さくらがたり #2 | sgtのブログ

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歌うことが好きです。コロナ禍で一度はしぼみかけた合唱への熱が''22年〜むしろ強まっています。クラシック音楽を遅まきながら学び始める一方、嵐の曲はいまも大好きです。


女は茫然としたままの男の前で、足音も立てず、軽やかに、花びらのようにふわりふわりと舞い、その間もずっと両の眸は男を見つめていました。

何かを言いたげに、
今にも涙がこぼれそうに目の縁を朱くして。

そのあえかな、消え入りそうな様子に、男は思わず駆け寄って女の手を取ろうとしました。

しかし女はそよ風のように男の手をすり抜けると、舞い続けながら、声を発することなく男の心に直接話しかけてきました。



「ごめんなさい」

なぜ謝る?
そもそもおまえは誰なんだ。

「わたしはあなたを待ちきれずに、醜く老いてしまった」

おまえがおれを待っていた?

「あなたはもう、わかっているでしょう?」



女はやおら立ち止まると、男がたじろぐほど近くに歩み寄って、涙を湛えた目で男の両眼を見据えました。
初めて見る顔なのに、懐かしいような慕わしいような何とも言えない感情にとらわれた男は、
その空虚な、暗い湖のような瞳に吸い寄せられ、そこに自分の姿が映っているのを見ました。
その瞬間涙が波紋のようにゆらめき、瞳の中の自分も揺れてかたちを変え、
次に結ばれた像は、桜の樹の気に入りの枝の上で、夢想したり、昼寝したりする少年の頃の自分の姿でした。



おまえは、



男は我に返り、女の視線に改めて向き合いました。



この桜の樹だったんだな。



そう言い終わるか終わらぬかのうちに、男は女の体を抱きすくめました。
女は驚いて一刹那息がとまりそうでしたが、小枝のように震えながら、おずおずと男の胸に身をあずけました。
男は、腕の中で女がかすかに頷くのがわかりました。

あまりにも軽く手ごたえのないその体は、まるで花びらを取り集めてできているようで、ともすると崩れ去ってしまいそうな気配でしたが、男は構わずに女の細い肩をすっぽりと包み、もう逃がすまいと両腕に閉じ込めて、白い小さな耳に囁きかけました。



そんなことはいいんだ。
おれだって一度はおまえの許を去った。
でも今こうして、おまえは、
おれに逢いにきてくれたじゃないか。



すると男の腕の中で女の体が少しずつ熱を帯び、月光のように青白かった肌には桜色の血色がさしてくるように思われました。
男は嬉しくなって、さらに女の耳に唇をつけて言いました。



おれがいまわの際にあると知って、
おまえはおれに最後の綺麗な夢を
見せてくれたんだろう?
おれにおまえを抱きしめる力を
かりそめでも与えてくれたんだろう?



すると女は肩を震わせはじめました。
男は驚いて手の力を緩め、痛かったのかと訊くと、女はかぶりを振って、



「違う…わたしが、あなたを、
抱きしめたかったの…」



と、男から顔を背けたまま、ほとんど音にならないようなか細い声で言いました。
その恥じらう姿に、言葉に、初めて聞く声に、愛しさが全身からこみ上げてくるのを感じた男は、
この女を哀しみから解放してやりたいと、心の底から思いました。



もう泣かないでいい。
おまえの顔をちゃんと見たい。



男が女の頬を両手で優しく包むと、指に涙が伝って落ちました。
温かくて、本物の人間の涙のようでした。

女は泣き顔すらも可憐に愛らしく、こんなにも真っ直ぐに自分を想ってくれている喜びに男は陶然となり、
夢中で女をかき抱くと、その涙を吸い取るように瞼に口づけて、



おまえに言われて初めて気付いた。
それはおれも同じだったんだ。
おれは、おまえに逢いたくて
ここに帰ってきたんだ。




そう言って、顔を女の髪にうずめました。
すると女の髪がゆらりと波打ち、しっとりと男の指にまとい付くように感じました。
まるで男が触れたところから、女は実体のあるものに変化していくようでした。

男ははっとして女の両肩に手をかけ、改めて女を見つめました。
女は、さっきとは別人のような輝く瞳で優しく男を見上げ、その唇からは、蕾がほどけるように笑みが咲きこぼれました。

女は、白い両腕を再び男に伸ばし、
男は、応えるように女を抱え上げ、
ふたりは束の間、互いの美しかったときの幻に遊びました。



おまえが、おまえこそが、
おれのふるさとだった。



男の心からの叫びに女は満たされ、また、どこまでも深く暖かく包み込む女に男は、生まれて初めて愛されるということを知りました。

ふたりはまるで初めからひとつのものだったかのように結びあい、もう決して離れたくないと想いあっていました。













夜空の色が、東から少しずつ重さを削がれてゆくにつれ、優しかった女の表情には、少しずつ憂いの影がさしてきました。
いぶかる男に言い聞かせるように、女は静かに話しだしました。



「夜が明けたら、わたしたちはもう
この姿では居られなくなる。
わたしはもとの、醜く干からびた
老木に戻ってしまう。
あなたに、人に逢いたいだなんて、
まして抱きしめたいだなんて、
所詮わたしには身に過ぎた願いで。
もとより、あなたとわたしは
違う世界を生きるものなのに。
だからあなたとは、もう…」



女はここで言いよどみ、涙が溢れてもう話せなくなってしまいました。
男は、腕の中で嗚咽する女に、何も怖れることはないと頭を優しく撫でて、静かに、誓うようにこう告げました。



おまえがこうして逢いにきてくれて、
おれはどんなに嬉しかったか。
樹とか人とか、世界が違うとか、
そんなことは関係ない。
おれのことをほんとうに
愛してくれたのはおまえだけだ。
おれのこの身だって、放っておけば
もうじき死ぬだろうが、
もし次に生まれることがあるなら、
おれは必ずおまえを見つけて、
また、絶対に会いにくるから。



この言葉は女を言い知れぬ幸福に酔わせました。
しかし女は、諦めたように弱々しい笑みを浮かべて呟きました。



「わたしの身だってもう永くはない。
あなたを待っていられるかどうか。
いいえ、多分そこまでは保たない」



さすがに男も、互いの現実の姿を思い出しました。けれどそれすらも、男の目を曇らせることはありませんでした。



それならばいっそ…男は思いました。
女もいつしか、男の心に寄り添うように、同じことを考えていました。



おれのこの命が、
おまえの力になればいい。



あなたの望みを、
わたしが叶えられればいい。
















力強く昇ってくる朝日の光が、
夜桜の幻をすべて消し去りました。


















その朝、男の行方を捜していた追尾の者たちが、男が倒れていたという報せを聞いて桜の古木の下に駆けつけましたが、
そこには男の影も形もありませんでした。
もはや逃げ延びる力は残っていないはずだから、おそらく何か獣にでも喰いちぎられて、体はねぐらに持ち去られたのだろう、と言い出す者もありましたが、
それにしても一滴の血も落ちていないので、居合わせた者は皆、他を捜索するしかない、と首を傾げて引き揚げていきました。











桜の樹をかえりみる者は誰もいませんでした。
そのひと枝に青々とした若葉が芽吹いていたことにも、誰も気づきませんでした。
























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