5
翌日からポールに付いて早朝の厩の世話が日課になった。
ずぶの素人の僕は、11歳のポールに愛弟子となったのです。
彼の家族はここでサラブレッドを飼育し売ることで、生計を立てる。
父親のデイブさんは、子供の頃からプロ騎手を夢見、馬との生活に明け暮れ、
親方に弟子入りする直前に悪友たちとの別れの儀式で裸馬に跨り戯れていた際、
ふとした弾みで馬から振り落とされた。
両足の骨折と頭を打ち、数ヶ月の入院生活を送るはめになった。
その結果、親方に弟子入りを認められず、
「プロを諦め、酒に溺れ荒んだ生活を送っていた」ポールが呟く。
一頭一頭、名前を呼んで、馬に飼い葉を与える作業を教える傍ら、
「それでパパはあんなに太ってしまったんだよ」と、漏らす。
その後、事故の引き金となった悪友に紹介されたジョディさんの励まし勧めもあり、
何かの形で馬に携わって生きてゆく決意を固めて「それがこの仕事を始めるきっかけになった」と、
藁をフォークで運びながらが、一人息子が語った。
僕は初日の1時間の作業でくたくたになってしまい、
朝食後再び、ベッドでうとうとしてると。
「ポールにしごいてもらってだいぶ疲れているようだな」
誰かが耳元で話し掛ける。
それを無視して、僕は夢心地に浸っていた。
「わたしだよ」
どこかで聞き覚えのある声だった。
睡魔の誘惑にまけて、ベッドの中に潜り込んでしまった。
さらに、彼が話し掛ける。
「そんなに眠いもんかね?」
聞き覚えのある僕にもわかる英語だった。
いや、言葉でなく、テレパシーに近いものだった。
それで、気づいた。
「昨日の今日とは、スミスさんも随分とお暇なようですね?」
僕は夢の中の老人に尋ねた。
「ほう! 今日は冗談が言えるほど元気が残っているのかね?」
「はい。ほんの少し横になっていただけですよ」
「そうかい。
言葉を掛けるのも躊躇するくらい、疲れ果て死んでいるように見えたがね」
「そうですか。
スミスさん、あなたに質問があるのですが、よろしいですか?
昨日、つい忘れてしまったのです」
「このわたしに、何かね?」
「僕がポールの牧場に来るようになったのは、
あなたがそう仕向けたからですか?」
「君はおかしなことを言うな。
わたしはあの競馬場で君を必死に探していた。
そう言ったのを覚えておらんのか。
まだ昨日のことだ。
わたしがここへ連れて来たなんてとんでもない。
君が勝手にこの家に迷い込んだ。
いや違う、君がこの場所を選択したのだよ」
「そうですか?」
老人の返事を期待して身構えていた僕は、彼が応える前に目覚めていたのです。
昼食までの空きの時間、僕はポールの家から離れて少し歩いた。
この牧場に迷い込んだ、まだ真っ暗だった早朝の景色、
イメージしていた、緑に覆われた平原の片隅、僕とポールが出会った厩と、
そこから50メートルほど離れた母屋が見える。
家のすぐ脇にある牧場門から小道に出た僕の頬に冷たい雫、
雨粒を感じる。
見上げると、どんより重く低くて黒い雲が垂れ込め、
今にも雪でが降りそうで、どこかで見た景色だ。
でも、思い出せない。
僕は車がすれ違えないほど細いコンクリート道路をまっすぐに歩いた。
家など1軒もなく、牧場と緑の平原がどこまでも続き、
生物の気配もない、そこが中世の戦場のように感じたのは、
僕の錯覚だと思い、母屋に引き帰した。
昼前に、行事のため午前授業だった、ポールが学校から戻り、
みんなで食事を済ませ、乗馬訓練と午後の作業まで、
僕は彼の部屋でお喋りを楽しんだ。
ポールによると、小学校はこの牧場から10マイルの距離にあるため、
先ほど歩いた小道を進み、二又に分かれた場所から大通に出て、
そこからスクールバスでの通学が日常だ。
最寄の家は3マイル離れた同じサラブレッド飼育の牧場で、
同級生の女の子がいて、彼女も同じバスに乗り込む。
当然のようにこの周辺には、何一つ物を買う場所はない。
学校への通り道にあるスーパーマーケットで日常生活に必要不可欠な物を手に入れる。
それまで英国というと、僕は日本とたいして違わないイメージを持っていた。
これではまるでアメリカの田舎町といったほうが的を得ている。
北海道の牧場も、こことさして違わないのかもしれない。
なにぶん、僕は東京生まれ東京育ちの極端な引き篭りなため、
日本のことさえよく解かっていない始末だった。
英国といっても、ロンドンを4、5日歩き回り、
電車の中で偶然知り合ったスミスさんと訪れた競馬場しか知らず、
ポールが語るこの街のことさえ、夢心地、半信半疑に聞いた。
彼の家では、週末に1度、車で街に出てるのを、
みんなで楽しみにしているようで、「ケンもどう?」
と誘われた。
一人牧場で籠りたくても、そうもいかない空気が漂っていた。
「ここに住んで不便はないかい?」
僕は話しを変えようとした。
「そんなこと、全然感じないよ。
だって僕はずっとここに住んでいる訳だし。
馬に囲まれたここでの暮らしは、とても快適なんだ。
ケンは東京に住んでいるんだよね?」
「そうだよ」
「そんな大都会に住んで息苦しくない?」
「いや、特に感じたことはない」
まだこの時点で、東京という都市で、どんな暮らしぶりをしているのか、彼にまったく話してはいなかった。
「そうなんだ。
僕はロンドンだって行った事がないから、よくわからないけど、
東京の人の多さは凄いんだねって。
テレビニュースで観たんだよ。
人で溢れる満員電車にこれでもかと、次々乗り込んで、
男の駅員さんが人の背中を押し込むんだ。
よくあれで、みんなは文句を言わないもんだね。
きっと英国の人なら、黙ってはいないよ。
サラブレッドだった気が狂ってしまう。
いや、その前に、逃走してしまうだろう。
彼らは臆病であり、かつとても誇り高い動物だからね」
「東京の人は、日本人はね、自分を押さえて生きている。
そうしないと生きていけない。
そういう街なんだ、東京は。
ポールも大きくなって日本に行くと、理解できるよ」
「僕も一度、日本に行ってみたい。
大きなレースがあるんだね?」
「ジャパンカップ?」
「名前は知らないんだ」
「たぶん、そうじゃないかな。
外国の馬や騎手も招待されるし」
「本当?」
「本当だよ。その上、エリザベス女王杯なるレースもある。
つくづく物真似好きときている」
「それも本当?」
「勿論。
日本で英国女王のレースを開催する理由は知らないけどね」
「パパなら知っているよ。
僕は将来プロ騎手になって、きっと日本に行く。
その時は、競馬場まで会いに来てくれる?」
「約束する」
少しの間があった。
はにかんだ後、ポールは、
「僕がまだ6歳くらいの時、パパと一緒に馬の競を兼ねて、
ここから50マイルほど離れた街に行ったことがあるんだ。
世の中にこんな大きな街があるのかと、不思議に思ったよ。
それ以上に驚いたのが、その時訪れた競馬場の人の多さ。
うちの牧場で育てた、僕が最も好きだった馬のレースだった。
若馬ばかりを集めたデビュー戦で、後ろのほうから追い上げた、
その馬はもう少しで先頭を追い詰めた瞬間、
ゴール手前でつんのめりになって、動けなくなった。
仰向けになったまま、肢をばたばたさせて、もがき苦しんでいた。
パパの顔は青ざめ、少しでも現場近くへ行こう、足を引き摺って、転んでしまった。
それを見た僕は息を殺し、目を閉じた。
瞼を開くと、パパは近くの人に助け上げられ、
僕も一緒に車に乗せられ、馬が運ばれた場所まで、行くことになった。
そこで獣医さんの話しを聞いた」
『もうとても無理。でも、オーナーと相談しなればならない』と、
そのおじさんは言ったけど、すぐに連絡が取れて、
大好きだったその馬は、僕たちの目の前で注射で安楽死させられ、
眠るように死んでいったよ。
パパは自分の足が痛いのも忘れて、横たわった馬の体を摩ってその場から離れることができなかった。
1時間くらいして、年とったオーナーがやって来て、
ようやくパパは馬から離れることができた。
ホテルに戻ったパパは、お酒を煽り、ベッドの中で泣き崩れた。
あんなパパを見て、僕は怖くて仕方なかった。
次の日、どうにか家に戻って来て、それから、パパはまた酒に溺れるようになった。
自分が精魂込めて育てた馬が、最初のレースで事故に遭い、
死んだからね。
若い頃の自分の事故と重なって見えたと思う。
でも、パパはそこから立ち直った。パパは強い男なんだ。
そのためにも、僕はプロ騎手にならなければならない」
英国の義務教育を終えると、ポールは騎手になるため、
ここから少し離れたデイブさんの知り合いの所に預けられることが既に承認ずみであるという。
11歳の少年が、この時点で自分の人生設計を決めていことに驚きを禁じえなかった。
僕は、この国の教育事情や競走馬の騎手になるための制度をまるで知らない訳だが、
たぶん、中学卒業と同時に競馬学校みたいな、
あるいは、それ相応しい牧場に、弟子入りするだんなと、
勝手に想像しながら、彼の話しを聞いた。
プロの騎手になるため、彼はあまり大きくなりたくないという。
今、ポールは11歳、日本風にいえば、
小学校の5年生くらいにあたる彼は英国の少年にしては、かなり小さいほうだろう。
きっと日本に連れて行っても、小柄なほうだ。
彼は体重をポンドで応えたので、正確には解らなかったが、
見た目の印象では、とても40キロはない。
黒髪に黒い瞳、なで型で骨太ではなく、肌は白く顔だちは英国調なのだが、
それ以外は、どこか日本人風なのである。
彼は父親にも母親にも似ておらず、一人だけ、異質な風貌を持っていた。
父親の上背は僕とほぼ同じで、
ポールも、173センチ程度になると想われる。
そうなると、かなり痩せていないと、体重をコントロールしないと、騎手は難しいだろう。
あくまで、これは推測に過ぎず、彼の馬乗の才能については見当がつかない。
この日も、昨日に続いて、冬の早い日没前、1時間ほど、
父親にコーチされ、馬に乗り走る彼の姿を黙って見ていた。
「ケンもどうだ?」
ポールに勧められたが、とてもとても、馬に乗るのが怖く、
首を横に振り、彼に気持ちを伝えた。
乗馬後夕食まで、厩での作業が続いた。
驚くほど熱心に彼は馬を世話する。
僕は2頭、3頭と彼らの名前を覚えた。
そろそろ、全頭の名前と性格と癖を把握しなければならない時期にきている。