では、前回の続きから始めさせていただきます。
蔵六は桂小五郎(後の木戸孝允)と知り合った縁で長州藩士となり、その後の幕府による長州征伐を退ける立役者となりました。
その後の戊辰戦争では総司令官として数々の戦績を収めて明治政府樹立の礎を築きました。
あまり語られることはありませんが、戊辰戦争と言う大きな内戦がわずか一年で終結したのは蔵六こと大村益次郎の西洋兵学を駆使した合理的な用兵と軍略によるところが大きいといわれています。
(ほとんどが政治家である明治の十傑のなかに技術者である大村が名を連ねるのは戊辰戦争を早期に終結させた功績によるといわれています)
明治政府では兵部省政務官として軍制近代化に着手しましたが、志半ばに京都三条において元長州藩士に襲撃され、その傷が元で明治2年(1869年)11月5日に大阪で息を引き取りました。
その襲撃場所である宿屋のあった場所にその歴史を刻む石碑が建っています。
その石碑の隣には明治維新の立役者の一人である佐久間象山遭難の石碑が並んでいます。
蔵六と同様に兵学者であった佐久間象山が同じ場所で命を落としたのは歴史の偶然なのかそれとも必然であったのでしょうか。
蔵六の生涯については司馬遼太郎先生の「花神」という本に詳しく書かれていますので、興味ある方は一度お読みいただければと思います。
また、1977年(昭和52年)に中村梅之助主演でNHKの大河ドラマになっているので、本を読むのが面倒だと思われる方はビデオをご覧になることをお勧めします。
村田蔵六の生涯についてはこのあたりにして、本題である私が村田蔵六(大村益治郎)の名前を私がニックネームに選んだかについてお話したいと思います。
それは、彼の人柄とその生き方に憧れを抱いているからです。
では私が蔵六のどんなところに憧れを抱いているのか、いま少し村田蔵六の人となりについお話したいところですが、夜も更けてきましたので、次回にそのお話を譲りたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。