「大丈夫。おいらどこにも行かないよ」
匠が優しくなだめるように、女房の頭を引き寄せると、
女房は安心したように手の力を緩め、その途端に手そのもののが力をなくしたように、だらりと下がってしまいました。
匠は黙ってその手を取ると自分の胸に押し当て、
肩ごとすっぽりと包み込みました。
自分の鼓動が女房に伝わり、自分の熱が女房を温めればいいと願いながら。
「…おまえはよく頑張ったなあ。
おまえがいたから、おいらは奥方様への贈り物を作ることができたし、
そもそもおまえが、都へ行くことをすすめてくれたから、
おいらはたくさんの職人たちと友達にもなれた。
奥方様だってきっとおまえに感謝してる。
子どもができて、殿様もあんなに喜んでいたもんな。
おまえのおかげで、みんなが幸せになったんだよ」
女房の頭を撫でながら匠が語りかける間にも、髪に触れる手ごたえが頼りなくなっていきました。
女房は僅かな力を振り絞るようにして、思いがけないことを言いました。
「…あなたは、幸せ?」
「何言ってんだ。当たり前だろ」
匠が思わず女房の表情を確かめようとして二人が見つめあった瞬間、女房の頬に匠の涙がしたたり落ちました。
「だって、…子ども…」
「そんなこと、おいら全然気にしてないよ。
おまえがいれば、おいらは幸せなんだ。
でもおまえが子どもが欲しいんなら、
ここでゆっくり休んで元気になって、そしたら二人で家に帰って…」
せき上げる涙を振り切るように、匠が懸命に励ましても、
腕の中の女房は体の重みがだんだん抜けていきました。
「ごめんね、わたし…」
「もういい…もういいんだ。
おまえさえいてくれれば」
匠は、暁の光に透けてゆく女房の姿をなんとかとどまらせたくて、
涙で濡れた頬を寄せ、力のない唇を自分の唇で塞ぎましたが、
もうなんの甲斐もありませんでした。
音のない、かすかな息が、
(しあわせ…)
と、唇に当たったような感触を残して、
女房の姿は薄明の空気の中に溶け、
匠の手の中には小さな白い花があるばかりでした。
もう少し続きます。