では、前回の続きからお話を始めたいと思います。
日本二十六聖人記念館の主な展示は京都、大阪に集められたキリシタンやその支援者をがここ西坂の丘へ向かう道中の出来事を年譜したものや彼らが両親や友人などに送った手紙、文書、そして二十六聖人の聖遺物と伝えられるものなどです。
それ以外にもキリスト教がまだ禁止されていない時期に日本に持ち込まれた聖書、聖画像、絵画、地図、彫刻なども展示されています。
また、なぜ、日本でキリスト教が禁教となったのかを知るための展示、キリスト教の禁教下におけるキリシタンへの弾圧の様子を示した文書やそのような弾圧下でキリシタンがキリスト教の教え次世代に伝えるため使用していた遺物、儀式、キリシタンの末裔である古老がその方法を実際に行っている動画など日本独自のキリスト教文化が解る展示がされています。
個人的にはキリスト教禁教下でキリシタンがどのように教えを伝えていったかを知るためのこれらの展示は世界遺産登録すべき価値があると思っていましたが、この文章を作成するに当たり改めて調べ直してみると「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」へと見直しをする過程で日本二十六聖人殉教地が構成遺産に含まれることになったようですので、日本二十六聖人記念館のこれらの展示物も構成遺産に含まれることを希望しています。
このように展示内容は二十六聖人に関することだけに留まらず、日本でのキリスト教布教やそれにともなう西洋文化の伝搬など多岐にわたる展示がされています。
残念ながら展示物は撮影していないのでここでご紹介出来ませんので、日本二十六聖人記念館の展示や展示品についてもっとよく知りたい方はホームページが開設されていますので、こちらのアドレスhttp://www.26martyrs.com/index.html にアクセスしてみてください。
これらの展示の中でもやはり二十六聖人が京都から大坂へ、そして山陽道を西へ向かう苦難の道のりを示した年譜、そしてまだ十代半ばにも達しないキリシタンが親族に送った手紙を読んでいると目頭に熱いものを感じます。
これら数多くの展示の中で私が特に心を打たれ、涙したのは二十六聖人の一人でスペイン人司祭の聖フランシスコ・ブランコが槍で突かれ、絶命したあとも顔から微笑みが消えることが無かったという記述でした。
これは私の宗教に対する理解ですが、宗教や信仰は老いや死への恐れ、苦しみを和らげるためにあったものだと考えています。
しかしながら、現代の宗教は当初の姿や目的を変えて現世の利益や幸福を求める俗物的なものに変化してきているように思われます。
この変化は信仰する側に留まらず宗教の教えを説く側である人々をも現世の利益、幸福を望み、死への恐怖へおののく俗人へと変えていったように思われてならないのです。
こういう現在の宗教界を見ていると、死への恐れ持たず、微笑みながら絶命した聖フランシスコ・ブランコが身を持って示した宗教の役割が500年という歳月を経て大きく変貌したのではないだろうかと改めて思いました。
そして、展示を見終えて日本二十六聖人記念館をあとにした時、私は聖フランシスコ・ブランコのように心穏やかな死を迎えることができるのだろうかと自問しつつ次の目的地へと移動したのでした。
今回で日本二十六聖人記念館の話は終わらせていただきます。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。