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紀未のショップ・オープンの当日、定時に仕事をあがらせてもらえるよう予め上司に届けていた。
杉田くんに明日のお局様との件を確認し、あとを頼んだ。
地下鉄でわたしは目的地に向かう。
花屋さんで予約していた薔薇の花束を受け取ると、
6時過ぎには新宿のデパート正面に着いていた。
エレベーターに乗り込み、彼女のフロアーのボタンを押す。
ふっと、息をつく。
はからずも、緊張していたのだ。
ドアが開いて、前にいた上品な御婦人に「すみません」と声を掛け、小さなボックスから歩み出て、待っている舞台に進む前に、 花束を左手に持ち変え、わたしは紺のスーツの襟元を右手で正した。
他の売り場に脇目もふらず、妹のショップの前で立ち止まる。
狭いショップには、数名の客とA子の姿。
ドキンドキンと刻む心臓の音を冷静に受け止めると、
両親からの花輪が一番目立つところに、届いている。
お店に入ってゆく。
A子がわたしに気づき、会釈した。
そして、妹の手に触って合図し、紀未と目があった。
「おめでとう。
わたしからの贈り物」
「こんなに気をつかってくれて、
どうもありがとう」
嬉しそうに薔薇の花束を受け取った妹は、
「高かったでしょう。
お姉ちゃん、初めてのプレゼント、
記念にとっていたいけど、花の命は短い。
今日のオープンのお祝いに駆けつけてくれた、
わたしの姉、さやかです」
A子と3人の客が視線をむけた。
この狭い空間で、わたしはスポットライトを浴びている。
「赤い薔薇の花束の思い出を大事にしたいと思います。
そして、お店とともに、いつまでも」
こう語る、自らデザインした純白のシャツと黒の蝶ネクタイ、
同じ色であわせたパンツルックの彼女は、我妹ながら、誇らしげに見えたのだ。
わたしが留まっていた間、紀未はテキパキと仕事をこなし続けた。
もちろん、ズブの素人でファッションのことなど何も知らないわたしがあるが、家で見られるジャージ姿のまま、携帯メールに興じるわがまま娘、妹の顔はこの日微塵もなかった。
いやいやショップに訪れ、こき使われた日と違い、今日は傍観者として、姉として、彼女の立ち振る舞いをそっと見ていただけだ。
幼い頃からずっと大嫌いだった妹、
風変わりであるが、根はしっかり者の良い子を演じきる、
彼女の存在が耐えられなかった。
その紀未をわたしは見直していたのである。
妹は人の顔色を伺う、空気を読むのに長けている。
それに引き換え、わたしは、何をするにも不器用なのだ。
男一つとっても、そうである。
繰り返すようだか、わたしは二十歳を過ぎた今日において、
いまだ生娘を守り通している。
シーラカンス、生きている化石のような存在であろう。
生物学的には、この地球上でまったく役に立たない代物である。
なぜなら、子供も産まない、産む行為を行わないからだ。
紀未は男においても、仕事においても、数段上をいっている。
目的意識をはっきり持ち、それに邁進する力強さを、
若干19歳にして彼女は持ち合わせている。
ただ漠然と、お給料のため、時間潰しのようにだらだら働く、
わたしと何たる違いであろうか。
「ミーティングで遅くなる」というので、
一人、彼女のショップを後にした。
4月も終わりの金曜日、通りに人影がちらほら。
バカンスや心の故郷をたずねて、多くの人はこの大都会をもう脱出しているであろう。
陽は沈み、洪水のような照明が灯っていた。
晴れやかだった。
わたしには、素晴らしい妹がいる。
清々しい思いで、帰宅の途についたのである。