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それにしても、事件の多い年だった。
横井庄一さんが、恥ずかしながらグァム島から帰って来た。
札幌オリンピックで、日の丸飛行隊がメダルを独占した。
浅間山荘事件。連合赤軍、永田洋子がヒロインになった。
沖縄が日本に復帰し、テレビには佐藤栄作とリチャード・ニクソンの顔が映し出された。
テルアビブ空港乱射事件、日本人ついに海外進出を果たす。
岡本公三はヒーローなのか?
田中角栄が、自民党総裁に選出され首班指名を得た。
ミュンヘン・オリンピックで、パレスチナゲリラが選手村・イスラエル宿舎を襲い殺害した。
なかでも、田中首相の誕生は、マスコミが角栄を今太閤と持て囃し、空前の角栄ブームが起きた。
著作の『日本列島改造論』はベストセラーになった。
角栄は時代の寵児になったのである。
田中政権の柱は、『日本列島改造』と『日中国交』であった。
日本列島改造の主題は、
明治維新から百年、今日の日本を支えてきた、
農村から都市へ、農業から工業へ、そういった人と経済の流れを大転換させ、
住みよい日本列島を実現させることにある。
都市集中のメリットはデメリットに変わった。
過疎と過密の弊害をなくし、国民が豊かに暮らすそのために。
まず、
①新幹線・高速道路で日本中を結び、高速ネットワークを完成させ、
日本列島を一日通勤、一日経済圏に再編する。
②大都市と地方の格差をなくすために、全国各地域を結ぶ情報ネットワークの整備をする。
③利用技術と情報システムの積極的な開発、通信コストの合理化を図る。
この3つを柱として、情報列島に再編する。
そうすれば、都市と農村の格差は、必ずなくすことができる。
その手始めに、新地方都市の理想像として、農村に産業を移し、25万人規模の都市を建設する。
角栄は、いつも地方にこだわっている。
それは、きっと角栄自身なのだろう。
列島改造は激しい反撃にあった。
特に産業界。地方移転の可能性のある大企業、関連する中小・下請けの企業群が反対したのである。
なかでも、列島改造を阻んだ最大の敵は、土建屋・角栄の内なる敵、地価高騰だった。
列島改造を当て込んだ輩は、土地獲得に狂い始めた。
地価高騰は都市住民の住宅への夢を打ち砕き、角栄人気に陰りが点りだす。
角栄の主張は正しかったのかもしれないが、その願いを叶えたとはいえなかった。
毛沢東は、蒋介石を台湾に追い遣り、中華人民共和国を成立させた。
毛沢東率いる共産軍は、兵力、装備において圧倒的劣勢にもかかわらず、
蒋介石率いる国民党軍を打破した。
これが、毛沢東の頂点だったのか。
なぜ、正規軍が農民軍に破れるのか、ここに中国を解く一つの鍵があるだろう。
一度はうまくいくかに見えた中国は、大躍進、文化大革命を通して鍍金が剥がれていき、
そして、林彪事件が起きた。
こうした時代を背景に、アメリカの影が忍び、
田中政権のもう一つの柱、『日中国交』の動きは、首相就任直後に表された。
角栄は日中国交を急ぎたいと漏らした。
大平外相は、
「首相または外相の訪中」
を示唆した。
これに対し中国側も、
「これを歓迎する」
サインを送った。
就任2ヶ月後、
角栄は大平外相、二階堂官房長官を伴い、北京の地を踏んだ。
北京空港には、周恩来首相ら中国要人が出迎え、角栄は周首相と歴史的な握手を交わした。
角栄は外相、官房長官と共に周首相ら中国側と首脳会談に臨み、
『小異を残して大同につく』
基本線が確認された。
このあと、周首相主催歓迎晩餐会が行われ挨拶の中で田中・周、
両首相はいずれも国交正常化への確信を表明した。
その後、双方の事務レベルによる共同声明の案文作成に入った。
角栄は、北京市内中南海の私邸に毛沢東中国共産党主席を訪ね会見した。
二人は、にこやかに話し合ったといわれている。
人民大会堂で、田中・周の両首脳により、
「日本国政府と中華人民共和国政府との共同声明」の調印式が行われた。
『日中国交正常化』は実現した。
その結果として、日台断交となった。
なお、今日においても、日中両国の軋みは依然として残っている。