小さな話 9 | sgtのブログ

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歌うことが好きです。コロナ禍で一度はしぼみかけた合唱への熱が''22年〜むしろ強まっています。クラシック音楽を遅まきながら学び始める一方、嵐の曲はいまも大好きです。


がっくりとうなだれて、立ち上がる気力も起こらないまま、
朝が来て、昼が過ぎ、日が沈みました。


手の中の白い花は幾度も匠の涙を浴びて、しばらくの間、心なしか嬉しそうに輝いて見えましたが、
時が経つにつれて、眠りにつくように、くたりと横たわりました。


匠は、なよやかな白い花びらにもう一度口づけて、
花をこわさないようにそっと胸に押し当てると、
やおら立ち上がり、老木の根元に花を埋めてやりました。


新月の深い闇夜が、白い花を一緒に悼んでくれているように匠には思えました。


花を土に還してやっても、まだ去りがたくて匠がじっと佇んでいいると、


《やれやれ…
ずいぶんと命を酷使したものだな》


という声が聞こえてきて、
匠ははっと目を見開きました。


「おまえは、…木の精?」


《あの娘はそう呼んでいたな。

おまえがあの娘をここに帰してくれたから、わしに魂が戻ってきたのだ》


「…なら、もう一度あいつに会わせてくれよ。

また力を貸してくれればいいんだろ?」


《娘の命はもう尽きている。

おまえもそれがわかったから、土に還したのではないか》


「おまえだってもう、折れて干からびて、死んでるんじゃないのか?」


《折れたところはもう死んだが、すべてが終わったわけではない。

わしの幹の裏側を見てみるといい》


匠が木の裏手に回ると、
幹の根元から若い脇芽が力強く伸びはじめていました。


匠は納得すると同時に、女房のことは諦めろと念押しされた気がしました。


「なあ、教えてくれ。
どうしてこんなことになったんだ?」


老木の精は、女房がこれまで重ねてきた、あさはかな努力とかいがいしい無茶のすべてを、包み隠さず匠に話してやりました。


事情がわかるにつれ、匠はみるみる顔色を変え、


「なんだよ、それじゃあ…都なんか行かない方がよかったじゃないか!」


と、悔しそうに吐き捨てました。


《それは違う》


木の精は静かに制しました。


《あの娘は子ができないことをたいそう悩んでいた。

夜更け、おまえが寝ている間に、何度ここに来て嘆いたか数えきれないほどだ。

自分は何のために人間の女になったのだ、子が産めなければ無駄ではないかと。

もともとあの娘は、年ごとに種を作って生まれ変わる類の花だから、
姿は人間になっても、命の営みまで人間と同じというわけにはいかないのだ。

何度もそれを説いたが、なかなか納得しなかった。

都に行く決心をしたのは、そんな自分の運命を受け入れたからなのかもしれない。

子をなしてやれない代わりにおまえを幸せにするために、職人として成功させることを望んだのだ。

なんとかして、おまえの女房としての生き甲斐がほしかったのだろう。

都へ出発する前夜、
異なる風土に暮らすのだから、絶対に夫のそばを離れるなと、あの娘には厳しく言い聞かせた。

だが、一人前の人間の女房のように生きてみようとして、
それが結局、命をすり減らすことになった》


「おいら、成功なんかどうでもいい。

あいつさえいてくれれば、それでよかったのに…」


《だがおまえたちは、都で良い出会いに恵まれて、良い経験をたくさんしただろう。

おまえは職人として認められ、多くの仲間を得た。

あの娘は、職人のおまえを支える満足と、心を許せる友を得た》


奥方様がわたしに心を開いてくれた、と喜んで話していた女房の目の輝き、
かみさんの香りは天下一品だねえ、と職人町の調香師に言われて、はにかんでいた女房の嬉しそうな表情、
匠はそんなことを思い出していました。


《いまわしに返されたこの魂は、疲れきってはいるが、後悔の陰りはひとつもない。

それどころか、幸福の喜びが、春の陽射しのような暖かさを放っている。

おまえの求めていた幸福とは違っていたかもしれないが、
この娘は幸福に生ききったようだ》


「そうか、だからあいつは…」


匠は、自分の唇に吹き込まれた、
女房の最後の言葉を思い出しました。


「しあわせ、か…」


唇に指をあてて、何度も何度もその感触を確かめていました。


「…いろいろ教えてくれてありがとう。

また、ここに来てもいいかな」


《いつでもおいで。

子どもの頃と同じように》


漆黒の闇が蒼く薄らぎはじめる頃、
匠は、白い優しい朝霧に抱かれながら山を下りていきました。



















次回 最終回です。