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土曜日のお昼前、わたしは潤平君が暮らすベイエリアの果て、
夢の島を訪ねた。
「もう、誰もが忘れ去っていると思う。
ここは、ゴミ溜めゴミ捨て場で、それこそ何もなかった。
埋められた異物から発生するガス、なんとも言えない匂いがツンと鼻につくだろう」
敏感鼻がそう言われる前に、潮の香とともに気づいていた。
この街について執く語る彼は、どこか自虐的である。
「子供の頃、お台場が再開発で注目されるとは、夢にも思えなかった。
昔を全く思いだせない、それくらい変わってしまった。
あの場所の存在そのものが、無だった思う。
村ですらなかった。
変わり者のサーファー以外は相手にしない僻地なはずだった。
そういえば、ここは夢の島だ。
都民の排泄物で成り立った島に僕は長年住み続けているわけで、
それが、本物の夢の島になろうとは、まるでSFの世界だよ。
おとぎ噺に書かれていないだろうか。
フジテレビが移ってきた時、ゆりかもめに乗って眺めみた。
ああ、これが夢の島の前線基地だって」
現在彼は、母親と高校生を卒業したばかりの妹と都営住宅に暮らすわけだが、父親とはもう長年没交渉になっているようで、
機嫌を損ねるのも御免なので、わたしは知らんぷりを決め込んでいる。
家庭と住環境にかなりのコンプレックスを持ち、それが彼を社会不適応者に仕向ける一因と、内面を分析しているのだ。
それが証拠に自宅へのわたしの訪問を断固として拒むのである。
一度、駅の改札から出てくる妹を遠巻きに二人で見ていた。
彼女として紹介してもえるどころか、愛人が本妻を眺めるように、
わたしはその姿を追った。
今、プラットフォームから改札にむかう。
最近仕入れたオレンジのシャツとブルージーンズにお揃いのキャップを被った彼とわたしは互いに手を取って、ここ新木場の駅舎から道路にでると、すぐ近くのコイン・パーキングまでの歩道を進む。
必要な時に、彼のバイト先から使用を許可される白いサニーバンに乗り込み、他に使い道のないその場所をでた。
わたし専用ピンク座布団の助手席に身を沈め、
マスクをベージュ色パーカーのポケットに押し込む。
サニーは目の前の幹線道路から湾岸沿いの側道に入る。
公園に植え込まれた桜はほぼ散りぬぐい、僅かな花弁がふわふわと舞いワイパー止め具にピンクの羽根を下ろした。
道端に転じると役目を終えた仲間の姿。
もう、桜も終わりだろう、と同時にわたしの花粉の季節も終焉を告げる。
残り少ない春を、これから迎える初夏を潤平君と楽しもう。
「さやか、お昼どうする?」
「まかせる!」
「この先にカレースタンドがあるんだけど?」
「いいわ」
茶のワンポイントが付いたVWワンボックス近くに、
彼の車は駐った。
先客にストリート・ファッションの同年代のカップルがいて、
もう一つある簡易テーブルへ、わたしをエスコートしてくれる彼。
白い料理人服のインド人らしき男の人が、
「こんにちんは」と、気さくに声をかけ、笑顔をみせる。
ムニョスより少し白い肌を持つ彼は、ずっと世間の風を知っているように見える。
わたしは、赤い丸椅子に腰をかけ、彼は青いのに座った。
「ナンとカレーのレギュラー、それとミルクティー」
潤平君の注文に、インド人の彼は頷く。
有明駅に到着しようとするレール上のゆりかもめがわたしの目に入った。
ナンを齧る。
少し硬く塩味がする。
それをスパイスの効いた細かな豆をベースにしたルーに絡めると口の中で、なんともいえない芳ばしさを奏でる。
手で千切り、ルーに絡め、口に含み、その作業をつづけ、
しばらくそのまま食べ続けた。
オリエンタルな味を十分に堪能してようやく、ペットボトルの水を口に含み、その後、料理人が出してくれた、甘いミルクティーで締めくくる。
すでに食べ終えた潤平君は毛髪と額に汗の粒を浮かべ、プレゼントにあげた紺縞模様のハンカチでそれを拭い、黙ってかわりゆく故郷の景色を見ていた。
始発有明駅のゆりかもめがふんわり旅立ちするのを、
わたしはぼんやり追った。
「美味しかったから、また来ます」
わたしがそう言って、彼の分も足した代金を料理人に渡すと、
インドの若者は白い歯をみせ、笑窪をうかべた。
彼のサニーは抜けるような青空下のレインボーブリッジを渡る。
春の景色は海にあわせるようにどこまでも藍い。
橋の下に目をやると、小さなお舟が、ぼちぼちと内海から外界へ舳先をむける。
彼と何度この橋を渡っても、お上りさん気分で浮かれてしまう助手席のわたしは、晴海から銀座方面を眺め、今流行りの汐留辺りに目を移す。
ずいぶん建ち並んだビルの隙間から小さなゆりかもめがノンビリ走っている。
それにしても、観光名物なお洒落な橋を渡るのに、
この車はあまりに相応しくない。
ラジオとカーステはかろうじて付いているが、5年落ちにして、 もう死んでいるという。
1年前、わたしと知り合った頃に、バイト先で新しい車が納入され、彼の愛車はそれまでのワゴンからこの車に変わった。
新車は先輩のバイトさんに譲った、いや、取られた。
それでも、サニーはまだマシだって。
ワゴンは何度オーバーヒートしたか知れないと。
「さやか、想像がつくかい?
車と言えば日本のお家芸だろう。
その日本車のエンジンルームから煙が吹き上がってくる。
夏にエアコンを入れ、しばらく走ってると、ボンネットから煙がたちこめて」
はじめは、爆発するかと、思ったって。
うちのパパは車に乗らない、原付免許すら持っていない。
わたしの家族は誰一人、免許を持ってない。
もちろん、我が家に自家用車はない。
それでわたしは当然のように、どうしようもない車音痴。
たまに潤平君のサニーに乗せてもらうのが、関のやまだ。
東京では交通機関が発達してるから、それでもいいけど、
地方にいる時は悲惨だった。
田舎はさあ、車がないと本当に動けない。
どこにも行けないんだよ。
何もできないんだよ。
だから、わたしの家族旅行の思いでは、来ない電車やバスを待ち続けたことで終始される。
花のお江戸の人にはわかんないよ。
彼から聞いても覚えられない、わたしが知らないマイナーな車の爆発が想像つかない以上に。
非常事態にエアコンを切り、彼は汗だくで工場を回り金型をピックアップし、バースまで運んだわけ。
そんな時にかぎって喉がカラカラなのに、自販機がなく、あっても壊れているんだって。
営業時間終了間際、近くのディーラー件整備工場にワゴンで飛び込み、係りの人に頭を下げると、室内の冷気に反応して全身の毛穴から湧き出た大量の汗が冷え、頭からパンツまでびっしょりなのに気づく。
でも、その場限りの修理で、すぐに車の病気が再発する。
それに比べ、サニーはずっとずっとマシなんだって。
あの爆発ワゴンはどこへいったの?
彼の行き先は?
この海のむこうにあるはずだ。
カーステにセットしたしたムニョス選曲のレゲエが、
フロントスピーカーから奇妙なリズムを刻んでいる。
これはスタンダードなレゲエではなく、
ムニョスが好む新し目の音なんだとか。
そんなこと言われたって、わかんないよ。
だって、ぜんぶ同じに聴こえるんだもん。
あざ笑うように、真っ赤なオープンカーに乗ったカップルが過ぎ去ってゆく。
レインボーブリッジを降りると、わたしたちは湾岸沿いを羽田方面にむかって走る。
サニーバンはりんかい線と東京モノレールが交わるジャンクション、交差点を通過、わたしは信号待ちで大きなバッグを下げたお上りさんたちをぼんやり見ていた。
彼らも大変なんだ、東京のペースに合わせるのが。
でも、ここは昔、江戸じゃないからね。
たぶん、遠浅の海なんだろう。
この辺りで髷を結った男たちが、魚を追い、海苔でもとっていた、
そんな土地。
今日は、大井競馬はお休みなのかな?
潤平君は、競馬を含めギャンブルをやらないし、わたしも深夜にこっそりG1レースをニュースで観るだけ。
でも、サラブレットは綺麗だから好き。
デートで競馬場に行きたいのに、彼はそれを無視する。
彼は毎日、バイトでこの界隈を走っているわけで、
思うに、東京ウォーカーなんかとは、だいぶイメージが違う。
はっきり言えば、田舎なんだ。
ここは東京の田舎だよ。
わたしが今住む多摩郊外の住宅地とは違った意味で、地方の風が吹いている。
東京都心にはじまり、北から南まで諸国を漫遊した経験で言わせてもらうと、わたしはぼろい公務員官舎ならが、超一等地住みを経験し、同時に地方のど田舎も知っているわけ。
それを踏まえて正直に言うとこの地は、
彼が借りているサニーのように、いや、わたしが知らないワゴンのように、海のむこうに追いやられる存在かもしれない。
わたしは伊豆や房総をドライブしたいのに、
決まって彼は、旧京浜工業地帯の垢抜けているとは言い難いエリアをサニーバンで走りぬける。
彼はこの界隈が好きなんだ。
汗臭い男の街が好きなんだね。
若いカップルが、冴えない営業車に乗って、町工場付近を走るんだから、色気もなにもあったもんじゃないよ。
これからラブホテルに入ってエッチしようなんて気分も萎えちゃうもん。
レモン芳香剤の効果も薄く、男の脂汗と鉄の匂いが染みてくる。
今は少し持ち直したようだけど、それまでは酷かったってよ、
町工場の現状は。
彼が回っているお得意さんには、夜逃げした人、工場を閉じてしまった人、よくて働いている人の首を切ってどうにか遣り繰りしているとか。
まだやっている工場だって、何ヶ月分の給料が止っていたり、
会社が年金を払えないどころか、厚生年金なんか、最初から入っていないところも、結構あるんだって。
こんな所にも今国会で槍玉にあがっている年金問題がある。
それまで相手にしてくれた地銀や信金に見捨てられた町工場、
資金繰りがどうしようもなくなったのを見透かして、
街金のやつらがタカッてくる。
これじゃ、ナニワ金融道だ。
あの先生も死んじまっちゃったよ。
自分の運命の見通しまで、できなかったのかい。
潤平君のところにも、見覚えのない街金マガイのところから執拗に葉書が送ってくると、こぼしていたけど、今年になって少しは落ち着いたって。
あんな奴らはさあ、公務員官舎を襲う野鳩のように、
死刑にしてしまうのが、一番なんだ、そう思うよ。
わたしに難しいことはわからないけど、
彼は経済や年金に詳しくて、こっそり勉強してるのかな。
小泉純ちゃんってのは、きっと馬鹿なんだろう。
純一郎の純は単純の純から取ったなんてTVで顰めっ面のおじさんが言っていた。
でも、それは正しいの?
それより、わたしは彼の言うことにリアリティーを感じるの。
「小泉というのは、ナチスのゲッベルスにそっくりだ。
大衆を煽る、扇動するのに長けている。
そして、ナチスの宣伝大臣とおなじく中身はゼロ。
経済・外交だろうが何一つわかっていない」
永田町の純ちゃんより、うちの潤君のほうがずっと人々の暮らしや経済を知っていると思う。
中国経済が好況をはくし、中国向けの輸出が伸びつつあると、 彼が言っていたが、そのなの車以上にわかんないよ。
ムニョスのような外人は、人夫集めや手配師が、
給料をピンはねし、安く使われているんだって。
可哀想に事故で指を失くした人もいる。
忙しい時だけ、地方から掻き集められた自動車組み立て屋さん、 季節工のように、いらなくなるとポンと捨てられる。
ますます東京ローカルな景色になった。
ゆりかもめと同じように頭上のレールを走るモノレールの脇道、 羽田方面に向かう車両音に、スピーカーから流れるムニョスの音楽がアクセントを加える。
カーブに車両を傾けたモノレールの後、彼の車は追うように走った。ジャンクションを過ぎた辺りから、空き地を目にするようになる。
バイトの営業所を通りすぎ大通りに入りると、建ちならぶ倉庫群があらわれた。
そこを左折して、得意先の町工場の路地に進み、
彼はゆっくりとハンドルを切り、狭い敷地に車を駐めた。
一緒に車を降りると、トントントンと小さな金属音が響いてくる。
女性雑誌で見たことがあるニューヨーク住みのアーティストのロフトからもっと余分な物を削ったブリキ箱のような建物の正面から潤平君に付いて入っていった。
そこでわたしは、汗と油でまみれたツナギ姿の逞しい一人の男の人を見た。
痩せぎすで柔な潤平君とは違った、一味も二味も違う男を発見したのだ。
「やってますか?」
「ああ、よく来てくれたね」
「僕の彼女で、さやかです。
こちらは、矢島さん」
「はじめまして、さやかです」
「矢島です。
あなたのことは潤平からよく聞かされています」
「矢島さんはね、僕より2つ年上のお兄さん。
親父さんの後をついで、金型の仕事をやっている。
つまり、社長さん。
青年実業家なんだ」
「すごいですね」
「ぜんぜんです。
まあ、親父のやりたかった仕事を俺の代で潰すのがもったいなくて、 やってるようなもんで」
「ムニョスもここで働いているの?」
「いや、彼はここから少し離れた場所で働いている」
「さやかさんでしたよね。
ここで何を作っているか、
もちろん、あなたには、わからないでしょう。
つまり俺のやっていることは、
それぞれの企業がこういう商品を作りたいと思った場合、
その元の型を俺のところに注文する。
俺のところは鋳型に鉄を流し込んでサンプルをつくる。
それがつまり、金型と呼ばれています」
わたしは、彼が何を言おうとしているのか、さっぱりわからなかった。
ただ、この逞しい青年の目が活気に溢れている。
それだけは、はっきり捉えることができた。
「潤平にはいつも世話になってます。
納期の時間、急ぎの時も融通してもらったりして。
いつまでも、バイトでぶらぶらしてると、自分が損するだけだと、 言っても、聞く耳を持ちません。
こいつはフリーターにはもったいないくらい、物を知ってます。
金にもならない、音楽オタクときてくるから。
俺のところは下請けどころか、孫請けでしょう。
従業員もバイトも置かず一人きり、だから、土曜日曜もあったもんじゃない。
雑用に追われることも多く、煩雑な役所の用事や、銀行・郵便局に行ったりするのも一苦労で。
ただ親父の時代と違って、上からの注文や単価の値切りにびくびくすることなく、自分の裁量で、他に真似のできないような物をつくりさえすれば、怖いものなんてありません。
今まで取引のなかった業種や外国からもボチボチ注文が入っています。
俺はね、インテリかエリートだか知らないが、先生、大臣とか呼ばれる野郎が大嫌いでね。
あいつらははただの一匹たりとも、この界隈に来たためしがない。
ようするに票にならない、金にならない、メリットのないことは決してしない。
損得勘定だけで生きてる連中で、この羽田界隈の金型が日本経済の根幹をなしている、そんな単純明快なことが、まるでわからない。
理解しようとしない、いや、できないんでしょう。
万が一ここに演説にでも来やがったら、
パンチの数発でもお見舞いしないと、気がすまない。
中国中国とか、アジアの均衡した発達、グローバルスタンダード、 マクロ経済、聞き慣れない言葉で煽り、御託ばかりを並べやがる。
結局あいつらの知っているのは商売女の腐ったオマンコだ。
アメリカかイギリスか知らないが、上っ面のお勉強を齧っただけの大馬鹿野郎なんだ」
そう言うと矢島さんは、機械を止めて手袋をはずし、薬品のような液体でごつい手を洗い、コーヒーを淹れてくれた。
わたしは、狭いロフトのような工場で男二人と立ったまま、
ふっと息を吹きかけて、熱いコーヒーを啜ったのだ。
機械音の止まると同時に、わたしのと同じ南米の癒しサウンドがラジカセから流れ、天井に取り付けられた扇風機のカラカラと回ると音と上手い具合にシンクロしていた。
わたしたちは、彼が手を休めている20分ほど、仕事場の空気を吸った。
矢島さんは、お父さんが借金を残して亡くなったので、
自宅や工場のすべてを放棄して、空いていたこの工場跡を借り、 2年前から自分で事業を始めたという。
やっと軌道に乗りはじめ、神奈川にお母さんと妹と住み、
そこからここまで通っているそうだ。
なんかさあ、彼と生い立ちが似てるんだ。
でも、わたしは黙っていた。
潤平君ちは、もっとドロドロしてそうだもん。
彼は週に2度も3度もここに通っているわけで、
休みの日まで顔をみせる必要でもあったのかな。
でも、わたしは矢島さんには好感をもった。
誤解されても困るけど、あくまで潤平君の友人としてだよ。
わたしには、彼しかいないのは、もちろんのこと。
サニーに乗り込むと、わたしは少しばかりHiな気分になっていた。
矢島さんのと思われる、トラックをみつけた、潤平君に尋いたら、
ダットサンのピックアップだと。
帰り道は、混んでいた。
近くの平和島競艇でレースがあったのかな?
しかたなく、東京港トンネルを通ったら意外に空いていて、
東京駅まで送ってもらい、一日のドライブを終えた。
八重洲口で、わたしは彼と別れたのである。