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夜明け前、部屋を出て2階から1階に降りると、
天井の蛍光ランプが辺りを薄暗く灯すだけで、
スタンドテーブルにもキッチンにも人っ子一人いなかった。
照明を付け、キッチンに入ると、冷蔵庫から黒インクのマジックでYOSHIDAと記した紙袋からリンゴを取り出し、水洗いした。
冷蔵庫の上に目を向けると、俺のネーム入りのカップヌードル・チキン味の隣に名無しのマルちゃんの袋麺が3つ積んであった。
黙って人のラーメンを拝借する訳にもいかず、ケトルに水を張ってお湯を沸かし、自分のカップヌードルにお湯を入れ、3分待つ間にリンゴを食べ尽くした。
麺を啜る音も気にせず、カップヌードルを食べている最中に、「グッドモーニング」と、女の声がした。
声につられて、顔を上げると、白のTシャツに黒の短パン姿の泊まり客らしい黒髪のラテン風の若い女がTVの前に立っていた。
「グッドモーニング」と声を返すと、
「朝から早いのね」
俺は黙って、頷いた。
「わたし、昨日の夜、ここに着いたばかりで、
この島のことが右も左も解らないんだけど」
彼女はラテン訛りながら、ゆっくりと英語を喋ってくれたので、おおよその意味が理解できた。
「昨日の昼前に着いて、半日かけてバスでホエラーズビレッジの先まで行って、今朝一番でホエールウォチングに行く予定なんだ」
「そうなの。
目の前の海に鯨がいる、それは楽しみね。
わたし、1階で友人4人で部屋をシャアしているんだけど、
あなたは?」
「俺は2階のシングル」
「それじゃ、また」
女はTVの前から、自分の部屋に消えた。
2階に上がり、洗面台で歯を磨き、俺はホテルから通りに出た。
冬の夜明け前で、疎らな街灯が照らす小学校の前を通り、
仄かな灯りが点った広場(タウンスクエア)に入った。
昨日の夕方、目に付けていたホエールウォチングのチケット売り場前に進むと、ほぼ無人の通りが嘘のようにどこから人が集まり、すでに20人程度の行列になっている。
昨今のインバウンドブームのせいか、
外国人に行列好きだと揶揄されるが日本人はであるが、
田舎育ちの俺に言わせると、行列好きなのは地方から田舎者が集まる東京くらいのものだ。
田舎では人が少ないこともあって、好き好んで行列するアホはいない。
その必要もない。
21世紀に入った今でこそ、東京で流行った情報や物が多少遅れて田舎まで入ってくるようになったが、両親の時代にせいぜい県庁所在地レベルで止まりで、俺が育った小さな田舎町では風の噂程度に過ぎなかったそうだ。
とりあえず、俺は行列に並んだ。
そうしないと、ホエールウォチングに参加できないからだ。
外人が行列好きの日本人の好奇な目で眺めるのも、
立場を変えてみると、常夏の島といわれるハワイのマウイ島では、 有名アーティストか世紀の展覧会と謳われる美術展に並ぶようにこの場の外人も早朝からしっかりと行列している。
そう言う俺も彼らの金魚のフンとなっているのである。
俺の番がやって来た。
前の客を見ながら、クレジットカードが使えないのを承知して、チケットボックス仕立ての木製の箱の中のおばさんに出航時間の7時と1名分を告げ、ジーンズのポケットから20ドル札1枚、5ドル札2枚、1ドル札3枚とコイン少々を取り出して、手渡し、チケットを受け取った。
出航まで30分近くある。
チケットボックスから海のある西側を眺めみると、
東に上りかけた太陽の微かな光が黒ずんだ海を照らし、
弱い光が島に当たり、巨大な影となっていた。
より身近に島を感じようと、俺は鉄柵の側まで近寄った。
小波が鉄柵の下のコンクリートの岸壁まで届き、滴が上がり、
反動で弱くなった波は1メートル、2メートルと彼方の島に近づいては消えた。
考えるまでもなく、今接しているこの海の先に鯨の住処があり、目線を鉄柵の付近に動かすと、接岸された船が視界に入った。
フェリーというほど大きくもなく、ボートというほど小さくもない、日本でいえば、本土から近場の島に渡る小型フェリーのようなサイズの船は上下に時に左右に船体を揺すりながら、乗客を待っているようにも見える。
ロープを張った船の前に人が並び始めた。
そろそろ乗船開始なのかもしれないが、何のアナウンスもない。
チケットボックスで一度、人の列から離れた俺も彼らの後に続いた。