前回の続きを始めさせて頂きます。
ここで、皆さんの中にはなぜペンネームが益次郎でなく、蔵六としているのか疑問に思われるかも知れません。
これは私の勝手な思い込みですが、今までお話してきたとおり無骨で人付き合いの下手な彼には益次郎より蔵六の方が似合っていると思ったので、益次郎ではなく蔵六の名を使っています。
最後に彼らしくない逸話をご紹介して、お話を終わらせていただきたいと思います。
まず、彼の画像をご覧ください。
彼は長州藩内では火吹き達磨と呼ばれていました。彼の秀でた額と人情味のない物言いを併せてそう呼ばれていたのだろうと推察されます。
決して女性にもてる顔ではないありませんが、その蔵六も死ぬ間際まで妻である琴子以外に親交のあった女性がいました。
その女性とは、幕末の日本における西洋医学、蘭学の父とも呼ばれている、かのシーボルトの娘であり、日本で初の西洋医学による産科医となった”楠本イネ”です。
彼女は蔵六(大村益次郎)が京都で襲撃されて大怪我を負った後、亡くなるまで看護し、彼の最期を看取った女性です。
(彼の正妻である琴子は終生鋳銭司村を出ることはなく、彼の最期を看取ることもありませんでした)
イネと蔵六の関係は単に師匠と弟子の関係(蔵六は宇和島でイネにオランダ語と医学を教えていました)なのか、医者同士の友人関係なのか、はたまた恋愛関係だったのかは定かではありませんが、この人情味のない機械のような理性を持った蔵六とって唯一と言っていい人間味のある逸話です。
楠本イネの消息を伝える銘板が岡山市内にあります。
この楠本イネについてはまた機会があればお話ししたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。
長きにわたった蔵六のお話も今回が最後となります。
最後に5回にわたるこのお話を最後までお読みいただいた方々に深く感謝いたします。