南三陸便り | 「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ

「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ

私たち「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会は
東日本大震災ににおいて被災し、精神的・経済的に影響を受けた子どもや家族に対して、恒久的な心の支援を継続していく事を目的として設立され、活動している団体です

2011年9月11日 88の物語



Story #1
仕事はバーベキューから生まれる
マルアラ株式会社 代表取締役社長 及川吉則さん(45) [宮城県 南三陸町]




「震災後、工場には行ってないんですよ」

7月31日、宮城県南三陸町で水産加工業を営む及川さんはこう言った。

「工場」とは、及川さんが経営する㈱マルアラの工場。仕入れた水産品を加工し、出荷するための場所だった。
しかし、所有していた5つの工場のうち4つが津波で流された。



従業員は50名。
工場がなければ、従業員を食わせることはできない。骨だけになった建物を見ても、途方に暮れるだけだろう―
そう思うのは、ものに固執する都会人の発想だ。

及川さんは、あっさりこう言った。

「工場に行っていないのは、見るのが怖いからではありません。いまはもう、興味がないんです。」

3月11日、及川さんはその工場のひとつにいた。海からの距離は「わずか20歩」。
6メートルの津波警報を聞いた及川さんは、すぐさま従業員を帰宅させ、自らも高台に向かった。

でも津波到達時、及川さんの姿はなぜか「海から20歩」の工場にあった。
トラックを高台に避難させたのち、戻ってきたのだという。
我が工場に迫りくる津波を、ビデオにおさめるためだ。

「津波が近づいたら、後ろにある山に逃げればいい」

及川さんの目は、自らにふりかかろうとする「現実」を直視していた。





「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ



#1-2 津波の影響で、主力の養殖品は売れない。「でも、仕事は増えている」



及川さんはどんな経営者か―。

一言で形容するのは、なかなか難しい。
従業員50名を有する会社の社長さんだ。人口18000人にも満たなかった南三陸町では大会社だ。
でも及川さんに近寄りがたい雰囲気はない。実際、よく従業員と間違われる。

「社長のオーラがないんでしょうなぁ」

及川さんを訪問したのは、震災からわずか4カ月後の7月。事業再建に、明るい見通しがあったとは言いづらい。
でも焦った様子もなければ、めまぐるしく動く毎日を「楽しい」とさえ言う。目の前を流れる時間に、ただ身を任せている。

「売上目標とか、業務の効率化とか、あんまり考えないですか?」

と聞いたら、

「一応経営者だから考えてるよ!」

と返ってきた。でもそうは見えない。

ひとつ言えるのは、ビジネスセンスはあるらしい、ということだ。
マルアラの始まりは、父が始めた行商にある。父は水揚げしたホタテやワカメを、内陸部に売って歩いた。
それを法人化したのが、2代目の及川さんだ。

わずか数人の仲間と「こつこつ」仕事を続けた父に比べたら、及川さんには「ビジネスを広げる」センスがあったのかもしれない。
主力である牡蠣の養殖事業では、消費者の信用を得るために「牡蠣のトレーサビリティシステム(生産者や流通ルートを追跡できるシステム)」を導入した。
牡蠣の水揚げ量・日本一(市町村単位)を誇る南三陸町でも、このシステムを導入しているのはマルアラだけだ。

また、最近「健康によい」と注目されている「めかぶ」を商品化したのも及川さんだ。
もともと加工過程で捨てられていた「めかぶ」を別の加工会社に提供し、商品化してもらったのだ。
いまも、ジャスコなどの大手スーパーで流通されている。

そんな及川さんが育てた事業は、大きく分けて2種類ある。

ひとつは、先代が基盤をつくったホタテやワカメ、牡蠣などの養殖事業。
もう一つは、海藻類を仕入れ、商品化して小売店に販売する加工事業だ。
後者は及川さんが育てた。取扱量を徐々に増やした結果、売上・従業員数は父の代の10倍になった。

でもあの日、養殖していた牡蠣やワカメは津波と共に流れた。さらに加工業に力を入れようにも、仕入先の多くは震災を機に廃業している。
なのに、及川さんは言う。

「震災後、仕事はどんどん増えているんです。」

従業員も絶賛募集中だ。




「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ



#1-3 震災直後は、「生きるために生きた」



及川さんのいた南三陸町泊浜地区は、地震によって孤立した。
半島になっている泊浜地区を津波が横断し、道路が寸断されたからだ。
地区に取り残された約650人の住民は、道路が復旧するまでの約2週間「自給自足」の生活をした。

何よりも優先したのは「生きる」ことだ。日の出と共に起床し、日中は食料確保にあてた。
夕方には薪でご飯を炊いた。海で拾った貝や魚を、焼いて食べた。
お風呂はないから、タオルをお湯に浸して体を拭いた。電気がないから、日の入りの19時には寝た。

でも、少しでも「待ち」の姿勢になると、650人の食はすぐにあやうくなった。
だから、地区にあった養鶏場から鶏を70羽調達した。もちろん、食べるためだ。
餌もないし、売ろうにも運ぶ術がない鶏たちを、養鶏場のオーナーは快く提供してくれた。
1羽1羽、育てては次々に食した。

「そういえば、隣の地区にはカモシカもいたな・・・」

と次の食料源も考えてはいたが、結局カモシカのお世話にはならなかった。

この時期を振り返り、及川さんは「仕事のことを考えなくていいので、ラクだった」という。
お客さんとは連絡すらとれない。受注を受けたところで、商品を運ぶ術もない。
 
でも及川さんの仕事脳は、すぐに動き出した。町を歩くと、仕事仲間に出会うからだ。




「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ





#1-4 町全体で生きていく



震災後、及川さんは町を歩き続けた。
食料を調達するため、物資を運ぶため、人を探すため。その過程でたくさんの仕事仲間とも出会った。

特に多かったのは、及川さんが「浜の人」と呼ぶ生産者たちだ。
加工業を営む及川さんにとって、「浜の人」は「仕入先」でもある。

「ワカメがあるけど、買ってくれる先がないんだよ」

ワカメの水揚げ量・日本一を誇る南三陸町には、ワカメの養殖業者が多くいる。
しかし震災後は、購入窓口である漁協が機能しなかったため、在庫が余っていた。
結局、地区にあった在庫は、すべて及川さんが買い取った。
養殖業者の生活を守るため、価格はあえて通常の1.5倍にした。

こういう「助け合い」は、震災前からあった。でも本来、「メーカーと浜の人は背中合わせ」なのだという。
メーカーとは、マルアラのような加工業者を指すが、必要以上に安くで仕入れたうえに高値で販売する業者も多く、信頼関係が築きにくいのだとか。

でも及川さんは、良いものは必ず高値で仕入れた。
さらに安価でしか売れないものも「浜の人が生活できる」価格で買い、まとめ売りや企画商品に変えてさばいた。

町全体で生きていく。

だから5つ中4つの工場が全壊しても、廃業は考えなかった。及川さんの仕事の向こうには、住民一人ひとりの生活が透けて見える。





「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ




#1-5 仕事はバーベキューから生まれる



7月。泊浜地区に、仮設住宅が整備された。住民たちの目下の楽しみは、バーベキューだ。
バーベキューは、震災前から地区のコミュニティの核だった。

幸い、及川さんの自宅は高台にあり無事だった。でも自宅のすぐ下には、仮設住宅がある。
火を起こしていると、いつの間にか40人も集まっていたこともあった。

仮設住宅でもバーベキューが行われている。
地区にはいくつもの仮設住宅が点在するから、帰宅途中の及川さんは立ち寄る場所が増えた。

「何軒ものバーベキュー会場に立ちよるから、家に着くまでにかなりの時間がかかる(笑)」

あの震災を乗り切ったたくましい住民たちだが、バーベキューのとき、あえて未来の話はしない。
バーベキューを介して及川さんが向き合っているのは、「不安」だ。
多くの仕事仲間は、いまも先の見えない不安と闘っている。一人ひとりの不安に向き合い、真剣に知恵を絞ったら、次の仕事の種が生まれるという。

「仕事は、人対人で生まれるものですから」

会社を再生するとき、欧米の経営者は魅力的なビジョンを掲げる。明るい未来を力強い言葉で示し、従業員や関係者を扇動することが目的だ。
しかし、500人以上の町民を一瞬にして失ったこの町で、言葉は未来を見いだす手段にはならないのかもしれない。

だから今、確かに見えているのは、バーベキューを囲んでいる現実だけ。
目の前の現実だけが、明日を生きる仕事を生む。




「子どもの心に太陽を」プロジェクト実行委員会のブログ




#1-6 [取材後記] 仕事に「目標」は必要か





目標やビジョンという言葉が、日本のビジネス界で重視され始めたのは、いつ頃だったのでしょうか。

仕事上のビジョンをつくり、それをもとに習得すべきスキルや適した職場を逆算する。
欧米から輸入された目標志向型の働き方は、自分らしさを体現する働き方として、ある時期、キラキラと輝いて見えました。

この考え方は、「成果主義」という形で企業にも浸透しました。
会社のビジョンに沿って、個々人が発揮する成果をコミットする。それは、とても効率的に見えました。
だって、上司におべんちゃらを使ったり、根回しをしなくても、成果を出せば居場所が与えられるというのですから。

でも、どことなく違和感もありました。

それは、例えば
「間違った成果主義の導入が、ギスギスした組織を生んだ」とか、
「自分の成果ばかりに集中するあまり、他人を蹴落とす社員が出てきた」
といった、成果主義がもたらしたデメリットゆえではありません。

いまも、それを明確に表現する言葉は見つかっていませんが、あえていうなら「日本人が培ってきた精神性との齟齬」なのかもしれません。

農耕民族の日本人にとって、仕事は自然とともにありました。
四季の存在に加え、台風、地震など、自然の畏怖とともに生きた日本人にとって、仕事の成果は「アンコントローラブルな存在」だったように思います。

ニューヨークタイムズの記者は、こう言います。
「米国人は自然を人間と対立するものと考え、操ろうとする。一方、日本では人間は自然の一部でしかなく、ただその流れに乗って漂うものだと考えられている。」

だから農家の人は、育てていたりんごが台風で木から落ちても、こう言って前を向きます。

「しょうがない」「しかたない」

どのくらい収穫できるか分からないけど、目の前のりんごを育てることに集中する。その経験の蓄積が、りんごづくりのプロをつくる。
それが、日本人と仕事の接点だったように思います。

しかし、徐々に、こう変わっていったようにも感じます。

「結果に結びつく行動は、正しい行動」
「結果に結び付かない行動は、非効率な行動」

非効率なひとが会社で居心地の悪さを感じるのは、このせいでしょう。

及川さんは震災後、物産展や商談で全国を飛び回っています。
出張先は東京や北海道など、「被災」の影は見えない場所ばかりです。町にはネオンが灯り、震災前の「日常」が戻っています。

でも南三陸に、いまもネオンはありません。出張先から戻り、最初に見えるのは、津波にさらわれた土地と瓦礫です。
その「非日常」をどう思うのか尋ねたら、こう教えてくれました。

「南三陸ですれ違う人はほとんど知り合いなので、挨拶するのが忙しい。タクシーで行き先を告げなくても、自宅に着いている。
 何もありませんが、自分の存在感が感じられる町です。」

千年に一度の大復興に、いまのところ正解は見えていません。
何をすれば、町全員が食べられるようになるのか。及川さんにとっても、手探りの毎日です。
でも一人ひとりが主役として感じられるから、町のためにがむしゃらになれるのでしょう。

目的を忘れて目の前のことに妄信的になってしまいがちな日本人にとって、成果主義や目標志向型の考えは必要なのだと思います。
でもそれより必要なのは、自分が主人公と感じられる場所なのかもしれません。