それでは前回の続き三大事業の二番目「地下水に頼ってきた飲料水を上水道の敷設により置き換える。」についてのお話をさせていただきます。
京都は山紫水明の地として盆地特有の豊かな地下水が湧き出す水に恵まれた土地でした。
いまでは想像がつきませんが、平安、室町期には京都盆地の西側は人が住むのに適さないほど水が湧き出す湿地帯でした。
しかし、明治期の中頃になるとその豊かな地下水が涸れ始め、徐々に水質も悪化してゆきました。
水質の悪化とともに京都市内で伝染病が発生するようになってきました。
そんな状況に危機感を覚えた京都市は疏水の水を水源として上水道を作ることを計画しました。
その水需要を満たすには最初に作られた疏水では水量不足であるために第2疏水が引かれることになりました。
そして、その水を飲用目的の上水として市内に配水するのですが、当時の琵琶湖の水は現在ほど汚れてはいませんでしたが、そのまま飲用出来るほどきれいな水ではなかったため浄水する必要があります。
そこで、琵琶湖疏水の京都市側の出口である、この琵琶湖疏水記念館が建っている蹴上の地に浄水場が建設されました。
この蹴上の地は京都市内を見下ろす東山の麓にある高台なので、ここに浄水場を建設すれば、ポンプなどの動力使わずに重力で配水可能であったのも、ここ蹴上に浄水場が作られた理由の一つです。
そして、この浄水場には明治29年(1896年)にアメリカで実用化されたばかりの急速濾過方式が採用されました。
急速濾過方式の浄水は大量の水を濾過することが出来るのですが、使用する薬剤や施設の管理に当時としては高度な技術を要するですが、この頃は先にご紹介した田邊朔郎に続いて西洋技術を学び、吸収した技術者が次々と世に出てきて、急速濾過のように使われ初めてまだ15年ほどの最新技術の導入、実用化が可能になってきていたのでした。
その後も増加する京都市の水需要に対応するため浄水場が増設されていきましたが、疏水自体は建設から100年以上を経た現在も第3疏水を増設することなく増加する水需要を賄えたのは明治期の計画に先見の明があったからではないでしょうか。
ここでご紹介した蹴上浄水場は現在も同じ場所にあり、設備などは随時更新されていますが、現役で稼働しています。
場内はツツジの名所として知られており、毎年ツツジが咲く初夏に浄水場内が一般公開されています。
私も機会があれば訪れてみたいものです。
これで、三大事業の二番目「京都市に上水道を敷設する。」についてのお話を終わらせていただきます。
次回からは三大事業の三番目についてお話しさせていただきたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。