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ford はお世辞にも立派とはいえない白いセダンだった。
そういえば、スミスさんと片田舎の駅で乗り込んだマツダのタクシーを思い浮かべて、
僕はポールと後部座席に乗りこんだ。
朝の冷えで、念入りに温めれられた車は、牧場脇からコンクリートの細道を進み、
デイブさんは左にハンドルを切り、
ポールがスクールバスを待つポイントまでゆっくり進んだ。
シフトアップした冴えない車は、大通りでコツコツ、コツと不規則なノイズを発し、
緑の平原のただ中のそれこそ何一つない田舎道を走った。
汚れた日本車の判別ができずに通り過ぎると、次はローバーミニのお出ましで、
やっと明け方の重い気分から、久々、街の人に出会える、そんなウキウキした気分になった。
そうなんだよ!
僕はせっかく高いお金を払って英国観光旅行に来ているのに、
こんな辺鄙な牧場に留まっているんだもの。
fordはスーパーマーケットの敷地から屋上の駐車場に繋がるスロープをゆっくりと時計周りに円を描き上ってゆく。
僕のコレクションするミニチュア・ジャガーの黒い本物の隣に、
ゆっくり駐まった。
外に出て、「ツーン」と吹きぬける北風がこの頬を冷たく差す。
体の芯まで底冷えするような屋上のアスファルトコンクリート。
ここで目にしたある象徴的な出来事を記しておきましょう。
それは、屋上から階下に向かうため、英国式のリフトが設置してある、日本でいうエレベーターです。
しかし、デイブさんはそれを使わず、手摺りに掴まり、
一段一段と誰の手も借りず、ゆっくり階段を降りてゆきます。
よほど手を差し伸べようかと、
しかし、プライド高いデイブさんの雷が落ちそうな空気を読み、
仕方なしに、前にいる妻と息子に目をやった。
彼らは淡々として澄ましていた。
デイブさんの後ろから一段また一段とゆっくりと進み、
踊り場で一息いれる彼の吐息を聞きながら、メインフロアーに辿り着いた。
僕は彼に肩を差し出し、「ああ!どうも」その声に、
彼の感謝する気持ちが伝わる。
車中からの眺めどおりに、
このスーパーの規模たるやコンサート使用の巨大体育館を二回りデカくした、
お化けのような代物。
はたして、こんな田舎町にこれほど大きなショッピングストアの必要性、
需要の有無など、世間知らずの僕に無論わかりはしない。
東京はおろかロンドン中心部でさえこれほどの建造物を目にしなかった。
いや、存在を知らなかった。
なぜなら僕は半径100メートルの縄張りに住む、
東京砂漠のヤドカリだから。
母子の後から、頭上のガラス張りから僅かに洩れる光が射したタイル敷モール上を、
デイブさんと並んで歩いた。
カフェやファストフードの連なりを過ぎると、カジュアルやインテリアのショップが軒先を飾り、
ポールが急ぎ足で僕の前に飛んで、 きょろきょろよそ見しながら、話し掛けた。
「ねえ、ケン。
お昼何が食べたい?
ママと話して、今日はここでお昼にするって。
何が好きなの?
好きなのを頼みな。
日本料理がないのは残念だけど。
だって、それはしようがないよね。
ロンドンと違って田舎町だし、
ここの人は、スシはおろか日本人を見たことさえほとんどないんだから。
僕は、まだスシを食べたことないんだよ。
ねえ、家で一度作ってくれないかな?
いいだろう?」
黙っていた。
この町の人は、寿司はおろか日本人さえ見たことなかったのか。
そのわりに、ジロジロ見られることがないのは、
僕がとても日本人には見えず、この国に多い中国人か香港人とでも想われている。
さてまた、個人主義で他人と一線を画する才に長ける英国人ならではの、
よく言えば他人との距離の置き方がうまく、
人を干渉しない一面がポールの言葉の端々から想像できたのです。
一人心の中で呟く。
普通の日本人なら、寿司なんて、まず作らない。
あれは、プロの味を食するものだ。
そんなことを11歳の英国の少年が知るはずもなく、
日本人なら誰だって寿司くらい作ると思うのは、
しごく当然なことだろう。
それを説明する英語力を持ちあわせていないのも事実だった。
寿司なんて、もう何年も食べていない。
ぼんやりしてたら、僕らは食品売り場の目前だった。
イメージとして、ここ英国田舎町の巨大スーマーマーケットと、
これまで僕が触れた日本の店にそれほどの違いはない。
東京でほとんど買い物をしないにしても、20年の人生経験を通して、
我国の食品売り場がおおまかに把握できている。
それにしても、この異常なまでの広さ。
巨大惑星を探検する我々4人の操作隊、背後兵のロボットである極東の青年に、
クレーター内部の未知、いかなる物質を発見させるのは、ほぼ不可能のように想われるのです。
手持ち無沙汰なこともあって、家族三人の役割分担をじっと観察した。
デイブさんは、ジョディさんとポールに対し司令塔の役目を務め、 二人は籠を手にして動き回る。
本当に物は豊富です。
世界中の品物が何でもそろっております。
ここは大英博物館、現代食料品のコーナーでございます。
必要なものは、何なりとこの下部に仰ってください。
そんな天の声が届きそう。
現実に戻ると、この家の実権、財布を握るデイブさんの指図で、
妻と子があるコーナーからコーナーへと又にかけ、
自分の籠の中に次々に入れた肉野菜果物を、大きなカートの中に詰め込み、
家長がゆっくりと動かすのです。
僕はこの食品売り場の両端の通路側からインサイドへと、入ってゆく。
例えて言うと、上部に①「meat」というふうに、表示してあるのに気づきました。
何もそんなことは、ここの食品売り場にかぎらず、
東京でも、日本中世界中どこのスーパーだってやっていそうなことを、改めて今、気づいたのです。
ぱっと見でなんですが、魚と麺類が少ないように思います。
それに引き換え、冷凍食品と缶詰の多いこと。
一家も肉とこの二つの物を大量に買っていたということは、
これからの献立に反映されるということに他ならない。
この国は、モンゴロイドの蒙古が支配した、
陸のモンゴル大帝国に匹敵しうる、7つの海を支配して、
海の帝国、大英帝国なんて大仰な国家、国民を輩出したのであります。
彼らは言語、ファション、スポーツ、文化、通貨、経済、
軍事力に留まらず、ありとあらゆる世界基準の構築に成功した。
が、唯一料理だけは、彼らの得意分野にあらずか、
世界の底辺を這いずっているというのが、識者にあらずも、
もはや定説なのである。
そんな風に考えていると、
ポールのスクールバス仲間のベッティが姿をあらわしたのです。
「ハイ、ごきげんよう」
「やあ」
「今日はどう、いかしてる?」
「まあ!」
まるで会話にすらなってない。
彼と彼女の立ち話は、当然僕の耳にも入ってきて、
ぎこちないコミニケーションが幸いして、この英語耳でも、
理解できた。
彼は相手の目を見ることもなく、俯き加減にぼそぼそ呟く。
僕は彼女を見た。
この年頃の女の子に触れる機会なんて東京でもほとんどない。
もちろん、僕は引き篭もりのオタクですが、
決して少女趣味のロリコンでありません。
くれぐれもこのことは念を押します。
僕は、ポールが彼女を好きだと、一目で察しました。
ベッティはお下げの髪を束ねた、ポールより随分大柄な可愛いというより綺麗な女の子。
瞳と髪の色は、黒と茶を3対7で混ぜ合わせたような色合いを持ち、
肌は抜けるように白いというより、ほぼピンク色に染まっていました。
これは、この国の少女としては、わりと一般的ではないでしょうか。
ごく少ない経験からいって、
日本男性が恋焦がれる金髪青目の女性は、たいへん少ないように想われる。
彼女は黒いジーンズにジッパーの付いたベージュのジャンバー、
そんなラフなファションでした。
目を移しますと少女の側には、
デイブさんとジョディさんより若い両親と想える背の高い男女が並んでいたのです。
会話がスムーズにいくように、
デイブさんにカートの交代を、僕は動作で示しました。
彼らは何やら会話に花を咲かせているようで。
「ケン!」
デイブさんの声に、僕はカートごと進みます。
「彼が日本からのお客様。
我が家のディナーにポールと一緒に招待してもよろしいですか?」
長身男性の言葉が耳に入ってきた。
「ケン!」
デイブさんの目を見て、僕に勧めるのが読み取れました。
「はい、伺わせてもらいます。
今晩よろしく、お願いします」
そう言って頭を下げ、ベッティの両親に承諾したのです。
僕らがベッティ家のディナーに招かれ、
予定変更して牧場に戻り家族3人と摂ることになりました。
買い物を済ませ、リフトを使って屋上の駐車場から牧場までの戻り道、
僕はディナーでの、語るべき言葉を捜した。
時折り、まっすぐに伸びる緑の平原から横に座るポールに視線を移すと、
深く考え込む彼の姿が目に入る。
午後になって、厩でいつもの作業中に、
今日のポールは、いつもとまるで違うように見えた。
どうにも散漫で集中力がなく、ミスの一つもしない完璧な少年が、 で
きの悪いガキへと成り下がっていた。
作業中に馬糞を踏みつけ転び、僕に注意される有様。
「どこか、具合でも悪いの?」
「いや、何でもないよ」
僕はこの日、人が馬から振り落とされるのを見た。
何を隠そう、将来の名騎手、ジャパンカップ優勝を夢見る少年、
ポールがその人でした。
サラブレッドは大きい。
側で見ると、信じられないほど大きい。
小さな時分から馬に乗る少年はいとも容易く跨る。
サラブレッドの背中から芝の地面に叩き落とされ、二転三転して、
青白い顔に赤い痣を作った彼がようやく青立ち上がるのを見て、
小柄なポールがよけいに、小さく幼く見えた。
彼は馬の姿を追った。
「もう、いい。戻って来い」
デイブさんの声に、
ポールの足が止まった。
サラブレッドと少年が舞い戻り、父親はポールを突き落とした馬の手綱を引いた。
「お前は、何をやったんだ。
こうだ。
鐙にしっかり足を掛け、手綱をしっかりと握るんだ。
こうだ」
鐙に手を当て、
「ここに足を乗せるんだ。
そして、しっかりこの手綱を引く。
そして同時に、遊びを持たせるんだ。
わかるか、ポール。
この微妙な加減で鞍の上の人間が馬をコントロールするんだ。
わかるか、ポール。
馬は人間を見る。
人間の感情を理解するんだ。
そんな浮ついた心では、とてもプロになんかなれやしないぞ。
体がいくつあってもキリがないぞ」
彼を辱めたのは、мisty という気の荒い雄の若馬。
興奮状態のサラブレッドは、デイブさんから手綱を外されると、
鼻から口かもくもくした湯気をたて、左右の前肢を上げ、
上体を空に浮かせ肢を回転させ、
その後、全速力で芝を駆け巡り、立ち止まり、一声吠えて、また走り出した。
かつてデイブさんもこうして事故に遭い、
自らの夢を潰すことになったその悪夢が、息子の将来の姿とだぶって見えたのかもしれない。
デイブさんに、馬の世話を止められたポールは一人寂しげに母屋に舞い戻ったのです。