今回から私がニックネームとして使っている蔵六についてのお話したいと思います。
自分の分身ともいえるニックネームなのでもっと早くにお話すべきところなのですが、遅筆ゆえにずるずると遅くなってしまいました。
蔵六の名前は明治の十傑の一人である大村益次郎の改名前の名前である村田蔵六からいただきました。
明治の十傑といえば西郷隆盛を筆頭に大久保利通、木戸孝允などそうそうたる政治家の名前がすぐ浮かぶ方も多いと思いますが、大村益次郎の名前を思い浮かべる方は少ないと思います。
というか大村益次郎という名前をご存知の方が少ないと思います。
そこで大村益次郎こと村田蔵六についてまずご説明したいと思います。
蔵六は周防国吉敷郡鋳銭司村(現在の山口県山口市鋳銭司)の村医者の長男として 文政7年5月3日(1824年5月3日)(一説には文政8年とも言われています)に生まれました。(村医者といえども身分は農民です)
蔵六はペリーが率いる黒船の艦隊が来る嘉永6年(1853年)のほぼ30年前、幕末の嵐が吹き荒れる前の静かな日本の片田舎に生まれました。
長じて村医者としての知識を習得するため各地を遊学し、医学はもちろん、漢詩、漢籍(中国語の書物)、算術、そしてその当時の最先端学問である蘭学を学び、さらに遊学中の師からの勧めもあって、当時、蘭学塾として優秀な学生が集まっていることで全国に名の知られた緒方洪庵の適塾(後の大阪大学医学部の前身)に入塾しました。
優秀であった彼は後に適塾で塾頭を勤めるまでになりました。
(適塾を大学に例えると緒方洪庵が教授で塾頭である蔵六は助教授、准教授という立場です)
このように全国から優秀な学生が集まる適塾で塾頭に昇進するほどの蔵六も家業を継いでほしいと父親に請われて、故郷の鋳銭司村に帰り村医者を継ぐこととなります。
しかし、全国に名を知られた蘭学塾である適塾で塾頭まで勤めた蔵六を幕末という時代が放っておく訳もなく、また村医者に嫌気がさしていた蔵六本人の意思もあり、伊予国(いまの愛媛県)の宇和島藩へ出仕することとなります。
宇和島藩ではオランダ語で書かれた西洋兵学の本を翻訳する傍ら軍艦(ペリーが乗ってきたような蒸気駆動の外輪船)の建造や西洋式砲台の建設にも携わりました。
その後、江戸に出て蘭学塾を開いて全国から西洋兵学を学ぶため集まってきた学生の指導に当たりました。
さらにその名声を聞きつけた幕府から、西洋兵学の教授として招かれることになり、いままでまったくと言っていいほど無名であった村田蔵六の名が出身である長州藩に知られるようになって来ました。
そして、この江戸での名声が長州の桂小五郎(後の木戸孝允)の知るところとなり、彼の人生を大きく変えることとなる長州藩出仕のきっかけとなったのです。
お話はまだ続くのですが、夜も更けてきましたのでこの続きは次回に譲りたいと思います。
今回も最後までお読みいただきありがとうございました。