こちらのページでは、東日本大震災によって亡くなった方々の経緯を検証し、そのご無念に報いる為に今後の防災や対策につなげる目的で作成しています。
ただ、死者行方不明者2万人と言っても、その一人一人に愛する家族や友人や人生があったわけです。
私はその一人一人の人生を2万人という一言で表現し、一括りにするべきではないと思います。
そして、亡くなった全ての方が死にたくて死んだのではないのです。
多くの報道では死者やご遺体を美談化し、きれいな死に顔だったなどと報じていますが、現地で調査にあたった検死医や歯科医によると、ご遺体のほとんどは苦悶の表情だったそうです。
私たち生かされた者は、まず「死」という悲しい現実に目を向けない限り、本当の意味での支援はありえないと考えています。
※このページの内容は亡くなった経緯やご遺体について具体例や凄惨な表現が含まれます。
読まれる方は覚悟の上、自己責任でお願いします
参考文献
震災死 吉田典史著
遺体 石井光太著
心のおくりびと 今西乃子著
・宮城県で検死にあたった杏林大学 高木准教授(法医学)
「検死したご遺体の中には、多額のお金を持っている人がいた。多い人は、現金で2000万円ほど。ある人は有価証券、ある人は土地の権利書も抱え込んでいた。津波が来たときには、これを持って避難しようと考えて、家の中の1ヵ所に集めておいたのではないか。地震の直後に急いで探し出して身に付けたという感じではなかった。
この地域(岩手県宮古市)の大人は、これまでに何度も”津波が来る”と言われ、避難することに慣れていた。それでマンネリになり、今回も津波は来ないと思い込み、逃げ遅れた可能性がある。もしかすると”避難慣れ”が災いしたのかもしれない」と語る。
死因のほとんどは溺死であるが、協議の意味での溺死は、気道に大量の水が一気に入り込み、呼吸ができなくなり、死亡する。今回の場合は9割以上が津波による溺死ではあるが、それに複合的な要因が重なり、亡くなったと診断できるものだった。
また、東京大学地震研究所の都司嘉宣氏は、
今回の津波では逃げる以前に、一気に波が襲いかかり、口から気道に入り砂や海水を運んだのではと考えられると語っています。
それを裏付けるかのように、火葬場の職員は、
「津波で亡くなった後、骨の周りに砂が大量に残っていた。割れた骨の中にも砂はあった」と証言しています。
<複合的要因>
・胸部圧迫による死亡
船や車、家、がれき押し寄せる波の水圧などが胸や胸部に時速数十キロのスピードで当たり、呼吸ができなくなった可能性
・一気に大量の水を飲み込むことでの窒息死
・凍死
津波に襲われた後、冷たい波の中で木などにつかまり救助を待ったが、寒さで体温が下がり、息を引き取った
・外圧
例えばがれきが頭に当たり、脳挫傷などになり死亡
報道にあった、
消防団員が避難を呼びかけている最中、ハンドマイクを握ったまま、亡くなった、との報道に対して。
「推測ではあるが、2つの理由が考えられる。
1つは、即死。プールなどでの溺死ならば手足を動かし、もがくから、手に持っているものも放す。今回は堤防を破壊するほどの水圧で押し寄せてくる津波だった。あの波が直撃すると、心臓や肺など循環器に障害が起きて即死になることは想像できる」
「もう一つの理由は、即時死後硬直。死後に体が硬くなる、いわゆる死後硬直は息を引き取った後、2~3時間で始まる。しかし、今回は非常に強い、精神的なストレスにより脳に障害が起き、死の瞬間に硬直した可能性がある。それにより、たとえばハンドマイクを握ったままの姿で亡くなったとも考えられる」
・宮城県東松島市の看護婦 尾形さん
彼女は津波で夫、娘、息子を失いました。
亡くなった3人は地震直後、自宅におり車で避難を始め、
「高台に避難したから大丈夫」との連絡を最後に音信不通となりました。
緒方さんは語ります。
「ラジオをなぜ聞いてくれなかったのかな。避難するというよりも、『津波は来ないだろう』という前提で車の中にいたと思う」
その後、巨大な津波が海岸に面する野蒜地区を襲った。
そして5日後、娘さんのご遺体が見つかりました。
数日後、娘さんが見つかった場所から数十メートル離れたところで、旦那さんと息子さんが見つかった。運河に水没した車中で旦那さんは息子さんを抱きかかえるようにしていた。
娘さんの死後、見つけたブログに、尾形さんは書き込みをした。
あなたのママ
貴女の足跡を辿りこのホームページを見つけました。頑張って生きていた貴女はいつも輝いていましたよ。そんな貴女を見ているのが嬉しくて自慢の娘でした。
助産師になってみんなの赤ちゃんを・・・と話す目は優しく、希望に満ち溢れていました。
ありがとう、たくさんのお友達。ありがとう、貴女のママでいられた22年間とても幸せでした。
ありがとう、ありがとう・・・
尾形さんは
「今も3人の死を受け入れることなんてできていない。なるべく少しずつ、少しずつ、自分の心の中に入れていこうとしている。すべてを一気に受け入れると、生きていけない。
なぜ私がここでいきているのか、わからなくなる」
「休みの日は3人の遺骨を納めてある寺院に行くのが、楽しみ・・・・・・」
「自分がこういう身になって、これまでは遺族への思いはしょせん、他人事だったんだと感じる。
誰もが”遺族に寄り添う”とは口にはするけど、簡単な事ではない」
「(心や体の具合は)以意外と大丈夫かもしれないと思うと、突然気分がドーンと落ち込んだりする。
スーっと3人がいないことを忘れたり・・・・・・。原点(3月11日)を思い起こしたり・・・・・・。その繰り返しで日々が過ぎていく」
と語っています。
ここ数ヶ月は家でも3人の写真は見ないようにしているそうです。
「見ると、母親になり、妻になる・・・・・・。
まだ自分のこととして受け止めてないのかもしれない」
それでも、
「(看護師は)娘が望んだ仕事だから・・・・・・。仕事もやめて、他のこともしないで、ボーっとしていたいと思う時がアある。
だけどあの人たちが『ダメだよそんなこと・・・・・・』と言っている気がする」
また尾形さんは「遺族に寄り添う」という言葉について、
看護師として震災前から遺族と接してきたから、思うことがあるのだろう。
遺族が抱え込む、悲嘆の状況もよく心得ている。
「寄り添うのは1~2年ではなく、10~20年という月日になる。
それくらいの覚悟がないと、支援はできない。遺族の身になって、わかってきた」
「遺族をケアするということは口で言うほど、簡単ではない」
と本音を打ち明けています。
・岩手県陸前高田市 吉田さん
吉田さんは3月11日の地震後、市内の高田町を中心に押し寄せた巨大な津波により、妻と息子、母を亡くした。
震災から半年を過ぎた頃から被災者の中でも意識の面で「差」が出てきたと吉田さんは感じている。
「友人や知人に会うと”大変だな”と言われる。家族3人がいなくなったことへの同情なんだろうね。
だけど俺はあまりいい気はしない。『買ったばかりの車が流されたから困った』
と愚痴るやつもいる。超くだらない・・・・・・」
その相手には、
「『よかったね。車ぐらいで・・・・・・。俺は大変だよ。代わろうか?』と言っている。
車も家も働いて買えばいいじゃない。俺は1万台の車を所有していたとして、その全てが津波で流されても悲しくない。
家族がいれば・・・・・・それでいい」
3月11日のことを思うと、
「悲しい、というレベルを超えている。俺の頭の中では、理解不能だ。あの日の昼に一緒に飯を食った女房、息子、母親がその数時間後にはいない。もう永遠に会えない。
そんなことがあっていいわけねぇ・・・・・・」
「地震が発生した時は、軽トラックでお客さんがいる現場に向かっていた。
急いで店に帰り、3人に『避難しろ』と言った。女房が『う~ん』と答えていたかな。
長い会話ではなかった・・・・・・」
「俺が浅はかだった。まさか、家まで津波は来ない。せいぜい、床上浸水だろうと思った。
その時点で、3人の運命は終わっていた。
津波が来ることを察知していたら、あいつらを車に乗せて高台を目指し、一気に走っていたんだ・・・・・・」
吉田さん自身も”死の寸前”の状況を経験した。
(消防団員として)避難誘導をしているときに、海岸のほうから巨大な津波が押し寄せてきた。
大きな声で「逃げろ!」と呼びかけ、急いで軽トラックに乗り、高台に向けて運転した。
だが、さっそく渋滞になり、前に進まない。
そして、
「俺の車のルームミラーに、津波が見えた。たぶん50メートル以内に迫っていた。
その直後、波がぶつかった。車がふわっと浮き、前の車にぶつかった。前の車の女性が振り返ったことを覚えている。あとは記憶にない・・・・・・」
かすかに覚えているのは、このすぐ後に軽トラックから降りて、走り出したこと。
水は太ももの高さになっていた。波が次々と押し寄せる。
すぐ横を、車が数十キロの速さで通り過ぎた。他にも家の柱やテーブル、がれきなどが流されてくる。
その中を走っては転びつつも、前に進む。
その時間は数分間に及んだという。
「”死ぬ、死ぬ”という思いが頭をよぎった。気がつくとずぶ濡れになって、小学校の付近にいた。奇跡だった」
3日後、自ら志願し、消防団員として遺体の捜索を始めた。
「人生であってはいけないことが、目の前で起きていた。
100人の遺体があるならば、その半分は知っている人だった。
友人の父親、母親。渋滞の時の前の車の女性の遺体もあった・・・・・・」
そして、
「自分が助かった直後から、(家族)3人の目撃者を必死で捜した。
1人しか見つからなかった・・・・・・。
女房たちが5分、いや、10分早く家を出ていたら、助かったかもしれない」
多くの人が亡くなった理由について、
「平和ボケさ・・・・・・。俺も含め、みんなが津波を軽く見ていた」
「当初、防災無線は『津波の高さは3メートル』と言っていた。この警報は確かに問題かもしれないけど、それ以前のところに大きな原因がある。
みんなが津波の怖さを知らなかった。亡くなった人も生き残った人も、津波をなめていた」
「それに尽きる」
「ここには津波は来ない、と防災マップに書かれてあった。みんなはそれを信じたんだ。
当日は300人ほどが避難したと思う。そのうち遺体として見つかったのは100人。
残りの200人は行方不明。引き波で海に運ばれたのかもしれない。助かったのは数人・・・・・・」
吉田さんはお客さんのもとを回るときに、時々、言われる言葉があるという。
「(生き残った)息子さんのために、がんばらないとね」
その場では「はい、がんばります」と答えている。だが胸の内は異なる。
「がんばれるわけがない・・・・・・。
家族3人がいない。がんばる、がんばらないというレベルの話ではない。
『長男が残っているから、がんばれよ』と言うなんて、俺には理解できない。
だけどお客さんだから言い返さないようにしている」
お客さんからは、「大変ですね」とも言われる。
「ああ、大変ですよ。俺と代わってもらえませんか」と言いたくなるようだ。
「こちらがどういう精神状態であるのかすら、想像できていない」と吉田さんは言う。
また、陸前高田市では多くの人が死亡したが、そのことに鈍感な人がいることにも静かな怒りを感じている。
「俺の前で、『ああ、あの人も死んだの』と平気で口にする。
一人の人が死ぬことが、残された家族にとってどのような意味を持つのかをわかっていない。
そんな話を聞くと、イラッとくる。
遺族の思いに心を寄せることができないならば、『お前も、同じ身になってみろ』と言いたくなる。
俺は悔しい・・・・・・」
被災地でもそのようなことを口にする人がいるという。
「人間の死を簡単に扱うべきではないはずなのに・・・・・・。
『1000年に一度の災害だから仕方がない』とも、言われたくない。
そんな言葉で片付ける問題なのかな」
それでも吉田さんは、こう続けます。
「俺はこの町を、陸前高田を離れない・・・・・・。
息子はそんな俺を見ていてくれる。
そこで何かを感じ取って欲しい」
・宮城県南三陸町 遠藤さん
南三陸町役場の職員として働いていた遠藤さん。
震災当日、他の職員と共に佐藤町長からの指示で防災庁舎に集まりました。
その後、防災無線で住民に避難を呼びかけ続け、津波に飲まれました。
多くの報道では美談化され、「1人でも多くの命を救うべく危険を顧みず自らの命を投げ出し、そして捧げた”殉教者”たちがそこにいた」と英雄のように報じられた。
しかし、「震災死」の著者、吉田典史さんが指摘するように、
「南三陸町役場の職員がなぜ死なざるをえなかったのか」という真相が記事からはわからないのです。
さらに毎日新聞の記事を取り上げ、女性も職員も自ら死を選んだとは言いきれないことがわかります。
毎日新聞 防災庁舎骨だけに より
午後3時20分。
遠藤さんが勤務する危機管理課に連絡が入った。
「津波が防潮堤を越えた」。
防災無線で避難を呼びかけていた遠藤さんに上司は言った。
「(遠藤)未希ちゃん、放送はもういいから」。
一緒にいた係長は「みんな避難したと思うが、その後がわからない」と振り返る。
記事における記者の判断において、事実をつかんでいるのならば、「書くべき」だろう。
こういう肉薄する報道を「好ましくない」と思う人がいるかもしれない。
また、死に至った真相を知ろうとすることを、「前向きになれない」と敬遠する読者もいるかもしれない。
しかし、尊い命が奪われていながら、真相を曖昧にする事はあってはならない。
2011年3月23日 朝日新聞
津波に襲われた南三陸町。
30代の母親ががれきの中でうずくまり、泣いていた。
あの日、2歳の娘を寝かしつけ山の向こうの町に買い物に出て地震に遭った。
娘は翌日、自宅があった場所から400メートルほど離れたがれきの下で見つかった。
いつもの歯磨きのように、口を大きく開けて指で泥をかきだしてあげた。
岩手県歯科医師会常務理事 西郷氏
(遺体安置所の体育館で)納体袋のチャックを半分だけあけて遺体の顔を出した。
お年寄りの遺体だったが、傷が一つもなくきれいで、眠っているようだ。
だが、開口器を使って口をこじ開けてみると、津波の恐ろしさを目のあたりにした。
歯の裏にぎっしり黒い砂が詰まっていたのだ。大量の砂ごと泥水を飲み込んで窒息したにちがいない。
喉の奥まで入り込んでいる。犠牲者の多くは泥水を飲み込んだことによる溺死なのだろう。
釜石市消防団員 坂本氏
(津波の翌日)避難所の石段を下りて瓦礫を跨ぎながら進んでいくと、道路の脇に人間らしきものが横たわっているのが見えた。
二歳ぐらいの女の子だった。ぬれた服が肌にはりつき、体中に大量の砂が付着している。
海水を飲んだのだろう、幼い顔が苦悶するように歪んでいた。
小さな顔や手からは血の気が完全に失われていた。
わずか二歳の女の子が一晩中ひとりぼっちで瓦礫にうずもれていたことが哀れでならなかった。寂しかったろうに。
坂本は瓦礫のなかから角材を拾い出し、近所の人からもらった毛布をそれに巻きつけ、担架をつくった。
女の子の遺体をそこに乗せて運ぶことにしたのである。
軽すぎる遺体を持ち上げたとき、潮と泥の臭いが鼻をついた。
なぜこんな幼い子が人生の喜びを知ることのないまま泥を被って苦しみながら死ななければならないのか。
朝の冷たい風が吹き付ける底で、坂本親子は嗚咽しながら女の子の遺体を運んでいった。
岩手県海上保安部 藤井氏
海上での捜索は一週間、二週間と過ぎていったが、生存者は一人も発見されず、海から引き上げたのは変色した遺体ばかりだった。
当初その多くが潮の流れが交じり合う潮目に瓦礫とともに浮かんでおり、男女ともに衣服が脱げて乳房や性器があらわになっていた。
激しい津波にもまれているうちに下着や靴下まで剥がされてしまうのだろう。雪の降るなか、漂流物にまみれて全裸で波に揺られる姿は痛ましかった。
(遺体の)多くは魚に食い荒らされて沈殿したまま見つからない。三陸沖にはウニやヒトデといった腐肉を喰らう海洋生物がたくさん生息しており、それらがあっという間に目の玉や皮膚をつついて穴を開けてガスを抜いてしまうのだ。
陸前高田市 消防団員・遺族の方々
陸前高田市市民体育館には地域の住民300人ほどが避難した。
しかし天井近くまで高さのある津波が押し寄せた。壁を押し破るほどの破壊力だった。
中にいた住民らは波に飲まれ、もがみ、100人ほどが亡くなった。
数人が助かったものの、200人ほどが行方不明になっていると言われている。
消防団員は地方公務員の非常勤特別職という立場であり、年間数万円の報酬で地域の住民を家事や災害から守る。
命を投げ出して地域を守ろうとしたにもかかわらず、この遺族らへの「弔慰金」は大幅に減額された。
死に至った経緯などを、国や市は調べようとしない。それを求める世論もない。
そして死から
1年も経たないうちに「幽霊扱い」を受ける。(体育館には霊がいる。近寄らないほうがいい・・・・・との噂話から)