琵琶記疏水記念館10 | 蔵六の雑記帳

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過去にそしていま感じたまま、思うままを記していきたい思っています。
面白くない話かもしれませんが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

今回から三大事業の三つ目である「京都に市電を走らせる」についてお話ししたいと思います。

 

京都市電が廃止されて久しいですが、私が小学生の頃までは現役で活躍していたのでよく憶えています。

 

 

 

子供心に思ったのは、京都の道は中央に市電が複線で走ってもまだ車が余裕でその脇を走り抜けてゆくので、さすが平安京として作られた街路は広く作られているのだなと感心していました。

 

 

なぜ、そう思ったかというと、学校で平城京や平安京で一番大きな通りである朱雀大路は幅が100メートル近く(正確には85メートルだそうです)あると習った記憶があり、その当時の京都市の道も往事の朱雀大路に準じるほどの道幅がそのまま残っていると思い込んでいたからでした。

 

しかし、京都の歴史を紐解いてみると、今から500年ほど前の室町時代に起こった応仁の乱で京都の町は焼け野原になり、平安京創建時のものはほぼ全て灰燼に帰してしまい、往時の街路の面影は無くなってしまいました。

 

その後の安土桃山時代に織田信長や豊臣秀吉によって復興されるのですが、往時の区画からは大きく変貌してしまいました。

 

そして、江戸幕府が開かれると京都の町は徐々に衰退し、通りには家の無い貧しい人々や露店の小さな小屋が建ち並び、かつて大通だったところも狭い通りになってしまいました。

 

 

明治になってその狭い通りに電車が走り始めるのですが、狭い通りに走らせることが出来るのは幅の狭い狭軌用の電車であるため、一両当たりの輸送人員が少なく、なおかつ単線である故に行き違いでの停車が多く、たくさんの列車を走らせることが出来ませんでした。

 

 

人や物の移動が滞れば京都の復興がおぼつかなくなります。

 

そこで、より大きな列車を走らせるため、狭軌(1067mm)を標準軌(1435mm)とし、さらに往来する列車の本数を増やすために単線から複線にすることが計画されました。

 

しかし、江戸時代のままの狭い通りではこの計画を実行すること出来ないので、列車を走らせる主要な通り周辺の建物や住民を移動させるなどして、通りの幅を拡張していきました。

 

さらにより大きく重い列車を安全に通すため、同時に木造だった橋をコンクリート製に架け替えを行いました。

 

この時期に掛け替えられた橋の大半は時代が下がってさらに掛け替えられましたが、七条大橋だけは架け替えられずに現存しており、現在も現役の橋として使われています。

 

 

第3展示室のお話はこのあたりにして、次回からは二階の展示室についてお話させていただきたいと思います。

 

今回も最後までお読みいただきありがとうございました。