中間試験が終わると間もなく梅雨に入り、屋外の運動部員はエネルギーを持て余す日々が始まる。
さらに週が明け試験の答案が返され、一宮の結果がどんなだったかは顔を見ればだいたいわかった。
「俺、やっぱり部活辞めた方がいいんだろうか」
「お前それ、いい加減にしろ」
「え…」
「そう言ってお前は『そんなことないよ、頑張れ』って励ましてもらいたいだけだろうが。
反語の質問なんて時間の無駄だ。
お前の中に、それでも辞めたくない、って意志がある以上は誰に何言われてもやるしかないだろ?」
「…筋トレ、行ってくる…」
すごすごと去っていく一宮の後姿を見ていると、ここで野田が彼の癒やしになれたら何か状況は好転するだろうか、などとつい想像する。
もっとも、いま一宮が向き合っている問題は自分の力で結論を出すべきことだから、慰めなどに頼らず一人でとことん考える方が彼のためではある。
それに野田の立場から言えば、もし留学が決まったら、一宮への告白が実ってもすぐに離れることになってしまうし、実らなければ大きな傷心を抱えるリスクを負うし、少なくとも今は動きたくても動けないだろう。
…きつい言い方をしてしまったがおれだって背中を押していること、一宮には伝わってるんだろうか。
輔が死んだのは7年前の6月。
そのせいか6月はいつも調子が狂う。
悔しいことに、輔が息を引き取ったとき確かにその場にいたはずなのに、なぜかその瞬間を思い出せなくなっている。
辛うじて出てくる映像は、顔に白い布をかけられた輔に取りすがって辺り構わず泣く父親と、動かなくなった手を撫で続ける母親、それをベッドの足元で茫然と見ている9歳のおれ。
あれは病室だったのか霊安室だったのか、それすら覚えてない。
外の景色なんか見えない、奥まった部屋にいたはずなのに、なぜか耳には雨音が残っている。その日朝起きたら雨だったからだろうか。
あのときを境にこの家族は大きく変わった。
その「変化」の大きさに流されているうちに、大切な記憶をどこかに置き忘れてしまったようで、それがどうにも歯がゆい。
一番大きく変わったのは父親だった。
まず、あまり家に帰ってこなくなった。
輔の最期の半年ほどの間、仕事よりも輔を最優先にしたからその埋め合わせをしなければいけないんだ、という話を聞いていたけれど、
たまに帰ったときも家族で会話することが極端に減った。
おれの10歳の誕生日も忘れていた。
それでもしばらくの間は、急に仕事が忙しくなって疲れているのだろうと思っていたが、
時が経ち、仕事のペースが徐々に落ち着いてきても、なお父親の態度が元に戻らないのを見るにつけ、
輔の生前から実は感じていた、父親のおれへの関心の低さを、しだいに確信するようになった。
でもそれは間違っていた。
父親はおれに無関心だったのではなく、おれの出生そのものを疑っていたのだった。
だから輔がいなくなった途端に、仲のいい家族を「演じる」ことをやめてしまったのだ。
輔の一周忌が過ぎた頃には、もう家族の空気は十分によそよそしくなっていた。
そこへ父親がDNA鑑定をもちかけてきたことで、空気はさらに冷えた…まだ冷えようがあるんだ、と逆に感心したぐらい。
あんなに淋しそうな母親の顔は、輔が死んだときでさえ見たことがなかった。
この年頃になると、小学校でも「お前の母ちゃんフリンしたのか」と言うやつが出ていた。
不倫、ということが何を表しているのか、当時のおれは具体的にはわからなかったが、何かいかがわしい雰囲気だけは感じとっていた…かつて従姉が言っていた「悪いこと」と関係があることも。
その「いかがわしさ」と自分の母親はどうしても結びつかなかったが、自分の目の色が母親の不名誉な噂のもとになっていると思うとやりきれなかった。
だからDNA鑑定と言われたとき、これで母親の汚名が晴らせるのではないかという期待もあって、おれはむしろ乗り気だった。
けれども、始めから結果がわかっていた母親にしてみれば、ほらやっぱり私が正しかったでしょう、という優越感を得ることなどどうでもよく、
ただ夫が自分を、輔がいた間もずっと信じていなかった、という事実に苦しんでいた。
父親もたぶん、自分の妻を徒らに疑い続けた虚しさに責められていたはずなのだが、肝心の疑って傷つけた相手に対する思いやりは、明らかに足りなかったように見える。
父親の態度はまるで、妙な目の色の子どもを産んだ母親にだってこの騒動の責任はある、とでも言いたげに見えた。
本当の親子であると証明されても、父親にとってのおれは結局「妙な目の色の子ども」でしかないようだった。
輔の誕生と死が問題を一時先送りにしていたものの、おれがこの目の色で生まれたときから、両親の不幸は始まっていたのかもしれない。
さらに市原の祖父の葬儀のために、輔がいた最後の夏休み以来3年振りに訪れた「おばあちゃんの家」では、
かつてほどの威圧感はなくなったものの、おれを毛嫌いすることだけはきっちり忘れてない祖母と、母親に対する伯母たちのねちっこさが相変わらずなのを見て、
DNA鑑定って結局何をもたらしたんだろうと思った…強いて言えば、おれのエディプスコンプレックスをはっきりさせた?
輔の死を悲しんで泣いてくれた従姉たちは、その2年後におれが「父親に似て」急に背が伸びたことにやたら驚いていた。
それからずっと、おれを覗き見ては何やらゴチャゴチャと騒ぎ続けていた…自分たちを可愛がってくれたおじいちゃんの葬式だろうに。
とくに、かつて好き放題おれの目を差別のネタにしていた従姉が、しきりに視線を投げかけてくるのには閉口した。
いずれこの娘たちはあの伯母たちのようになるんだろうなと思った。