石見銀山訪問記1 | 蔵六の雑記帳

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過去にそしていま感じたまま、思うままを記していきたい思っています。
面白くない話かもしれませんが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

今回から島根県にある世界遺産に登録されている石見銀山を訪問した時のお話をしたいと思います。

 

石見銀山は2007年にユネスコの世界遺産に登録されました。

 

 

産業遺産としてはアジア初の登録でした。

 

 

石見銀山は14世紀頃には本格的な採掘が行われていたと言われています。

 

採掘の開始はそれよりもかなり前と考えられています。

 

当初は地表に露出していた鉱石の採集が主体でしたが、徐々に坑道を掘り進める大規模な採掘が進んだようです。

 

 

初期は鉱石から銀などの金属を製錬する技術が未熟なため銀の生産量はそれほど増加しませんでした。

 

1533年に博多の商人である神谷寿貞が博多が吹大工(製錬工)とともに石見銀山にやって来ました。

 

そして、彼らが朝鮮半島から伝わったとされる灰吹法による銀の製錬に成功したことで銀の生産量は飛躍的に増加しました。

 


 

その後、近隣の大内、尼子、毛利、各氏が石見銀山の支配をめぐって激しい戦いを繰り広げました。

 

この争奪戦も天下統一を果たした豊臣氏の台頭により終止符が打たれ、石見銀山は豊臣氏の支配の元で採掘が続けられました。

 

 

その豊臣氏も徳川氏に滅ぼされ、石見銀山は徳川幕府の直轄領となりその支配は徳川幕府が担うことになりました。

 

 

その後も安定して銀の産出を続けていましたが、17世紀後半より銀の産出量が減少し始め、銀以外の金、銅の産出を続けることで命脈を保っていましたが、大正末期に廃鉱となりました。

 

 

夜も更けてまいりましたので続きは次回に譲りたいと思います。

 

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。