「ただいま」
家に戻ると母親は夕飯の支度をしていた。
まだお香の匂いが残っている中に料理の匂いが混ざると何とも言えず食欲が萎えるのだが、今日は窓を開けていたおかげか幾分まともな気がする。
「おかえり。バス、すぐ来たの?」
「いや、行ったばかり。でも駅まで走るってさ」
「まぁ」
「サッカー部だからね、あいつは。
ところで、天気大丈夫だった?」
輔の骨は市原家の墓に納められているので、ここから新幹線も使って片道3時間近くかけて行かなければならない。
「うーん…向こうはこっちみたいに晴れてなかったし、時々パラパラきたけど、結局傘を開くほどの降りにはあわなかったわねぇ」
「良かったじゃない。輔に守られたんだね」
輔の墓におれが行ったのは、納骨と、祖父の葬儀のときにお参りした2回きり。
小高い丘の上にある墓地は、見晴らしがよく日を遮るものが何もなくて、細い上り坂を登りきったとき、ずいぶん遠いところに来たなぁと思った。
あの墓に行くのに雨が降ると大変だろう。今年の天気が穏やかだったのならそれは良かった。
2度目に訪れたときは当然、墓石の横の墓誌に輔の戒名や俗名、そして死んだ日付と歳が刻まれていた。
「行年八才」の文字を見ながらふと、もしいまおれが死んだらこの墓に入れてもらえるんだろうかという思いがよぎった。
DNA鑑定までして、両親の間のわだかまりは取り除いたはずなのに、夫婦仲が良い方向に進む気配は一向に感じられなかったあの頃。
それはおれのせいなのか、と当時のおれは思っていたが、そんなことを話せる相手などいなかった。
輔がいなくなったことで、おれのこの目が両親の不和の元凶であったことをまざまざと思い知らされて、おれの心の中はかなり荒んでいた。
生まれつきの病気で死ぬのが、輔ではなくおれだったら良かったのかもしれない。そうしたら今頃両親は、輔と三人で幸せに暮らしていたんじゃないだろうか。
そう思うと消えてなくなりたい気分になった。
でも一方で、おれはどうしても勝手に死んではならないとも思っていた。
輔の、病気に苦しむ姿と、元気なときの明るい姿と、そして最後の意識を失う直前の、運命を受け入れる表情。
あれを見たら自分の命を粗末にしようなんて絶対に考えられない…そんなことをしたら、輔の命をも軽んじることになる。
だけど、おれに何ができるんだろう。
両親や親戚の騒動のタネでしかないおれが、誰かの何かの役に立てる日は来るんだろうか。
おれの思考はそこで立ち止まったまま先に進めなくなっている。
このままでは嫌だと、おれの中で大きな声がする。
「母さん、」
ガスコンロの火を止めた母親がこちらを見る。
おれは、さっきの一宮の温もりを頼りに、なけなしの言葉と勇気を拾い集めた。
「おれが生まれて、幸せだった?」
あなたが生まれて幸せかって?
もちろん幸せよ。当たり前じゃない。
衛はどう思ってるの?
「…おれは正直、何が幸せなのかよくわからないよ。
輔がいた頃は、みんなでいろんな所に出かけたり、一緒に過ごすのが当たり前みたいに思ってたけど、
輔が死んで、父さんの態度が変わって、いまはこうしてばらばらになってる。
それでも母さんは幸せだって思える?」
そうねぇ。確かに、輔がいなくなったときは悲しかったし、あの頃と比べるとずいぶんうちの様子は変わったけど、
それでもあなたはこうして毎日成長してるじゃない?
その上今日、こんな大切な日にうちに来てくれるようなお友達までできて、本当に嬉しかったわ。
「だけどさ、おれがこんな目の色で生まれてきたせいで、母さんはいろんな嫌な思いもしてるだろ?」
こんな目の色だなんて、そんな風に言うもんじゃないわ。
あなたが生まれて、まだへその緒がつながったままのあなたをお腹の上に乗せて初めて抱かせてもらったとき、なんて綺麗な目の赤ちゃんなんだろう、って見とれちゃったのよ。
不思議だなぁって思ったけど、あなたは紛れもなくお父さんと私の子だもの。
もちろんいろんなことが起きるだろうって想像はしてたけど、それがあなたと、そしてあなたを育てる私の人生だって思ってるから、ちょっとやそっとの面倒事くらいどうってことないのよ。
あなたが元気でいてくれればいい。
輔は死んじゃったけど、輔なりに精一杯、幸せに生きたんじゃないかと今は思うわ。お父さんも頑張ってくれたしね。
「父さんがあんな風に変わったとき、ひどいと思わなかった?」
そりゃ辛くないって言ったら嘘になるけど…
今だから言えるけど、ある時期、あの鑑定を受けるまでのお父さんは、輔が死んだショックがあったにしても、大人げなかったわよねぇ。
鑑定の結果によっては離婚も考えてるんだってわかっちゃったし…たぶん輔のことで頭がいっぱいになっちゃってて、あなたの父親として生きる決意がちゃんとできていなかったんでしょうね。
でも第一子の子育てって、親も初めてのことばかりだから人間的にも未熟で、いろいろ迷いも起きるのよ。
とくに男の人は自分で子どもを産めないから、自分と違う特徴を持った子どもを受け容れることって感覚的に難しいんでしょうね。
その上おばあちゃんのこともあるし。
だからちょっと忙し過ぎて、きちんと考える余裕がなかったのかしらね。
衛にも苦労をかけたけど、許してあげて?
「許すもなにも…おれは自分が、父さんを不幸にしてるんじゃないかっていつも思ってた。
自分は父さん似だと思ってるけど、父さんはそれすらも認めたがらないくらい、おれのこと嫌ってるんだって」
昔はどうだかわからないけど、今はそんな風に思ってないはずよ。
今あなたに会ったらさぞかし驚くでしょうねえ。
今日、待ち合わせしてお墓に一緒に行ったんだけど、ますます似てきたなぁって思ったもの。言わなかったけどね。
それにお父さん、あなたのこと気にしてたのよ。
衛はどんな大学を考えてるんだ、って。
具体的なことは何も聞いてないけど、とりあえず理系みたいよって、それだけ伝えといたわ。
お父さんと私はちょっと変わった道を通ったかもしれないけど、今こうしていることも、それから輔のこともみんな、私たちが人として、家族として成熟するために必要なことだったんだと思うの。
この先何が起きるかなんてわからないけど、その都度真剣に向き合って、誠実に答えを探せばなんとかなるんじゃないかしら。
だからあなたも、あなたが信じることを思いきりやればいいのよ。
さ、ご飯食べましょう。お味噌汁もう一度温めるわね。
…ずっとひとりで抱え込んで誰にも言えないと思っていたことは、こんなにもちっぽけなことだったのか、と自分が可笑しくなった。
こんなにあっさりと扉を開くことができたのは、一宮のおかげだろうか。
おれは天球を担がされたアトラスにでもなったつもりで、自分で自分の天球を独り勝手に大きく膨らませていただけなのかもしれない。
「早く大人になって親御さんを大切に」という、あの境地にはまだまだ辿り着けないけれど。
「母さん、今日のうちに言いたかったことがもう一つあるんだ。
これは今日だけのことにしといて。
おれ、おじいちゃんの顔をちゃんと見るのって、お葬式のときが初めてだったんだ、実は。
いつも、すぐに居なくなっちゃってたからさ。
それで、驚いたんだけど、
おじいちゃんと父さんって全然似てないよね」
その週の終わり、おれ宛てに大きな封書が届いた。
中には留学の手続書類一式が入っていた。
「合格おめでとう。
これで、いいきっかけができたじゃない?」
母親は嬉しそうに言った。
「お父さんに会いに行きましょう。
アメリカに行く前に、おばあちゃんにも挨拶しないと」