もう少しぼけーっと…もとい、修養していたかったのですが、
友人のある決心を聞いたら居ても立ってもいられなくなりました。
お話の舞台は、街中に遺跡がある、こんな感じのところと思っていただけると助かります。
♯♭♯♭♯♭♯♭♯♭♯♭♯
矢も盾もたまらずとか言って
結局どうしたいんだか
きみと出会ったのは丁度一年ほど前。
退屈にまかせて、猫にふらっとついて行ったら遺跡の中にきて、そしたら雨が降りだして、猫どもはみんな物陰に隠れちゃって、気づけばおれだけ猫の小便臭い窪地の只中にほっぽらかされていた。
雨、っても細かい霧みたいな降り方だから、全然冷たさは感じないし生温い空気の中でむしろ気持ちいいくらいだけど、
ただ突然の独りぼっちにちょっと戸惑っていたら、向こうからわざわざ遺跡に降りてくる酔狂な女が見えた。
相手もおれに気づいて、傘を持ってるくせに開かずぶらぶらさせてこっちに近づいてきた。
お互いの最初の一言は、
「こんな雨の中どうしてわざわざここに?」
と、言い終わらないうちにどっちも笑いだしていた。
「大きなお世話よね」
「理由なんかないよね」
こっちに向かってくるときの隙のない均整の取れた顔の造作が、笑うと一気にくしゃっと崩れる、その落差が面白かった。
長い柔らかそうな髪に無数の雨滴が載っかっていて、地味な色のレインコートの上を水滴が転がり落ちるのとあわせて、まるで宝石みたいに光って見えた。
奇妙だったのは爪。
人差し指だけ色がついていて、しかも左右で違う。
それが強烈に印象に残った。
「使う?」傘を示しながら言ってきたので、
「いい。そっちは?」尋ね返すと、この近くに住んでいるのだという。
こんなとこで立ち話もなんだから、と、
二人でなんとなく、並んで歩き出していた。
古代の公衆浴場跡のような、崩れた壁と柱の間を、他愛もない話をしながらうねうねと歩いて、雨足が強まってきたのでひとつの傘に二人で入って、みるみる明度を落としていく石段を登って近くのカフェに飛び込んだ。
コートを脱ぐ姿に見惚れていたことに気づかれ、照れ隠しに
「なんか…魔女みたいだよね」と言ったら、
「失礼ね。女神と言って」とあっさり返された。
そこで日が暮れるまでいろんなことを話し、そしてきみを部屋のドアの前まで送って、
そこで別れた。
きみは招く風でもなかったし、おれも押し入るつもりはなかった。
だからすんなり帰った。
それから何度となくきみと会い、その度きみが見せるいろんな面に驚き、それがいちいち楽しくて、だからまた会いたくなるのだが、
そこからもう一歩踏み込むことはどうにも憚られた。
時にはきみの部屋に入れてもらうこともあったというのに。
拒絶されることが怖かったのか、
それも確かにあったけれど。
きみを深く知りたいというよりも、きみとの丁々発止そのものがおれにとっては得難い時間で、
それに比べたら、きみが敢えて見せようとしないものを無理矢理こじ開けて得られる満足など取るに足らないと思ったから、
わざわざこの均衡を崩す必要を感じなかった。
そんな調子で一年が過ぎた。
ある日、きみはこの街を「去ることになりそう」だと言い出した。
「去る」じゃなくて「去ることになる」ってなんなんだ。
しかも「なりそう」って、まるで他人事か不可抗力みたいに。
どこまでがきみの意志なのかさっぱりわからない。
だけど、
おれが声を荒らげてそんなことを問い糺したところで誰が幸せになる?
だから、
おれは、ああ、そうなのか、と言った。
出会ったときと同じ、例の左手の青い爪をこちらに向けてカップを持ち、まるで誰かと刺し違えるような覚悟を秘めた目で静かに語るきみは、目の前にいるのに、ものすごく遠い存在に思えた。
本当は去ってほしくなんかないけど。
おれに止める権限などない。
すがりついて反応を試す度胸もない。
でもこのくらいは言ってもいい、か?
「淋しく…なるな」
それっきり。
おれはきみの選択を是認するだけ。
是認?違う、ただ見ているだけだ。
要するにヘタレだ。
外に出ると雨が降っていた。
出会った日よりも強い雨だったので、きみは傘をさした。
おれはまた傘なしだったけれど、きみの傘に入るわけにもいかず、廂の下できみを見送った。
傘の柄を握った右手の黄色い爪が、きみの姿の最後の記憶。
半開きの口に雨粒が降り込んで、埃っぽい味がした。
きみと交わしたこの一年のやりとりを後生大事に抱えて、おれはまた一人で遺跡を彷徨うんだろうか。
せめて猫くらい道連れになってくれないかな。
終