では前回の続きをお話したいと思います。
上野城の石垣のお話しを続けさせていただきます。
石垣だけを見れば徳川家が威信をかけて全国の大名に命じて築城した大阪城に勝るとも劣らないと私は思います。
(大阪城)
しかしながら、この立派な石垣は城全周ではなく、西側にのみ存在します。
東と北の一部には石垣ではなく、土塁や石塁(単に石を積み上げただけの構造なので石垣のように高くできない)で作られていたようです。
(土塁)
なぜ、一部分にだけ高石垣が作られたのでしょうか?
石垣は土石を積み上げその外周に石を積み上げることにより、石塁より高くまた強固なつくりとなっており、手間と時間がかかりますが防御力に優れています。
藤堂氏が伊賀上野に城を作っていた時期は秀吉亡き後、徳川氏と豊臣氏がにらみ合いを続けていた時で、大阪から豊臣氏が打って出てきた時の最初の守りとして伊賀上野城を考えており、伊賀上野からみて大阪方に強固な高石垣を作ったものと思われます。
今回は石垣のお話しばかりになってしましました。
次回からもっと時代が下った時期に作られた建物についてお話をしたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。