いったい何があったのか。
ほんの1時間ほど前は普通に話していたのに、いま魂の抜けたような顔で歩いてきた一宮の変わりように、思わず足が止まった。
すると向こうもおれに気づいた。
どうしたんだ、と問いただしたい気持ちを抑えて、早いな、と声をかけると、
おどおどして、答える口調もなんだかおぼつかなくて、まるでおれを避けたがっているような態度。
そんなのは、困る。
今日という日を一宮が元気に過ごしていたからこそ、弟の命日でもおれは平静でいられたのに、そんな辛そうな姿を見たら心のバランスが崩れそうになる。
おれは、一宮が笑ったり悩んだり、生き生きと過ごす姿を、近くで見ていられるものとなんの根拠もなく決めつけていた。
我ながら無茶苦茶だ。
一宮が遠ざかる?なんて考えたくもない。
なんとかしたい。どうもできないけど。
でもこのまま放っておくなんて嫌だ。
「お前、今日、うちに寄っていけよ」
と、口をついて言葉が出ていた。
輔のことはいつか一宮に言わなきゃならないと思っていた。
似てる、と言われた相手がもう死んでると知ったら気を悪くするかも、と思うとなかなか言い出せなかったが、今日おれから家に呼んだ以上はもう覚悟を決めるしかない。
前を歩く一宮の、心細げな背中を見ながらそんなことを考えていたら、
一宮が突然振り向いて謝ってきた。
そこでおれは初めて、例の「告白女」が香取という名であることと、一宮がそのシーンを偶然見ていたことを知った…声は聞こえていなかったらしいが。
聞こえてたら呆れたろうな。何しろ会話にすらなってなかったし。
それよりも、
一宮がそのことを気にしているのが、おれは無性に嬉しかった。
気にしてなければ、こんなことわざわざ話題になんかしないだろう。
この時、もしかしておれたちは「両想い」なのかもしれないと思った…お互いへの精神的な依存度という意味で。
やはり、輔のことをきちんと話そう。おれの心の負荷を、一宮に知ってもらいたい。
おれの冗談を真に受けて怒る一宮の素直さに、また助けられた気がした。
家のドアを開けた瞬間からお香の匂いがあふれ出す。
今日は母親もどっぷり輔漬けだな、と思った…こんな家を一宮はどう思うんだろう。
考えてみると、両親の別居が決まってこの家に引っ越してから、人を招くのはこれが初めてだった。
「これ、お前と弟?」
下駄箱の上に飾った、お祭りの日の甚平姿の写真に一宮が反応した。
前の家の玄関にはもっと大量に写真があったけれど、ここは狭いし、それに家族4人で写ってるものは白々しくてもう飾れない。
一宮を上がらせ、居間のドアを開けると、さらに強い香りの塊。
今度こそ呆れられたんじゃないかと思う一方で、それでも我が家はこういう家だから仕方ない、と開き直ってもいた。
「ちょっと強すぎだけど…いい匂いだな、これ」
という発言にちょっと救われた気分になる。
輔の仏壇を「紹介」したときはさすがに驚いていたけれど、一宮は、死んだ弟に自分を比べられたことに嫌な顔ひとつしなかった。
そんな一宮の優しさに甘えて、おれはおれのあまり楽しくない生い立ちと輔の話を、一気に話した。
彼は真剣に聞いてくれた。
もうさっきのような力の抜けた表情ではなかった。
おれは、ずっと独りで鬱々と抱え込んできた思いを吐き出して、肩が軽くなっていくような心地がした。
他の誰でもない一宮に、この話を聞いてもらえてよかったと思った。
母親が帰宅したのと入れ替わりに家を出て、一宮をバス停へ送っていく。
「お前って、目元はお母さん似だと思ったけど、お母さんはお前みたいに彫りが深くないし、背も普通だし…
会ったことないから何とも言えないけど、案外お父さんの方に似てるんじゃないか?」
「実はおれもそう思ってる。
親戚の中では、おれと父親は『似てない』ってことにされてるけど、背は完全に父親から来てる」
でも母親以外誰もそうと認めてくれないんだ、と言おうとして、
これは一宮に話すべき問題じゃないと気がついた。
いくら親身に話を聞いてくれたからって、何もかも彼を頼って愚痴って発散すればいいと思うのは間違いだ。
彼が部活のことで悩んでいるのと同様に、おれにもおれ自身で打ち破らなければいけない壁がある。ずっと目を逸らしてきたけれど。
バス停が近づいてきた。
今日はありがとう、と告げると、一宮はおれの負担を共有できて嬉しい、と言ってくれた。
それを聞いたらたまらなくなった。
まだもう少し、力を分けてほしい。
そう思ったら、
一宮を抱きすくめていた。
かつて輔にそうしていたように。輔にしていたのとは意味合いが違うけど。
独占欲?依存?この期に及んで?
でも今日だけ、許してほしい。許してくれるんじゃないか、彼なら…
お前はずっと元気でいてくれ。それがおれの支えだから。
勝手だけどそんなことを喋っていた。
「おれは大丈夫だよ、お兄ちゃん」
一宮の声で我に返って、手を離した。
今日のおれはやっぱりおかしくなってるな、と苦笑した。
腕の中の一宮の躰は、鍛えているだけあって、輔よりもずっとしっかりとして力強かった。
いつも忘れ物ばかりしてちょっと抜けていて、弟のように思いなしていたけど、一宮は か弱いおれの弟とは違う。当たり前の話だが。
それどころか、おれなどよりもずっとたくましく人生を切り拓いていくだけの力を備えているのではないか。
だからおれも、ちゃんと自分の脚で立って、彼の与えてくれた力に応えられるだけの人間になりたい…今日は随分、この肩に寄りかからせてもらったけど。
「じゃあ、また明日」
「おう」
夕陽に照らされて走っていくオレンジ色の背中を、おれは飛行機雲をたどるみたいに飽きもせずずっと眺めていた。