「ぁちくしょ!また白衣忘れた…」
「だから、どうせ使ってないし返さないでいいって」
「いや、それはやっぱりよくない」
先月の実習のとき貸した白衣を一宮は洗って返すと言っているが、洗うところまではしたものの、それを持ってくるのを忘れてしまうらしい。
その律儀さと迂闊さがどっちも一宮らしくて、つい口元が緩む。
梅雨の真っ只中なのにここ数日は晴天が続き、一宮は黙々と部活に行っている。
補欠の身分を悔しがっていても、やっぱりサッカーが好きなんだなと思う。
今年の命日は晴れた。
それだけでも少し心が軽くなる。
あの日を思い起こさせるような共通項は、なるべく少ない方がいい。
今朝は、輔が元気だったときに好んだ香りのお香を、母親が起き抜けから焚き始めるものだから、早々に家から逃げてきた。
今日は部活があるけれど、あまり難しいことはしたくないから、何か実習の準備とか作業があったらそれに乗っからせてもらおう…そんなことを考えながら歩いていたら、
渡り廊下に一人 女子が立っていた。
横を通り過ぎようとすると、
「あのっ、市原くん、ちょっといいかな…」
と声をかけてきた。
立ち止まると日差しが眩しかった。
声の主は少し後ずさっておれに向かい合った。
斜め後ろからの陽の光を受けて、肩をすくめると髪の毛がゆらゆらと光った。
逆光で顔がよく見えない。が、知り合いじゃないことくらいはわかる。
こちらが訝しむ間に向こうが喋りだした。
「突然ごめんなさい…
でも私、市原くんと、どうしてもお話がしたかったの。
だってあなたの目が、あんまり綺麗で、素敵だから…」
なんだろう、これは。
深夜アニメのヒロインみたいな声。
相手は、初めて話すというのにいきなり近い位置に踏み込んで、
「だから、あなたと、お友達になりたいんです…ダメですか?」
おそらく自分の武器と自覚しているのだろう、潤んだ目でおれを見上げてきた。
登校のバスの中で嗅いだ覚えのあるようなシャンプーの匂いがする。つまりこれがいま万人受けする香りということなんだろう。
おれが通り過ぎる間際に声をかけてわざわざ後ろに退がったのは、自慢の大きな目をアピールするために逆光のポジションが必要だったわけか。
これは自分に相当自信があるタイプだと思った。
だがそういう小細工は全てウザい。
とくに今日は。
なんで今日、こんな話を吹っかけてくるのか…それはこいつのせいではないが、たまたま今日だった時点でもう、こいつとは縁がないということだ。
「あのー、」
おれが口を開いたので、相手はますます目を潤ませて、期待を込めて次の一言を待っている…自在に涙を操るその技術にちょっと感心した。
「そもそもあんた、誰?」
相手が一瞬で動揺したのがわかった。
私のことを知らないなんて、と憤慨しているのだろうか。
どんな有名人だか知らないが、初めて会話する相手に名乗るくらいは礼儀だろ。
…と、指摘するのすら面倒。
「おれ部活だから、どいてくんない」
怒りなのか羞恥なのかそれともこれも一種の演出なのか、名前のわからないその女子はさっと顔を赤らめ、涙を湛えた目でもう一度おれの目を見つめて走り去っていった。
例のシャンプーの残り香を裳裾のように引きずって。
おれはその余波に巻き込まれるのが厭で、渡り廊下を早足で通り過ぎた。
おれの目は、たぶんおれの外見の中で一番特徴的な部分なんだと思う。
だから王子なんて渾名がつくし、さっきみたいな奇妙な「告白」を受けたりもするんだろう。
だがおれは、まず向こうからおれの目のことを言ってくる相手とは、まず いい関係を結べない。
これはまだ17年弱のおれの浅い人生経験の中でも、既に法則化してしまっている。
おれなりに推測するに、
そういう相手はおれの表面的なことにしか興味がないのだ。
いまの女子なんかはその最たる例だが、彼女は自分があおい目(プラス高身長?)の男を従えることが最大の関心事で、おれという人間のことはおそらくどうでもいいのだ。
だから自分の名前を告げるのすら忘れてしまう…無意識のうちにその必要を排してしまうんだろう。
そういうことに気づいたのは中1の夏。
冷戦の続いた両親がついに別居して父親が家から居なくなると、おれはちょっと開放的な気分になり、夜に出歩くことが多くなった。
すると、おれと目が合っただけで女の子が「あなたの目、きれいね」なんて言って寄ってくることに気がついた。
それが面白くて、「目をつけた女を何秒で落とせるか」とか「制限時間内に目だけで何人捕まえられるか」をゲームのように楽しんでは、悪いグループの「先輩」に重宝がられていた。
おれ自身は気に入る子になかなか出会えなかった…あなたの目きれいね、ハーフ?ハーフじゃなくて、じいさんがアイルランド人なんだ。へぇすごい、アイルランドってどこだかわかんない…みたいな話を、会う相手ごとに繰り返していた。
女の子に関心があるにはあったけど、あまりにも簡単に寄ってくる割には全然面白くない相手を、なんとかして口説き落とそうという気にまでなれなかった。
するとそんなおれを見かねて、時々家に呼んでは何か食べさせてくれたりする世話好きなお姉さんが現れた。
彼女は当時もう社会人だったらしく、背が伸び続けて戸惑っていたおれに服まで買い与えてくれた(当然その服は隠している)。
「あなたはきれいな目をして可愛くて、連れて歩くのには申し分のない子だけど、いつまでもこんなことしてるとそれだけの人になっちゃうわよ」
と言ってくれたのが強く印象に残った。
お家で何があったか知らないけど、あなたはこんなとこにずっと居る子じゃないから、早く大人になって親御さんを大事になさい。
彼女の言うことは占い師みたいにおれの心を言い当てていて、おかげでおれは悪い仲間に深入りすることなく、虚しい遊びからも卒業することができた。
オートロックでも何でもない、彼女のアパートを次の夏に訪ねてみたら、もうそこは空き室になっていた。
その帰り道、ふと試しに目が合った女の子をじっと見つめてみたら近寄ってきたけど、ごめん人違いだった、と言って立ち去った。
翌日の1年生の実習で使う用具をキットのように揃えたおれは、中途半端な時間だったけれどもう帰ることにした。
さっきのわざとらしいシャンプーの匂いよりは、うちのお香の方がまだいい。
靴を履き替えて昇降口から出たら、
一宮が幽霊のような顔をして歩いてきた。