小樽の歴史的建造物(旧金子元三郎商店) | 蔵六の雑記帳

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面白くない話かもしれませんが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

週一回のペースで更新していましたこのブログですが、生来の怠け癖が出てしまい一週サボってしまいました。


いつもお読みいただいている読者の皆様には大変申しわけありません。

お詫びいたしますm(_ _ )m


たまにこんなズル休みしてしまう私ですが、今後ともよろしくお願いいたします。


さて、北海道小樽市を訪れたときに出会った歴史的建造物を何回かに分けてご紹介するシリーズの続編です。


前回のお話をご覧になりたい方、小樽市についてお知りになりたい方はこちら

小樽の歴史的建造物(旧名取高三郎商店)


今回は旧金子元三郎商店をご紹介したい。


金子元三郎商店は明治、大正にかけて小樽で肥料、海産物、海運業などを幅広く営んでいた。


商店主である金子元三郎氏は越後の資産家の家に生まれ、長じて小樽の漁業家金子家の養子となり、後に金子元三郎の二代目となった人物である。


彼は商売に辣腕をふるって資産をなす一方で、政界とも繋がりを持ち、初代小樽区長や衆議院議員、貴族院議員などを務めた小樽を代表する名士でもあった。


この商家は明治20年(1887年)に建てられたもので、建物正面に火災の多かった小樽で、防火用のうだつ(下の画像で一階屋根に設置された壁に似た構造物)が両側に立ち、2階窓には建築時から設置されていると思われる漆喰塗りの開き戸が残っている木骨石造で、創建時の姿をよく留めている。


木骨石造とは外壁は石で作られているが、内部の構造体(建物を支え形作っているもの)は木組みで作られた建物である。



また、この建物では中江兆民(※)を主筆に迎えた小樽最初の日刊新聞である「北門新報」が印刷、発刊された。

(※明治期の自由民権思想家であり衆議院議員を務め、さらにジャーナリストとしても活躍した)


現在この建物はおたる瑠璃工房というアクセサリを販売する店舗として営業している。


お店に入っていないので、内部の様子をお伝えできす、また、お店のホームページも見当たらないようなので、ホームページから内部をご紹介できないのは残念である。


金子元三郎商店のその後について少し調べてみたが、商店自身のその後はよくわからなかったが、金子元三郎氏の子息である金子隆三氏は東京帝国大学卒業後、税務、大蔵官僚として各種役職を歴任したあと、退官して朝鮮殖産銀行副頭取を務めた。


その金子隆三氏は横浜税関長就任中に遭遇した関東大震災で倒壊した横浜税関の建物の再建に奔走し、その再建した建物は緑青のドームを持つ西欧建築様式を取り入れたクイーン塔として現存している。


私自身はドームをもつ姿がイスラム教の寺院であるモスクを連想する。





親子二代にわたって後世に残る歴史的建築物残したのは偶然ではないのであろう。


金子親子の業績に敬意を払い今回のお話はを終わりとさせていただきたい。


親子二代歴史に残る建物を

関わる偉業に敬意表して


なお金子親子は東京都府中市にある多磨霊園の同じ墓所に眠っている。


今回のお話とは全く関係ないが、小樽を訪れたとき珍しいものを見かけたので、ご紹介したい。



少し見えにくいかもしれないが、歩行者用信号の右側、電柱との間に縦長の細い表示灯が見えるかと思います。


これは、信号が変わるまで残り時間を示すもので、撮影した当時は私の住む兵庫でも見かけることは無く、珍しい型式の信号機でした。


当時、私が知る限り、こういう信号が変わるまでを知らせる型式の信号機があることを知っていたのはJR大阪駅近くだけでした。


札幌でも同じ型式のものを見たので、小樽、札幌の人は大阪人なみにいらちなんやな-などと感心したしだいである。

(念のため申し上げておくが、これは私の個人的見解で、事実かどうかは確かめていない)


今回も最後までお読みいただきありがとうございます。