おばあちゃんの家に行くときはいつも緊張していた。
おじいちゃん、つまりお父さんのお父さんが生まれ育って引き継いだ家なのだから、本当は「おじいちゃんの家」と呼ぶ方が正しいのに、ぼくにとってそこはどうしても「おばあちゃんの家」なのだった。
夏休みとお正月は、お父さんと、お母さんと、ぼくと、弟の輔の4人でこの家に遊びに来て何日か泊まるのがきまりになっているけど、本当のことを言うとぼくはそれが楽しみじゃない。
むかし、輔が生まれた頃までぼくらはここに住んでいたらしいけど、輔が体が弱いことがわかって、大きな病院に近い今の家に引っ越したのだそうだ。
それを聞いてぼくは、輔が病気でよかった、なんて思っている。
この家の玄関に一歩入ると、背中のどこかが洗濯ばさみで挟まれているような痛がゆい気持ちになる。
とくに、最初におじいちゃんとおばあちゃんに挨拶するときは一番緊張する。
おじいちゃんはぼくらが挨拶すると「ン、ゆっくりして行きなさい」とだけ言ってすぐ出ていってしまう。なんだか面倒くさそう。
そしておばあちゃんは、笑顔でお父さんと何か話したり「輔くん、長旅で疲れていない?」と優しい言葉をかけてくれたりしたあとで、
ぼくの方を、笑っていない目で一回見まわして、そして目をそらす。
その瞬間いつも背筋がきりきりする。
それから先、この家にいる間はずっとどこかでおばあちゃんが見張っていて、絶対に失敗をしてはいけないような気持ちになるのだ。
お父さんにはお姉さんが二人いる。
その伯母さんたち家族はおばあちゃんの家の近くに住んでいて、ぼくたちが来るときに合わせてみんなが集まる。
上の伯母さんには2人、下の伯母さんには1人の女の子がいて、ぼくにとっては全員が歳上の、いとこのお姉ちゃんたちだ。
その中の、ひとりっ子の茉由まゆちゃんが、なぜか会うたびぼくを仲間はずれにしようとする。
ぼくも女の子と遊びたいとはとくに思わないから別にいいけど。
でも輔まで巻き込もうとするのはやめてほしい。
輔は、ぼくが言うのも変だけど、すごくかわいい。
すぐ調子に乗って失敗ばかりするけど、人なつっこくて明るいから、なんか許してしまう。
体が弱くてあまり外で遊べないのが残念だけど、保育園の頃はずっとぼくの後ろをついて回って、なんでもぼくの真似をしようとしていた。
ぼくが小学校に入ってからは昼間は輔と別々になってしまったけど、それでも一緒にいるときは、いつの間にかぼくにくっついてくる。
めんどくさいんだけど、それもまたかわいい。
ある夏の午後、おじいちゃんは囲碁の会、ほかの大人たちはみんなお祭りの準備に出かけて、ぼくと一番年が近いいとこの燈里あかりちゃんもそれについて行って、子ども4人だけが家にいた。
輔とぼくが庭で虫を探していると、そこに茉由ちゃんが来て輔だけを連れて行こうとした。
かわいい輔をかまいたい気持ちはわかるけど、邪魔しないでほしいのに。
なんでそんなことするのか聞いてみたら、ぼくの目の色が違うからだと言った。
「衛まもるくんの目が青いのは、衛くんのお母さんが悪いことをしたからなんだって、あたしのママが言ってるもん」
ぼくの青い目…本当は青緑なんだけど…は、何かのばちが当たった証拠で、だからぼくと一緒にいたら輔にも悪いことが起きる。
茉由ちゃんは大いばりで言い張った。
ぼくが何も言えなくて(言ってもどうにもならないから)黙っていると、
「お兄ちゃんをばかにするな、ばかやろー!」
輔が猛烈に怒って叫んだ。
「お兄ちゃんの目はカッコいいんだ!
うちのお母さんは悪いことなんかしてない!
ぼくはおまえみたいなブスなんかよりお兄ちゃんと遊ぶんだ、バーカ!」
輔のあまりの勢いに押されて、茉由ちゃんは涙ぐんでしまった。
輔は興奮して一気に喋ったせいか、息が荒くなってきた。
ぼくは嫌な予感がして、とにかく輔を休ませようと、半泣きの茉由ちゃんをそこに置いて輔を家の中へ連れていった。
一番年上のいとこの早織さおりちゃんに手伝ってもらって布団を敷き、そこに輔を寝かせると、早織ちゃんは、公民館にいるぼくのお母さんに知らせに行ってくれた。
苦しそうな輔の頭をなでながら、ぼくはやりきれない気持ちになっていた。
お母さんさんからいつも、体の弱い輔を守ってあげてねと言われているけど、いまはぼくの方が輔に守られた。
かわいくて、小さな弟が、こんなにもぼくを大切に思ってくれている。
そのことが嬉しいのと同時に、あんなくだらない悪口で、輔に無理をさせてしまったことがくやしかった。
だけど…
お母さんが悪いことをしたばちが当たった、という茉由ちゃんの言葉は、ぼくの中にもやもやしていた何かを、一本につなぎ合わせた。
もちろんお母さんが悪いことをしたなんて思わない。
だけど、おばあちゃんのあの冷たさ…おばあちゃんはぼくだけでなく、お母さんともほとんど話をしようとしない、その理由が茉由ちゃんの言葉に表れているような気がした。
この家に来る大人の人たちがぼくを見るとき、ぼくの目を覗き込んで、いつも何か言いたそうで、なのに誰も何もぼくに言おうとしない。
この家にいるときのちくちくした気分の正体が、そこにあるような気がした。
そしてこのことはお母さんにも言ってはいけないと、ぼくはなんとなく、でも強く思った。
「衛」
お母さんが後ろから声をかけた。
輔は少し落ち着いて、眠り始めたところだった。
お母さんはそんな輔の様子を見て安心したようで、そっと部屋に入ってぼくの横に座り、
「いったい何があったの?」
ぼくの肩にふわっと手を置いて、輔を起こさないような声で尋ねた。
ぼくは、しばらく黙って言う言葉を選んでから、口を開いた。
「輔が、茉由ちゃんとけんかしちゃったんだ…茉由ちゃんがぼくの目のことをからかったら、輔が急に怒ったんだ」
ぼくはお母さんの方を見られなくて、輔の寝顔を見ながらつぶやいた。
「ぼくの代わりに、ぼくが言いたかったこと、輔が全部言ってくれたんだ…」
言いながら鼻の奥がツンとなってきた。
お母さんは、ぼくの肩をぎゅっと抱いて、頭を撫でてくれながら、
「そう…輔は、偉かったのね。お兄ちゃんを守ってくれたのね」
そう言って、輔の頭も同じように撫でた。
涙が一滴、こぼれてしまった。
「ねえ、お母さん、」
輔は死んじゃうの?
と言いかけたけど、そう言ったら本当にそうなってしまう気がしてやめた。
その代わりに、
「輔さ、茉由ちゃんに『ブス』なんて言っちゃったんだ…まずいよね」
と、わざと大袈裟に声をひそめて言った。
お母さんは顔を上げて「まぁ…」と言うと、やがてにっこり笑って、
「大丈夫、小さい男の子の言うことだもの、そんなに気にしないでくれるわよ。
でも、ちゃんと一緒に謝りに行ってあげてね」
と言って、ぼくの涙を指で優しくぬぐってくれた。