では前回の続きを始めさせていただきます。
真正面の大きな入り口は普段締め切っているようで、入り口の立て札(ドアの前にある木製の看板)には右側の入り口から入って、左側から退出してくださいと書かれていました。
この案内書きにしたがって、左側の小さい扉を開けて堂内にお邪魔しました。
(前回のブログにも書いておりますが、これ以降は堂内を撮影した画像はございませんのでご了承ください)
先ほど神父様に教えていただいた通り、入り口を入ってすぐのところにあるスイッチを押して照明を点灯すると、堂内には誰もいらっしゃらず、しんと静まり返っていました。
真正面に祭壇があり、まずお祈りをさせていただきました。
カトリックのお祈りの仕方がどんなものかわからなかったのでただ無心に手を合わせ頭を垂れてました。
お祈りを済ませて、改めて堂内を見回すと、左右の壁に絵が掲げられているのに気づきました。
キリスト教の教えはよく知らないのですが、見ていくとキリストの生誕から復活までを描いた宗教画だということがわかりました。
改めて一枚一枚ゆっくり見てゆきました。
見てもこれがどういう説話かまったくわからないところもありましたが、絵を見るだけでも少しキリストの教えがわかったような気がしました。
やはり、これらの絵について文章か口頭での説明がないとまったくわからないところがあるので、新たに信者となられる方には司祭か、もしくは親から子へキリストの教え説きながらこれらの絵を見て廻られるのかななどと考えながら最後まで絵を見て廻りました。
さらに堂内を見て廻ると堂内の広さに似つかわしくない小さく、古いオルガンが置かれていました。
ちょうど私が小学校に通っていたときに各教室に置かれていたほどの大きさです。
堂内は小学校の教室の2倍から3倍ほどの広さなので、オルガンの音が堂内の隅々まで届くのだろうかと思ってしまいました。
しかし、閉じられたオルガンの天板の古さを見ると、長年信者の皆さんの声に合わせて賛美歌を奏でているように思われます。
そして、信者の皆さんはそのオルガンの音に不自由を感じることなく、ここにあり続けていたのだと思いました。
教会堂の中を一回りしたあと、時計を見るとまだ帰りのバスの時間まで少し時間があったので、信者の皆さんがお座りになっているベンチ(会衆席というらしいです)に腰掛けてみました。
そうするとベンチの物入れから本が覗いていました。
どうも聖書か賛美歌の本のようです。
たぶん信者の方お一人お一人の席が決まっているので、各自の聖書や讃美歌の本は持ち帰らずに教会堂においたままにされているのだろう思いました。
個人の持ち物のようなので、それには触れずに机の上に手を置いてしばらくの間お祈りと瞑想をしました。
堂内はとても静かで、いつも何かに追われるような騒々しい日常から隔離され、心静かに落ち着けるひと時でした。
目を閉じて瞑想していると時を忘れてしまいます。
ふと、時計をみると帰りのバスの時間が迫ってきていました。
このバスを逃すと次のバスは1時間後になるので、もう少し留まっていたい気持ちを抑えて帰り支度を始めました。
聖堂を後にする前に祭壇の前で最後のお祈りをして、後ろ髪を引かれる思いを断ってバス停までの階段を下りてゆきました。
余裕を持って出たつもりでしたが、バス停に着いてみるとバスが来るまであと五分ほどしかありませんでした。
程なくして定刻通りバスがやってきました。
ドアが開いて乗り込むとバスはすぐに走り出しました。私は教会堂がある側に座って最後のお別れをして、元来た道をバスに揺られて長崎駅に向かって帰路につきました。
これにて今回のお話を終わらせていただきます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございます。
終わりに際し、この場を借りて教会堂内の見学をお許しくださった大山神父に御礼を申し上げます。
また、4回にわたるこの連載を最初からお読みいただいた方々へ長期にわたりお付き合いいただきありがとうございました。