アプリとのお付き合い | 蔵六の雑記帳

蔵六の雑記帳

過去にそしていま感じたまま、思うままを記していきたい思っています。
面白くない話かもしれませんが、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

この秋から「やってみなはれ」の精神で私はあるアプリとのお付き合いの仕方を変えました。

 

 

「やってみなはれ」についてはこちらをご覧ください。

 

そのアプリは時々刻々と内容が更新されるので、それが気になり仕事中にもかかわらずこっそり何度も見てしまう生活が染み付いてしまっていました。

 

 

 

勿論そのアプリは仕事とはまったく関係ありません。

 

そこで、そんな一種のとらわれた生活を改めるため、そのアプリの内容が更新されないよう仕事中は機内モードにし、勤務中は見ないようにした。

 

 

このようにした理由は昨年末から始めた新しいこと(資格取得に挑戦)に必要となる時間をひねり出すため、そしてネットの向こうの人々の動向や反応をあまりにも気にしすぎていた生活を見直すためです。

 

 

最初のうちは誘惑に負けてついつい見てしまっていましたが、日を追うごとに徐々に見ないことに慣れてきました。

 

そして、スマホを見る時間を減らした分を新しく始めたことについて思案したり、準備するために使うようにしました。

(会社には申し訳ないが仕事に当てる時間は増やしていない。ただ、仕事のノルマをちゃんとこなしているつもりです)

 

結果的にそのアプリを見なくなった分、アプリからの情報を見逃すことが多くなっていきました。

(たとえば朝の書き込みに対して夜にその応答の書き込みしたりと)

 

そして、このアプリとの付き合い方を変えてしばらくすると、休みの日もそのアプリを見る時間が徐々に少なくなってきました。

 

 

たぶん、こんなことをしているとは知らないネットの向こうの人は「なんか反応遅いな」とかおもてんねやろうな(ネットの向こうの人は関西の人とは限らないが)と思いつつも徐々にこの生活が心安く、なじんできました。

 

 

結果としてネットの向こうの人に不満や苛立ちを与えているのだろうが、私自身はとらわれから開放され、自分のために割ける時間が増えました。

 

そして、いまは後戻りすることは考えていません。

 

 

だが、こういうわがままをやっていると気の短いネットの向こうの住人からは疎んじ(うとんじ)られるのだろう。

 

やはり、何かを得ようとすると、それ相当の対価を払わなければならないのは世の常である。

 

この「やってみなはれ」が吉とでるか凶とでるかわかるときはくるのだろうか?