ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 8

 デニムのオーバーオール姿のジミーはギターが入ったソフトケースを抱えたまま、王と富四郎の先頭を切って寮を出た。



「俺達の車はどこにあるんだい?」

 


 大声で歌うように叫ぶ小柄なジミーを追い抜いて、王は車を駐めた寮の裏手の空き地に足を進めた。



「これが俺達の車か?」

 


 黒髪のジミーはコンテッサを見るなりに言った。

 


「見たことがないけど、ミニよりデカいからどうにかなるだろう」

 


「トミー、知っている?
 君の母国からはるばる海を渡って来た日本車の日野だ。
 日本で何と呼ばれるのか知らないけど、シンガポールで何度か見たことがある、これは紛れもない日本の車なんだ」


 王の言葉に頷く富四郎だったが、
 日野といえばバスやトラックを作る日本のメーカーである。
 それくらいの認識はあったものの、日野自動車が乗用車まで作っていようとは、今の今まで知らなかったのである。

 


 王が知り合いの中国人から一日の期限で借りた車は当時日本で流行っていた白いセダンの日野コンテッサであった。
 実家は代々農家で家に父愛用の軽トラと役所に通う長兄のスバル360があるとはいえ、免許を持っていない富四郎は車に明るくなかった。

 


 王が持ち込ん車を一目見て、どこかで見たことがあるな、
 たぶん、日本車ではないだろうかと、推測するに留まっていたのだ。


「トランクにギターは入るかな?」
 


 王にトランクを開けてもらい、ギターが入ると事を確認したジミーは、

 

 

「俺と同じく小ぶりなガットギターだからどうにかトランクに収まったけど、ロバートのようにデカいギターなら寮の部屋でお留守だったな」


 一旦、部屋に戻っていた金髪のロバートが黒い革ジャンを羽織り、 紙袋を抱えながら息を切らしながら走って来た。

 


「待っていてくれてありがとう。
 とりあえず、俺とジミーの替えのパンツと歯ブラシだけ持ってきた」



 トランクとギターケースの合間に王の荷物が入ったバッグと富四郎のナップザックとロバートが持ってきたジミーとパンツと歯ブラシが詰まった食料品店の紙袋を埋めて、王がトランクを締めた。



 右手の運転席に王、助手席の富四郎、後部座席には王の後にジミー、富四郎の後にロバートの配列で4人は車に乗り込んだ。

 


 王はコンテッサのエンジンを掛け、ハンドブレーキを解除した。
 左足でクラッチを踏み込み、ギアを入れ、右足でアクセルを踏み込むと、コンテッサはゆっくり寮の裏手の空き地から側道に入った。


「オーストラリアで運転する機会があるかもしれないと、国際免許を取ってきて正解だった。
 それに加え、イギリス植民地のなごりだろうが、オーストラリアがシンガポールと同じく右ハンドルで助かった」

 


「ジョニー、シンガポールもこの車が生まれたトミーの母国の日本も、俺達のアイルランドやオーストラリアと同じく車は左を走っているだな」

 


「ロバート、その通りだ。
 僕は小さな島国のシンガポールしか運転した経験がなかった。
 父の車を借りて、ぐるっと島を一周しようにも半日もあれば充分だ。


 今朝、チャイナタウンから寮までの短い距離ながら、
 久しぶりの運転で心臓がバクバクしてしょうがなかった」

 


「それで運転は大丈夫かい?」

 


「ウォーミングアップはもう充分」



 コンテッサは側道から通りに出た。


「車の運転なら俺に任せな。
 ジョニーが疲れたら、いつでも交代してやる。

 アイルランドも小さな島国ながら、どこまでも車で走ろうとすれば海に落ちるか、北アイルランドとの国境線で一悶着が待っている。

 


 それに比べ、オーストラリアは天国で無駄な国境線はないし、  どこまでも広い。
 カンガルーやノウサギが好き勝手に飛び回れるほど土地が余っていて、俺達、アイリッシュが憧れるはずだ」



「ジミー、アイリッシュにとってオーストリアは夢の国かもしれなけど、中国人にとってはどうだろう。

 


 その昔、カリフォルニアのサンフランシスコに続いてイギリスの流刑植民地のオーストラリアで金が発見されて、
 この地はゴールドラッシュで賑わうことになった。

 


 金を求めて、世界中から多くの人がオーストラリアに集まり、
 その中に数万人の中国人が含まれていた。

 


 移民の流入と急激な人口増加はそれまでのイギリスの植民地然としていたオーストラリアに新たな社会現象が起こった。
 その後の紆余曲折を経て、オーストラリアは独立の道を歩むことになった。

 


 それが今から70年足らず前の出来事で、オーストラリアという国の誕生は人の一生ほどの時間した経っていない。

 


 とはいえ、僕の母国のシンガポールは生まれたばかりの赤ちゃんのような小さな島国だ。
 僕が生まれた時はまだイギリスの植民地だった。


 
 二人の母国のアイルランドとイギリスとの複雑な関係に触れるつもりはないけど、僕の祖父母は中国の混乱から逃れてシンガポールに辿り着いた。

 


 その行き先がシンガポールではなく、もっと足を伸ばして、オーストラリアだったら、僕はパースに留学する必要もなかった訳だ。

 


 仮にそうだったら、僕の両親は巡り合うこともなく、僕も生まれていなかった。
 世の中、面白いとうか、偶然に偶然が重なって、今があるんだ。

 


 僕がトミー、ジミー、ロバートと出会ったのもそうさ。
 キリスト教徒でもない僕が言うのは変な話だけど、
 これは神のご加護というべきものだ。
 僕はね、両親や祖父母に連れられて、お寺に行くこともあっても、教会には縁がないからね。
 道教って知っているかな?」



「名前だけなら知っているけど、詳しくはない」

 


 コンテッサに乗ってはじめて、富四郎は口を開いた。



「トミー、名前だけでも知ってくれてありがとう。
 中国の古代宗教と孔子の儒教がインドから伝わった仏教とごちゃごちゃにミックスされたのが、道教だと言われている。
 その道教が中国人の移民によって、シンガポールにも持ち込まれた。

 


 日本にあるかどうかは知らないけど、
 シンガポールといわず、オーストラリアといわず、
 中国人が居る所には中華料理のように存在する、それが道教なんだ。



 僕はシンガポールでは一人で訪れたことはないけど、
 何だろうね、中国人の血が騒いだのか、
 つい1ヶ月前、パースの町中で偶然、道教寺院を見掛けると、
 線香の匂いと煙に惹き付けられるように飛び込んでいた。

 


 考えもなしに長い線香を買い求め、火を灯し、
 手を合わせ目を閉じると、どこからか鐘の音が聴こえ、
 両親や祖父母の顔が浮かぶどこか、見たこともない、
 会ったこともない、老いた中国人や赤ちゃんや子供の顔が浮かんだのには驚いたね。



 彼らは大陸でこの世を去った僕のご先祖や親戚縁者かもしれない。
 これから生まれてくる予定の僕の子供なのかもしれないけど、
 言葉や理屈を越えた世界がこの世の中の存在するんだろうね。
 頼むから、僕を変な奴と思わないでくれ」

 

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 7 

 6月に入ると、南半球のオーストラリアは本格的な冬を迎える。
 富四郎が日本を発ったのが3月の末。

 


 気候が真逆のオーストラリアは秋の真っ盛りというか、
 パースは夏の終わりから初秋の佇まいで、日本でいえば9月のような気候で暑くも寒くもない最高の季節だった。

 


 日本との違いをそれほど感じなかった富四郎も日が進むにつれて、 半袖では肌寒く、実家から持参した長袖シャツに薄手のセーターを着るほどになった。
 


 もうすぐ、冬休み。
 有り難いことに休みの期間中も寮は閉鎖されず、住み続けられるのだが、この休みを利用して、王はシンガポールに一時帰国するという。

 


 富四郎に帰国する予定はない。
 パースから数時間でシンガポールに戻れる王と違って、
 2度も3度も飛行機を乗り換え、丸一日、それ以上の時間を費やし、一時帰国する余裕もお金も富四郎は持ち合わせていなかった。
 考えもしなかった。


 
 帰国を前に、王は大学や寮があるパースから近場に出掛けてみないかと、富四郎に持ちかけた。
 時間と予算の制限があって、パースから近場で日帰りないし1泊程度するプランを提案した。



 翌朝、朝食もそこそこに出掛けた王が部屋に戻るなり、王は富四郎に言った。



「トミー、すぐに準備してくれ」

 


「いったい、どうした?」

 


「だって、明日の昼過ぎには知り合いに車を返さなければいけないからね。
 今から車で寮を発つ。

 


 気が向いたまま、行き先は北でも南でも構わない。
 どこかで1泊するもよし、陽が沈む頃には寮に戻って来るもよし。

 


 さあ、急いだ。
 トミー、今から出発だ」

 


「でも、その格好は?」

 


 背が高い王は机に向かい椅子に座っていた富四郎を見下ろすように淡い緑の米軍のミリタリージャケットを羽織っていた。

 


「車を借りたチャイナタウンの市場の隣の空き地に米軍のお下がりの軍服が売っていたので、試しに袖を通すと、僕にピッタリでつい買ってしまった。

 


 悲惨な戦争に喘ぐベトナム人には気の毒だけど、これを着たとして、戦地から遠いオーストラリアのパースで僕が米兵に見えるはずもない。
 おまけに安かった。

 


 一年中夏のシンガポールと違って、寒くなったオーストラリアではちょうどよかった」



 王と議論を交わした事はなかったが、5年前、マレーシア連邦がイギリスから独立した2ヵ月後、アメリカのケネディ大統領が暗殺された。

 


 代わりにジョンソン副大統領だった大統領に就任するや否や、待ってましたかのようにアメリカはベトナム戦争にのめり込んだ。

 


 終わりの見えない戦争が世界を震撼させると同時に東西冷戦の最中、アメリカをはじめとする西側先進国を中心に戦争反対の掛け声とあいまって、学生や若者達が社会からドロップアウトすると同時にヒッピー文化やフラワームーブメントが社会を席巻した。

 


 戦争反対のピークを迎えた時代の転換期に富四郎と王はベトナムから赤道を挟んだ南半球のオーストラリアに留学していたのだ。



 富四郎は旅支度をはじめた。
 王が言うように近場にドライブする予定だが、泊まりも想定され、下着のシャツ、パンツ、靴下、ハンカチ、歯ブラシと歯磨き粉、タオル等を大学に通う時に使っている黒のナップザックに詰め込んだ。

 


 青い綿の長袖シャツに家から持ってきた厚手に茶色のセーターを重ね、灰色のズボンに黒のジャンバーを羽織った。
 黒い靴下に包まれた両足を青い運動靴に突っ込み、準備万端整った。


 富四郎が部屋の鍵を掛け、王と階段を降りると、
 閉じられた食堂隣の人気のないリビングでジミーがギターを爪弾き、相方のロバートとハモリながら、メランコリックな歌を披露していた。


「お二人さん、慌ててどうした?」

 


 ギターを抱えたまま、ジミーが言った。

 


「これから車でトミーとお出掛けだよ」

 


 ジーンズのポケットから車のキーを取り出した王が応えた。

 


「それでどこに行くんだ?」

 


 無精髭を生やしたロバートがにやにやしながら言った。

 


「行き先は決まっていない。
 気が向くまま、風が向くままさ」

 


 二人に向かって、王が言った。

「俺達に内緒で二人旅か!


 誰が言ったのかは知らないが、旅に音楽は付きものだ。
 アイリッシュ・トラッドの名手のジミーとロバートを連れて行かない手はないだろう。


 車は二人乗りのスポーツカー?」

 


 ジミーの問いに王は黙っていた。

 


「さあ! 決まった。
 ジョニーとトミーが俺とロバートを連れ立って旅に出るんだ」

 

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 6

 二人が親しくなるにつれ、王は富四郎に自分の悩みを進路を英語で相談するようになった。
 富四郎の英語はスピーキングよりヒヤリングで進歩を見せていた。



「生物学を学ぶトミーと違って、僕の専攻は文学だけど、
 今年の暮れには大学院に進むか、シンガポールに戻るのか決める必要があるけど、今だに迷っている。

 


 商人に学問は必要ない。
 高校を卒業すると、家業を手伝うのが筋だと言う親をなだめ、  大学に進んだまではよかったが、地元の大学に飽き足らず、留学するには一苦労だった。

 


 来年の留学期間を終えると、シンガポールの家業のホテルを継いで欲しいと言って、父と母は半ば既成事実を確認するように僕を送り出した。



 僕や両親のルーツでもある長い歴史を誇る中国ならともかく、
 シンガポールには独自の歴史も文化も文学もありようがない。

 


 シンガポール生まれとはいえ、
 食べて生きるので精一杯だった父と母からしたら、
 僕が現実に目を向けず、アメリカやヨーロッパにかぶれたピッピー崩れのように見えたのかもしれない。



 文学でメシが食える訳でなし、教師になるのが関の山で、
 文学が何のためになるかと言う両親を説得して、
 奨学金をもらい、金銭的に両親の負担を掛けないと誓い、
 英文学の本場、イギリス留学を諦めて、シンガポールからほど近いオーストラリアのパースに辿り着いた。
 この大学の寮に入って、トミーと出会ったという訳さ」



 富四郎は黙っていた。
 王の両親が見下した教師の道を投げ捨てて、オーストラリアに来たこと。
 大学の恩師の教授に勧められて、パースの大学院に進み、今こうして、王と出会い、大学の寮にいることを。
 

 王の話は続いた。

 


「ホテル経営と言っても、棟続きの民家を改造した部屋数が12のこじんまりとした宿でほとんどの客が中国人だけど、
 たまにイギリス人が来る程度で日本人も何度か見たことがある。

 

 


 ある時、僕がフロントにいると、建物の外の広くはない庭に出てていた日本人が戻ってきた。
 彼は映画の役者のように流暢な英語で僕に語り掛けた。

 


 その昔、その人はシンガポールにいた日本の軍人だったそうで、 日本がシンガポールを支配していた最中にも薄々感じてはいたが、 戦争に敗けるやいなや、天と地がひっくり返った。



 イギリスの捕虜として過ごしたシンガポールでの日々は軍隊生活に負けないほど規律正しいものだった。
 太陽が昇る前に起きて、粥やパンだけの粗末な朝飯を食べると、イギリス兵に追われるように道路の修復や日本軍が破壊したインフラ復興に明け暮れた。

 


 日暮れ前に日本兵の仲間と食事を摂り、兵舎に戻って粗末なベッドに横になると、目を閉じて今日一日生き延びたことを心の中で国の両親に語り掛けた。
 


 戦時には気づくこともなかった赤道直下の季節感の乏しい秋が過ぎ、年が明けると、冬と春が過ぎた。
 日本が戦争に敗けた暑い8月がまたやって来た。
 激しい嵐の後、上官から説明を受けた。
 来週、シンガポールから船が出ると。


 
 捕虜となって1年後、彼は赤道直下のシンガポールから船に乗った。

 


 帰路、大陸の港で降ろされ、中国かシベリア送りになると噂になった時はシンガポールで捕虜のままだったほうが、
 殺されないだけマシだったかもしれないと嘆きながらも、
 命からがら日本に辿り着いた時は腰が抜けるほど嬉しかった、と。

 


 今は日本の会社に勤めているそうで、20年ぶりのシンガポールを訪ねて、あれが変わったけど、これは変わっていないと、
 若き日々を思い出しているようだった」
 


 寝る所にも食べるのに苦労することなく無難にオーストラリアでの生活のスタートを切ったかに見えた富四郎だが、生まれてこのかた田舎の実家、農家暮らしのだった彼にはオーストラリアの食事がたいそう堪えた。

 


 朝食は大学の寮でパンと生まれて初めて食べる牛乳を掛けたシリアルが定番で飲み物は紅茶かコーヒー。

 


 昼は大学の学食でパンと味があるような、ないような芋と豆。
 寮に戻り、夕飯にパンか混ぜ飯に卵料理、時に贅沢品として硬い肉の山とオレンジやバナナ、リンゴなどのフルーツが付くこともあった。
 


 土日は大学が休みなので寮の食事も提供されず、
 実家が経営するホテルで食事を提供していることもあって、
 1階の食堂の隣のキッチンで器用に中華包丁や中華鍋を扱う王の指導を受け、富四郎は下手ながらも、家の味を、故郷の味を思い出しながら、和食に挑戦したものだった。

 


 実家では母と兄嫁と嫁ぐ前の姉に任せていたというより女性陣が台所を独占して、男が姿を見せようものなら、野良猫のように追い出された。


 ある日、王の中華料理と富四郎の和食の提供に寮の仲間も加わってちょっとしたホームパーティになった。
 両親、祖父母が広東省をルーツに持ち、米料理が盛んな土地柄の血筋を引いている王はどうした訳か、中国北部の料理であるはずの小麦料理の麺類や餃子が大好きだった。
 


 パースの中華市場から食材を仕入れ、包丁と鍋を器用に使って、 王は得意な腕前を披露した。

 


 これといって芸のない富四郎は王に連れられた市場で日本風のお米を探し求めたが、それでも見つからず、諦めかけていたところ、寮で出会ったイタリア人留学生からイタリア米が日本のお米に近いと教えてもらったのを思い出した。

 


 イタリア産だったかはともかく、スーパーの片隅にあった日本風の丸っこいお米を手に入れ、富四郎は米をざっと洗い鍋で炊いて、面目を保つのであった。

 

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 5   

 富四郎がオーストラリアの大地を踏んだのが、美子と結婚した9年前の事である。
 戦後20年が過ぎ、日本は経済大国へとなるべく突き進んでいたその頃、オーストラリアでは戦争の残り香があちらこちらに漂っていた。



 一般的に過去に囚われることが少ない日本人にとっては疾うに忘れ去った出来事なのかもしれないが、建国百年足らずのオーストラリアにとって英米と供に戦った日本との戦争の傷跡が人々の心を支配していた。

 


 真珠湾攻撃と同時進行で遂行された日本軍のマレー沖海戦は英国の要塞であったシンガポールを陥落させた上に英国海軍のランドマークであったプリンス・オブ・ウェールズを撃沈させた。
 日本軍は英国軍並びにオーストラリア軍を蹴散らしたのである。

 


 スペインの無敵艦隊を破って以来、ヨーロッパ列強の一国として名乗りを上げ、産業革命以後、二百年近く世界の海の王者として君臨していた大英帝国にとって屈辱的な汚点となった。



 翌1942年の2月から3月に掛けて、日本海軍の空母から出撃した零戦がオーストラリア北部のダーウィン、ブルームを空襲した。
 日本軍の攻撃は数十回に及び、オーストラリアに多数の死傷者の人的被害で出るだけでなく、軍事施設、生活インフラが多大な被害を被った。

 


 それに加え、同年5月末、オーストラリアのシドニーの沖合いで日本海軍の特殊潜航艇がシドニー港に停泊中の連合軍艦船を攻撃した。


 
 そのような日本とオーストラリアの過去の事情を知らぬはずがない富四郎が羽田空港から2度3度乗り旅客機を継いで辿り着いたのがオーストラリア西海岸のパースだった。
 富四郎にとって初めての外国である。

 


 オーストラリアへの留学が本決まりになり、まずはパスポートを取り、オーストラリア領事館に出向いてビザを申請した。

 


 あれこれと準備万端整え、大学の卒業式を待ち、
 オーストラリアに渡る富四郎にそれまで胸の奥底に抑えていた不安がふつふつと沸き上がってきた。
 読み書きはともかく、はたして、英語が喋れるのだろか、会話として成立するのだろうか、と。


 
 当時、地方の国立大学に外国人留学生は少なく、当然のように富四郎も外国人との会話もコミュニケーションの経験もなかった。
 あったとしてもごく僅かだった。

 


 富四郎の発音は絵に描いたようなジャパニーズイングリッシュで中学に入って英語を習い始めた1年生の頃からアップデートされることなく、今更、英会話を学ぶには時間がなさすぎる。
 山田教授の例え話で赤紙をもらって戦争に行くわけでなく、
 多少英語が拙くても命を取られる心配はない。
 富四郎は開き直るしかなかった。


 
 日本とオーストラリアでは教育制度が違うため、富四郎が彼の地を訪れたが3月末というのは微妙な時期だった。

 


 北半球とは真逆な季節感を持っているオーストラリアでは、
 春入学の日本と秋入学のアメリカとも違った新入学の時期を採用しており、日本の大学を卒業し、大学院に進む富四郎とて、その例外ではない。

 


 とりあえず、大学の寮に入り、4月と5月の2ヶ月は特待生の扱いで、冬休み明けの7月から正式に大学院に進む予定である。


 
 それまでに英語を母国語としない学生が英語の講義についていけるように用意されたプログラムを受講することになった。
 大学院での講義に加え、オーストラリアの環境、キャンパス、寮生活に適応出来るようにトレーニングが開始された。

 


 ありがたいことに大学側から授業料免除と寮費免除に加え、
 多少の小遣いが出ることから贅沢さえしなければ、どうにか暮らしていけるメドはついている。



 取るものをとりあえず、富四郎は大学の寮に入った。
 寮は日本風にいえば、昭和初期に建てられたような洋館の3階建で、1階に食堂とリビングルームと共同のキッチンが供えられ、トイレとシャワーは1階から3階、それぞれの階にあった。

 


 富四郎の部屋は2階の角部屋であり、
 洋間7畳程度の洋間にシングルベッドが二つ、勉強机が二つの二人部屋でルームメイトはシンガポール出身の中国人である。
 

 二人が出会った5年前の1963年、
 マレー半島の英国領だったマラヤ連邦がシンガポールと北ボルネオ(イギリスの保護国だったボルネオ島北部)を統合して、マレーシア連邦となって独立した。

 


 マレー人、中国人、インド人から構成されるマレー半島のマレーシアはイスラム教徒のマレー人が主要民族であり、中華系が多数を締めるシンガポールとはいざこざが絶えなかった。

 


 独立から2年後の1965年、マレーシアから追放される形で川のように流れるジョホール海峡を隔てた島国シンガポールは微妙な具合で独立国家となった。

 富四郎同様にルームメイトの王は戦争を知らない戦後生まれで、目の前で紛争や命の危険を感じたことがないとはいえ、
 中国人なのかシンガポール人なのか、それともマレーシア人なのか、自分の立ち位置があやふやなようだった。

 


 とはいえ、中国語なまりはともかく、王は富四郎より遙かにマシな英語を話す、異邦人的な佇まいの、背が高く痩せたハンサムな男だった。


 富四郎が22歳で王が21歳と一つ違いで育った環境も文化も異なりながらも、出会った初日から富四郎と王は気が合った。
 富四郎の下手な英語に顔を顰めることなく、王は富四郎の話に耳を傾けた。

 


「トミーは7月から大学院に入るんだよね」

 


 初対面以来、何度かTOMISHIROと言うにように試みたが、どうにもこうにも上手く言えず、

 


「悪いけど、トミーと呼ばせてもらって構わないかな。
 代わりに僕のことを、ジョニーと呼んくれたら嬉しいな」

 

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  4

 富四郎は即答することができなかった。
 大学を卒業すると、地元を離れ、東京、大阪の企業に就職する同級生が多い中、あえて地元に残り、高校教師になる道を選んだ富四郎に想ってもみなかった海外留学の道が開けたのである。

 


 その時まで海の向こうを知らなかった富四郎にとって、
 教授の言葉は未知の世界が待っている、神のお告げのようでもあった。



 百年あまり前の幕末、今の横浜市鶴見区生麦で薩摩藩主であった島津茂久の父親の久光の行列にイギリス人の騎馬隊が絡んで殺傷事件が生じ、それをきっかけとして、翌年、薩摩と英国との間で戦争が起きた。

 


 何の因果が新暦に直すと8月15日から17日までの所謂三日戦争で、薩摩藩のお膝元の錦江湾で世にも不思議な開戦があった。
 当時世界一の英国と日本一の軍事力と定評があったにせよ、 
 幕府軍ならぬ一介の薩摩藩が激突したからである。

 


 結果は火を見るより明らかで、実際に英国艦船からの大砲、砲弾で鹿児島城下の一部が焼き討ちされた。

 


 とはいえこれが契機となり、倒幕の機運は一気に高まり、
 4年後、徳川慶喜の大政奉還で二百六十年余年に渡った江戸幕府が幕を閉じたのである。


 日本を近代化に導いた明治天皇の治世が終わると、
 英国艦船に代わり、大正3年の桜島大噴火で火口から流れ出した大量の溶岩が目の前の海に流れ込み、桜島は大隅半島と繋がった。

 
 山田教授の金言の4ヶ月前、夏休みの九州旅行で鹿児島を訪れていた富四郎が日本を揺るがした錦江湾を横切るように進んだフェリーを降りて向かった先は、観光バスが案内する噴煙を巻き上げる雄大な桜島ではなく、フェリーターミナルからほど近い銭湯のような温泉だった。

 


 硫黄が咽せる温泉に浸かり、富四郎は目を閉じた。
 何も考えず、数分が過ぎると、地元民の老人が声を掛けてきた。


「わしは九州から出たことはありませんが、
 桜島が世界一の火山なら、この温泉もしかり。
 日本一だと信じて疑ったことはありません」

 


 富四郎が目を開けると、老人の姿はどこにもなかった。



 大学から家に戻る汽車の中で、富四郎はあの時の老人の言葉を思い出していた。
 田舎者の自分が、百姓上がりの自分が桜島の向こう、
 今も米軍が支配する沖縄の先の海外に出向く機会があろうとは。

 


 留学どころか大学に残って研究者の道を選ぶことすら敷居が高かった富四郎に突如の夢が舞い込んだ。



 それにしても、オーストラリアとは何だろう。
 戦後、圧倒的なパワーで世界を凌駕し、席巻したアメリカ。
 研究者に限らず、海外とえいば、留学といえば、誰しもがまずはアメリカを想い浮かべる。

 


 先生も仰っていたように真っ先にアメリカというのが人情だろう。
 明治の頃ならイギリスもドイツもあったのだろうが、
 大学で生物学の基礎を学んだ富四郎とて、カンガルーやコアラなどの有袋類以外、これといってオーストラリアをイメージできなかった。


 先生には3日の猶予をもらっているが、家に帰り、両親や兄達にどうやって説明していいのか、富四郎はない頭を悩ませて帰宅した。

 


 その日は一日、口を閉じていた。
 陽が明けると、農業の閑散期でやることもないので、
 大掃除までにはまだ早いが家の片づけや庭の手入れ、正月準備を手伝うと、冬至が過ぎたとはいえ、1年で最も日暮れがこの季節、すでに太陽の姿はない。



 役所勤めの長兄の御用収めのこの日、両親、兄夫婦に子供たちと家族全員でと夕食を囲んでいる席で、富四郎は徐に切り出した。

 


「昨日、山田教授からオーストラリアの大学から留学依頼が来ているので、わたしを推薦したいというお話しを受けました。

 


 昨夜、一晩寝ずに考えたのですが、一生に一度の好機をみすみす見逃すことはわたしには出来そうにもありません。
 4月には高校教師になることが決まっている身ですが、ここは一つ、裸一環になってオーストラリアに向かいたいと思います」


 誰一人、言葉を発する者はなかった。
 両親も兄夫婦もただただ口を真一文字に閉じていた。 
 重い空気が漂う中、母が切り出した。

 


「富四郎、行ってきなさい。
 何も心配することはない。
 お父さんもわたしも、この家でお前のことを祈っています。
 体だけには気をつけて」



 翌春、両親の思いを胸に、
 桜の花が咲く前に富四郎はオーストラリアへと旅立った。

 

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 富四郎は生物学の研究者である。
 生物学にもいろんな分野があれど、オーストラリアの大学院に進んで、ダーウィンの進化論に興味を持った。

 


 進化論といより、進化説といったほうが適切なのかもしれないが、現にアメリカの一部にはダーウィンが唱えた進化論を仮説の進化説に過ぎないと一笑する学者が少なからず存在する。



 ガリレオ・ガリレイの『それでも地球は回っている』で有名なように今日においては地球は球体であり恒星である太陽の周りを自転する惑星であることは小学生でも知っている事象であるが、
 それでも、地球の果てにアメリカの果てにナイアガラの滝のように流れ落ちる先が地の底となって、世界の終わりがある、彼らは地球が平面だと信じ込んでいるのだ。



 嘘か誠か、宗教国家の慣れの果てのアメリカの一部にキリストの復活やマリアの処女懐妊を真に受ける狂信的な信者が存在すると言えば、偏見染みて聞こえるかもしれないが、
 彼らはイギリスでヨーロッパで食い詰めて、神を信じて船に乗り大西洋を渡って来た人々の子孫である。

 


 インドを目指していたにもかかわらず、結果的にアメリカ大陸に上陸し、自分たちが神に選ばれた人であると妄信した。
 先住民のネイティブ・アメリカンをインディアンと罵り、
 インディアンを瞞し、虐殺し、土地を奪い、アフリカで奴隷船に詰め込んだ黒人を家畜同様に扱い、先進地であったヨーロッパの技術と資本によって、アメリカの基礎を築いたのが彼らのご先祖だ。



 富四郎が世界一富めるアメリカに向かわず、19世紀末から20世紀に入っても、大英帝国の流刑植民地と蔑まれていたオーストラリアで研究者としてのスタートを切ったのも何かの縁である。

 


 敗戦で打ちひしがれていた日本が朝鮮戦争の特需もあって、
 突如として経済が右肩上がりに回復し、東京オリンピック開催から3年が過ぎた。

 


 来春には地元の大学を卒業し、教員生活を始める心積もりの富四郎に大学の恩師の山田教授から想いもよらない提案があった。
 
                      
「高校の生物の教師として地元で一生を過ごすのも悪くはないが、山本君、海外に目を向けてはどうだろう?」

 


「先生、もしかして留学ですか?」

 


「まあ、そういうことだ。
 君は若い。
 これから世の中に出ていく人間だ。
 井の中の蛙になることなく、小さな日本を外から眺めて、
 力をつけて、日本のためにひと踏ん張りもふた踏ん張りもして欲しい」


 50歳の声を聞くようにして禿げ上がった教授は何かを思い出すかのように目を閉じた。



「わたしが若かった頃の日本は戦争一色の暗い時代だった。
 戦争に取られて、わたしも陸軍でインドシナを渡り歩いた。

 


 何の疑いを持っていなかったといえば嘘になるが、
 今も昔も、科学者にありがちなように学生上がりを隠れ蓑に政治に興味を持っていなかったせいもあるが、こんな事をして何になるかの自問にも目と耳を閉じていた。

 


 お国のため、両親のため、自分のためと念じながらも、そんことすら考えられないほど現実が凄まじかった。
 空腹にあえぎ、泥水を飲んで生き延びるだけで精一杯だった。


 
 上官や仲間の兵隊の生き死にを無数に見るだけに留まらず、
 敵や現地の人の死も嫌というほどかかわった。

 


 蛇やムカデやカタツムリがご馳走に見える幻想も味わった。
 食べなかったのは猿と人間だけといえば、笑い話にもならないが、戦争が終わり、わたしが生きて日本の地を踏むことが出来たのもご先祖様のおかげだと感謝しても仕切れない。

 


 それに加えて、幸運にもわたしは大学に戻れた。
 今、こうして、人を教える立場だ。
 わたしの若い頃と違って、今は何をやるのも自由だ。

 


 おまけに君は農家の末っ子で家や両親の事を考えることなく、 
 自由に生きていける。
 親兄弟に感謝するんだ。
 何も考えるこはない。

 


 わたしが君のように若かったら、何も考えず今すぐ、この狭い日本の飛び出す。
 もし、時間を取り戻すこと出来れば、何の生産性もない悲惨な戦争に目もくれず、海外に向かうだろう」



「先生、それで行き先はどちらでしょう?」

 


「オーストラリアだ」



 富四郎は口を閉じた。


「山本君、留学と聞いて、アメリカを想像したのかもしれないが、オーストラリアの大学から依頼が来ているので、君を推薦しようと思っている。

 


 わたしが生死をかけて戦ったインドシナの向こう、インドネシアを越え、赤道の向こうのオーストラリアの西海岸のパースの大学だ」

 

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 2

 大学を卒業して、もう一度アメリカに渡る夢を抱きながら、 
 美子は日本に留まり、家に残り、中学校の英語教師になった。

 


 5年間、教師として自信と実績を積んできた彼女が見合いを受ける気になったのが、お相手の男性が留学を経て長年オーストラリアに住み、3月に帰国、4月から母校である地元の国立大学で助手を務めていたからである。

 


 結婚はともかく、面白そうな経歴の男に会って話を聞いても損はない。
 美子の気持ちが初めての見合いに傾いた。



 その年も押し迫った師走の末、見合いの席が正式に決定した。
 中学校の終業式を終え、2年生のクラス担任の美子は受け持ちの生徒全員に成績表を渡した。
 あとは大晦日と正月を待つばかりである。



 年が明けると、美子には大仕事が待っている。 
 見合いの日時は1月15日の成人の日と決定した。
 美子はのんびりとした正月を家族と過ごした。
 親子3人で年越しそばを食べ、除夜の鐘を聴き、年が明けると、神棚の前で手を合わせた。

 


 儀式が済むと、一息ついてコートを羽織り、近所の神社に参った。
 鳥居を潜り、寒風が吹き抜ける中、石畳の階段を上った。

 


 母と作った雑煮を食べ、お屠蘇を飲み、年賀状に目を通し、三箇日が過ぎた。
 正月七日が過ぎ、中学校では三学期が始まった。
 見合い前日の金曜日、仕事を終え、自宅に戻った。

 


 家族3人で夕食を終え、自室に戻って一人になると、
 それまで抑えていた美子の感情が込み上げてきた。
 いくら軽い気持ちで受けた見合い話とはいえ、もしかしたら。


 翌日の土曜日は1月15日の成人の日は祭日である。
 7年前、成人式を迎えたあの日と同じように幾ばくからの期待と不安を胸に家で母に淡い藤色の振り袖を着付けてもらい、美子は長い黒髪をうなじで結び上げた。

 


 お昼前、長男夫婦に伴われ、見合い相手の男が渡辺家に乗り込んで来た。
 この見合いを紹介してくれた美容院のオーナー婦人は1年でも最も忙しい、稼ぎ時とも言える成人式当日で生憎、席を外されている。



 男の名前は山本富四郎、
 美子より4歳年上で同じ12月生まれである。
 両親とも小学校教員の家庭に育った美子は27歳になったばかりで、 富四郎は敗戦の昭和20年のクリスマスに生を受けた。



 美子の父は地元小学校の校長であり、母は隣の小学校の教員を務めていた。
 母は渡辺家の二人姉妹の長女であり、同じ小学校で教師をしていた父が 師走に渡辺家に養子に入った。

 


 翌年、二人の勤務先は別れ、年の暮れに美子が産まれた。
 その後、子宝に恵まれることはなかった。


 
  一人娘であることを充分に理解していたとはいえ、
 戦争を経験した両親と違い、戦後生まれの美子は密かな夢を持っていた。
 いつの日にか、両親と別れ、この家を出て、この町を出て日本を飛び出したかった。

 


 しかしながら、現実世界の美子は両親と同じ道を辿った。
 違うのは両親が小学校の教員であるのに対し、美子は中学校の教員となった。

 


 地元の小学校、中学校、高校を出て、家から通える地元の大学に進んだ美子はアメリカでのホームステイ、修学旅行を含めて、短い旅行以外、一度も家から出たことがなかったのである。



 富四郎と兄夫婦が席が設けられた十二畳間の和室に進むと、
 まず目に入ったのは床の間の上に設けられた立派な神棚であった。

 


 神棚の脇には白黒のご先祖の写真が掲げれており、
 仏壇がないことから、この家は神さんの家ではないだろうかと、 富四郎は心を新たにした。

 
 美子が見合い写真で見知っていた通り、富四郎の容姿は長らく海外暮らしを経験したわりに、田舎の匂いが漂い、どうにも垢抜けなかった。

 


 女性としては身丈がある美子より少し背が高い程度で、
 ガリガリに痩せた富四郎は馬子にも衣装の風体であった。
 5人兄弟の末っ子で既に両親はこの世の人ではなく、
 長男夫婦がこの日の親代わりで、近隣の役所に勤める恰幅が良い兄のスーツを借りているのか肩が落ち、上着がだぶついた。

 


 ブラシも通らないほどの癖毛のぼさぼさ頭で、
 視線を合わすこともなく、口に手を当てて、美子は笑いを堪えた。

 


 これなら、地元の役場か農協の職員のほうがずっと垢抜けている。
 同じ教職でもわたしが勤める中学校の男性教員のほうがずっとマシだわ。


 二人の自己紹介を紹介が終わり、
 昼食の仕出し寿司を挟んだ席で、富四郎が美子に尋ねた。

 


「美子さんは中学校の英語の先生をなさっているそうですが、
 海外に行かれたことはありますか?」

 


「はい」

 


 海外暮らしが長かった富四郎に対して、美子はきっぱりと応えた。

 


「教育大学3回生の夏休みに年にこのお見合いを勧めて下さった美容院のオーナー婦人に紹介されて、サンフランシスコ郊外の日系人のお宅で3週間ホームステイさせて頂きました。

 


 あの年は大阪万博の年でしたから、今から7年、6年半が経っていますが、今でもわたしの心の中にあの時のベイエリアの風景が残っています」


「わたしはアメリカには行ったことはありませんが、
 地元の大学を卒業してから社会に出ずにオーストラリアに向かい、8年間住んでいました。

 


 このまま現地で一生を過ごすのかと覚悟を決めかけた矢先、
 大学の恩師に日本に呼び戻されました。
 その時は心残りもあったのです、日本に戻って来なければ、
 こうして美子さんとお目に掛かることなかった訳で今では恩師に感謝している次第です」


 相変わらず、美子は覚めた表情で富四郎を見ていた。
 美男子とはほど遠い富四郎を顔を眺めるつけ、
 オーストラリアの大学院に進み、研究機関や大学に残っていたことからも、研究者としてはそれなりの評価は受けてはいても、
 この容姿だと白豪主義で有名な彼の地では女性に持てなかったに違いない。
 だから、この人は日本に戻って来たんだな。

 


 美子は漆塗りの低いテーブルの向こうに座る富四郎の頭の天辺から背広姿の胸元、隠れているはずの爪先までが目に浮かんだ。



 その間に富四郎の兄からある提案があった。
 兄が三人、姉が一人で、両親とも他界して、どこで何をして身軽な富四郎に対し、実家の長男夫婦もこのままオーストラリアで骨を埋めると想っていたところ、ひょんな調子で日本に舞い戻ってきた末弟を持て余していたのか、美子との縁談話に食い付いた経緯をぐっと胃の中に仕舞い込むように役所勤めの兄が語り始めた。



「今日初めて渡辺様のお宅に伺いました。
 立派なご自宅に恐縮する次第です。

 


 わたくしども山本家は江戸中期から代々農家でありまして、
 家訓というほどではありませんが、
 農作業と家族全員が食べるの先決で家は雨露を凌げれば充分だと、 馬屋もどきのあばらやに長年住み慣れていたせいでしょうか、両親が亡くなくなり、元の家を取り壊して早3年、
 今の家に建て替えまして、わたしはまだ慣れていない有り様です。



 流しとトイレと風呂が変わって嬉しいと妻は率直に言うのですが、日本に戻ってきました富四郎も浦島太郎のようで、
 亡き両親に愛されて育った末っ子である故に、分不相応な海外留学も経験しました。

 


 両親も今日の良き日を草場の陰から忍んでいることでしょう。
 弟は海の向こう、遙か彼方のオーストラリアで生涯を過ごすものと覚悟を決めていたところ、恩師の誘いで、昨年の春、祖国日本の地を踏むことなりました。

 


 ご縁があって、ご長女の美子さんと見合いと相成りました。
 このような良縁を前にして、震える気持ちでござますが、
 富四郎が渡辺家に養子に入らせて頂くというのは如何でしょう」


「さようでございますか」

 


 美子の父が声を出した。

 


「今を去ること30年近く前になりますが、
 わたしはこの渡辺家に養子として入りしました。
 当時、戦後の混乱期ですが、わたしと妻は同じ小学校に勤めていました。

 


 戦前戦中の尋常小学校から国民学校を経て、戦後、教育界が生まれ変わろとしていた頃でした。
 敗戦国日本に米軍が在留して、マッカーサー元帥が天皇陛下を超える現人神として崇められていました。


 それこそ、誰も彼もが貧しく、食べていくだけで、生きていくだけで精一杯な時代にわたしは隣にいる妻と生まれ変わった小学校の教壇に立っていました。

 


 これからの時代は教え子が戦地に向かうこともなく、戦争で命を落とすこともない。
 それだけが救いで終戦直後の貧しさのなか、教室の中の子供たちと子供を支えてくれる親御さんと向かい合いました。

 


 物資は乏しく、教科書やノート、鉛筆にも欠くありさまでしたから、当然のように今のように給食もありませんでした。
 着の身着のままで学校に通い、お昼に日の丸弁当やおにぎりにありつける子供は幸せ者です。


 
 空きっ腹を抱えた子供たちを見かねたのでしょうか、
 小学校が午前と午後の交代制になった事もあります。
 戦争で父親や兄を亡くした子供も少なくありませんでした。 
 幼い弟や妹の世話で学校を休みがちな子や家事労働に追われ、
 学校の授業どころでない子供たちが小さな体で精一杯生きていました。

 


 家庭訪問で家を訪ねますと、両親とも仕事や出稼ぎで留守で家の周りでぽつんと立っていた子供の顔が今も忘れられません。
 両親が不在で祖父母に育てられている子はまだマシで里子に出された子供も一人や二人ではありませんでした。



 そのような時代にご縁があったのでしょう、
 わたしは妻と結婚して、渡辺家に入ることになりました。
 わたしも5人兄弟の末っ子で長男は帝国海軍の艦船で南方に向かう途中に命を落とし、次兄が家を継ぎました。


 肺を病み、兵隊失格のわたしは軍需工場に借り出されていたのですが、陛下のお言葉で一夜にして世の中が変わると、教師の道が開かれたのです。 

 


 職場となった小学校で妻と出会ったのも、ご先祖や二度と祖国日本の地を踏めなかった長男が導いてくれたのでしょう。
 次兄に家を託して、わたしはこの家にやって来た次第です。
 翌年、美子が生まれました」



 物音一つしない空間に包まれていた。
 長男夫婦が深く頭を下げ、富四郎も釣られた。
 美子と富四郎は言葉を交わすこともなく、その日はお開きとなった。


 見合い当日に姿がなかった美容院のオーナー婦人が間に入って下さり、トントン拍子に縁談話は進んだ。

 


 4月、二人は出会った神棚の前で神主の声を聴き、家族に見守られ、富四郎と美子は祝言を挙げた。
 庭に出ると、池の鯉が口を開け、庭に咲いた桜の花が池にポトリと落ちてきた。

 


 翌日、富四郎が渡辺家に婿入りした。

 

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妄想頭鑑

 

 1           

 渡辺美子の胸は揺れ続けた。
 母と同じく、渡辺家を継ぐのが宿命付けられていた美子だが、
 戦争が終わり、世の中が一変し、31年が経っていた。



 7月4日のアメリカの独立記念日で建国200周年を大々的に伝えるマスコミ報道の様を他人事のように聞いていた美子は、
 6年前の夏休み、3週間という短い期間ながら、サンフランシスコ郊外にホームステイしていたことを思い出していた。

 


 その頃の日本では東京はいざ知らず、美子の地元ではアメリカ本土の土を踏んだ者は少なく、ハワイでさえ月旅行のような夢物語の時代で大阪万博が華々しく開催されたのが、この年である。



 美子は大阪に向かうことなく、アメリカは西海岸に足を向けた。
 両親の勧めや大学で推薦された訳でもなく、
 母と美子が通う美容院の経営者である婦人が英語教師の卵である美子の事を聞き付け、従姉妹がサンフランシスコ郊外に暮らす日系人であり、学校の勉強だけでなく、生きた英語に触れるせっかくの機会なので、美子にホームステイすることを勧めたのである。



 教育大学3回生の美子はアメリカよりもイギリスが好みだった。
 シェークスピアに代表される英文学に惹かれていたというより、 コナン・ドイルやアガサ・クリスティが好きで、
 シャーロック・ホームズとエルキュール・ポアロが大のお気に入りで、日本語の翻訳小説に飽き足らず、英語で原作を読むほどであった。

 


 とはいえ、美子は実際の英会話に自信はなかった。
 読み書きはともかく、地元の中学生相手とはいえ、
 これで英語教師が本当に務まるのだろうかと、一抹の不安を抱えていたのも事実だった。



 美容院オーナー婦人の従姉妹宅にホームステイさせて頂くのでサンフランシスコまでの旅費と東京・羽田までの旅費と美子の小遣いといくばくかの謝礼を用意すれば、美子が家庭教師で貯めたお金と半分は両親に工面してもらい都合がついた。
 1ドル360円の時代である。



 大阪万博が開催された、1970年の7月(昭和45年)
 美子が生まれて初めて母国日本を離れ、羽田空港を飛び立った時は真っ青な日本晴れの清々し天気だった。
 この年、美子が住む地方は平年より少し梅雨明けが早く、
 東京も同じとばかり想い込んでいた彼女は関東甲信地方の梅雨明けが昨日だった。


 
 狭い日本でさえ、この有り様だから、広いアメリではどんな出来事が待ち構えているのだろうと期待を膨らませた。
 窮屈なシートベルトに身を包み、狭いシートに細い体を収めていると、この数日の緊張感から解放されて、いつの間にか美子は眠りに落ちていた。

 


 美子の見送りに前年に亡くなった祖母の姿は当然のようなかったが、隣の席に目を向けると、40代に若返った祖母が一人ぽつんと座っている様子に目覚めた。
 夢だった。
 日本人スチュワーデスが機内食の声を掛けてくれたのである。



 初孫の美子を可愛がってくれた祖母が時空を越え、機内まで付いて来てくれたのだ。
 何も心配することはない。
 思い悩む事もない。
 大好きだった祖母が側に付いていてくれる。
 大船に乗ったつもりでどん構えていよう。



 希望に胸を膨らませた美子はアメリカの地に、サンフランシスコに降り立つと、真夏の日本から海を隔てた西海岸は春先のような涼しさだった。

 


 その頃、地元でも流行始めたジーンズと白いTシャツ姿の美子は大柄な白人のおじさんの入国審査官に日本のパスポートを見せ、ホームステイが目的の大学生であることを告げた。

 


 勢いよくスタンプが押されたパスポートが手に返された時、
 美子は寒さと緊張感から、身震いした。
 ホームステイ先の日系人家族4人全員が空港まで迎えてきてくれていたので、いくぶん気分が和らいだ。

 


 散々練習を積んだ、英語での挨拶を交わした後、
 外見は日本に住む日本人と変わらないとはいえ、
 アメリカ生まれ育ちの家族4人を前にして、
 来年は教育実習を経験する予定の美子が緊張感に包まれた。



 中学1年生になった気分で、
「マイ・ネーム・イズ・ヨシコ・ワタナベ」と言うと、
 家族はお父さんからお母さん、姉から妹へと自分の名前を告げると、今度は妹から順にハグの洗礼を受け、彼女の気分は舞い上がってしまった。


 
 白いシボレーのセダンのリアシートに娘姉妹に挟まれて腰を降ろした美子は窓の外の生まれて初めて見るカリフォルニア州、サンフランシスコ郊外の風景を目に焼き付けた。

 


 わたしには大好きなおばあちゃんが付いていてくれる。
 おばあちゃんもわたしと一緒に飛行機の中からサンフランシスコに舞い降りて、今も車の後を付いて来てくれるはずだ。


 
 日本の田舎を想わせるような広い庭の平屋の家で、
 彼の地での夢のような時間は瞬く間に過ぎ去った。

 


 ホームステイ先の日本風にいえば中学1年生と小学校5年生の姉妹が年下の先生となって、美子の拙い英語を気にすることもなく、 二十日あまりの短い時間だったとはいえ、本当の三姉妹のように振る舞った。

 


 日本で英語教師を目指す美子に姉妹は学校で習っている英語の教科書を見せると、 今度は立場が逆転して、美子が先生となって姉妹に英語を教え始めたのである。



「ヨシコ、いいえ、ヨシコ先生。
 こんなにすらすら英語が読めるんですね」

 


 長女のキョウコの態度が一変した。
 それと同時に英語が日本語になっていた。

 


「ヨシコ先生、わたしの家庭教師になってくれませんか」

 


 次女のマリコがヨシコの右腕を掴んで哀願した。

 


「この家にいるのも、もう1週間を切ったわ。
 良かったら、今度は二人がわたしの家に遊びに来て」



 キョウコとマリコの姉妹と別れの日が来た。
 両親と連れ立った車でサンフランシスコ国際空港まで見送りに来てくれたのが、美子が二人を見た最後だった。

 


 日本で待ってくれていたのは両親とアメリカまで美子に連れ添ってくれた亡き祖母の面影だった。
 それからしばらく、手紙やハガキでのやりとりは続いたが、
 結局、姉妹が日本にやって来ることはなかった。



 6年後、この美容院のオーナー婦人から縁談が持ち込まれた。
 これ正にご縁である。

 

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 29

 汐を香りが鼻をついた。
 海が近いんだな。
 そのまま足を進めると、通りの脇に公園が見えた。

 


 ベンチに腰を降ろし、ビニール袋から弁当を出して、
 日本のコンビニでくれるような先の割れたベージュ色のプラスティックのスプーンで焼き飯を掬い口に運び、ミートボールを刺した。

 


 ペットボトルの水を一口頬張り、弁当を完食すると、
 両手で皮を剥いた苦味が残るオレンジを喉の奥に押し込んだ。

 


 弁当を食べながら、米粒やおかずを落として、
 知らぬ間にお零れ目当の鳩が地面に群れていた。
 腹が空いているからといって、何も考えず、こんな場所でお昼にした自分も悪かったが、カラスやもっと大型の鳥に襲撃されなくて幸いだった。


 マキと房総半島に出向いた時、二人でビーチに腰を降ろして、
 コンビニかどこかで買ったスイーツを食べていた時、鳶が上空から旋回して、マキの手元を狙い急降下した。
 マキの悲鳴と供に鳶は飛び去ったが、被害がなくて、本当に良かった。



「怖かった!
 日本に来て、今日が一番怖かった!」

 


 マキはそう言ったまま、しゃがみ込み、しばらく立ち上がることが出来なかった。
 マキはどうしているだろう。



 昼飯が終わり、公園を離れ、地図アプリを頼りに来た道を戻った。
 中華街を抜け、人通りが少ない市街地から大通りに出た。
 オークランドはこれでおさらばしよう。

 


 サンフランシスコ方面のバートに乗った。
 二つの街を隔てる狭い海峡を、海上にはサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジが掛かっている海底トンネルを通行している最中に車両内でティーンエージャーの黒人ラッパー数名の余興が始まった。

 


 乗客の迷惑も顧みず、エアーマイクでリズムを刻み、飛んだり跳ねたりの妙技を披露しているその間にリーダー格らしい背が高い男が被っていたアスレチックスのキャップを手に持ち、募金箱よろしく帽子の中を見せるように乗客にお金をせびり始めた。



 ラップの即興ライブにコインを弾むこともなく、俺はパウエルストリートで降りた。

 


 あとから気づいたが、サンフランシスコとは反対方向のバートに乗り、コロシアム駅で下車すれば、球場内に入れたかはともかく、 アスレチックのホームスタジアムを眺められたはずだ。

 


 グアムに続いて、ベイエリアの旅も、この日も身に着けている、 アスレチックスのグリーンのキャップが象徴する、中華街からさほど遠くもない、アラメダ・カウンティ・コロシアムに寄ることも忘れてしまうなんて、義理人情に欠けた奴だと言われても仕方あるまい。


 サンフランシスコに戻ると、ショップ、ユニオンスクエア
 どこにも寄らず、ケーブルカーの後ろから坂を上り、チャイナタウンの門の前で立ち止まった。

 


 スマホのカメラで狛犬と亀の像を写真に収め、小さな左右の門を覆う中央、三つの緑の屋根瓦で一対となった門を潜り、いざ中華街に繰り出した。

 


 30メートル、50メートルと坂を上り切ると、閑散とした広い通りに散らばったオークランドのチャイナタウンと違って、ここサンフランシスコのチャイタウンは狭い坂道が基本となっている。


 
 ハワイはオアフ島のワイキキビーチ側のホテルで知り合ったマイケルさんはかつて西船橋に住み東京で英会話教師していたと言うが、今はニュージャージー州の小さな町に住むという。

 


 マイケルさんは日本で中国系アメリカ人女性と知り合い、
 彼女の帰国条件を受け入れ、二人は結婚した。

 


 新妻の地元のサンフランシスコに戻り、
 マイケルさん夫妻が暮らしていたのはどの辺りだろう。
 日本の昭和の終わりから平成にかけてということなので、
 サンフランシスコもチャイナタウンも様変わりしたはずだ。

 


 二人の結婚生活は長く続くことはなく、マイケルさんは生まれ育ったニュージャージーに戻り、今はリタイアして1年の半分は自宅以外過ごすと言う。



 マイケルさんを想いながら中華街をぶらぶら歩いて、
 自分用のキーホールダーを購入した。
 日本人街では使えない店もあったのにここ中華街の店ではどうした風の吹き回しか日本ブランドが使えるようで、
 日本人を代表してと言う訳でもないが、JCBカードで支払った。


 坂を下り、中華街に別れを告げると、
 イタリア風のカフェがあり、立ち止まって店内を覗いた。
 ガイドブックによれば、中華街の先にイタリア人街があり、 
 近くにはロシア人街もあるという。

 


 19世紀半ばにゴールドラッシュとともに栄えたサンフランシスコは海の側に労働者が棲み着いて、海から少し離れた坂の上、丘の上にチャンスを掴み金を握った成功者、いわば成金が住んだとそうだが、坂だらけの街のサンフランシスコのどこが坂の上であり、丘の上のなのかまったくと言っていいほどピンとこなかった。



 店に入ることなく通り過ぎると、
 教会が見え、側を抜けると、広い公園に辿り着いた。
 ここが写真に収まったブローティガンが微笑むワシントン・スクエアだろう。

 


 明日にはこの公園から程近いフィッシャーマンズワーフに出向いて、ピア33からフェリーに乗り、暗黒街のボスのアル・カポネが晩年を過ごしたアルカトラズ島を訪れるとしよう。

 


 サンフランシスコ湾からゴールゲートブリッジを潜ると、太平洋に臨み、日本列島が待っている。

                       完

 

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 28

 これ以上、バークレーに用はない。
 水木先生の本を発見した本屋前まで戻り、次の目的地のオークランドに行くことにした。

 


 バートか目の前の通りを走るバスにするかの二に一つだが、
 街の景色を眺めたい気が半分と慣れない土地でバスに乗れば、
 どこに連れて行かれるかの解らない不安が交錯した。
 結局、安全策を取り、バートで引き返した。



 ウエスト・オークランド駅で下車、地上に出ると、
 大きな通りでビルは建ち並んでいたが、人通りは少ない。
 外してしまったの思いも、バークレーに引き返えすことなく、
 スマホのアプリを見ながら、ダウンタウン目指して歩き始めた。

 


 大通りを渡ると、サンフランシスコ方面のバスがやって来たが、このままサンフランシスコに戻っては何のためにバートに乗り、わざわざ海を渡ってきたのが解らなくなってしまうので踏み留まった。


 オークランドは労働者の街で御世辞にも治安が良い土地とは言えないようで、観光客で溢れるサンフランシスコのダウンタウンやフィッシャーマンズワーフと違い、街角は地元民で溢れるどころか、バークレーと同じく、今日は日曜日で人は疎らである。



 午後1時を過ぎて、歩くごとに腹の減りようが一目盛り、二目盛りと刻まれるようで、どこかに腹持ちの良い食堂でもないかと辺りを見渡したが、ここは初見参のオークランドである。

 


 労働者の街ならば安い定食屋はないかと、通りの商店を品定めしながら歩いていると、漢字だらけの看板が目に飛び込んだ。
 オークランドにサンフランシスコ同様の日本人街があるとも想えず、知らずのうちに中華街に紛れ込んでいたのである。
 日本にもその名を轟かせたサンフランシスコのチャイナタウンに行く前にオークランドの中華街に足を踏み入れているとは。
 

 世界中のどこに行っても中国人のいない所はないと言われるように口の悪い友人によれば、どこに行こうがどこに住もうがネズミのように繁殖するのが中国人である。

 


 また別の例えでは、どこに行こうがどこに住もうが、
 地球の果て、アマゾン、南極、サハラ砂漠だろうが、
 中国人としてのメンタリティと言葉と料理を捨てず、
 持ち続けて生きているのが中国人である。

 


 地球が破滅することがあっても、最期の最期まで逞しく生き残っているのが中国人とネズミだとすれば、サンフランシスコの隣のオークランドに中国人が住まっても、中華街があっても、至極当然なのかもしれない。



 ニューークにもハワイのホノルルにもチャイナタウンはあって、ここでは日本の中華街の横浜、神戸、長崎と比較するとして、横浜しか行ったことがなく恐縮するが、
 数少ない経験から言わせてもらえば、
 横浜の中華街はローカルな人が集うごく狭いエリアと人々に知られる観光スポットと化した両極端が混在するのに対し、
 オークランドのチャイナタウンは故郷から遠く離れた中国人が散在しているように見える。

 


 昨今、東京の池袋の中華街化が顕著で川口のクルド村同様に同市内の西川口にも中国人が棲み着いている。


 話は変わり、シンガポールに行った時に街角からタクシーに乗り、中国系の運転手さんにチャイナタウンまでお願いしますと頼んだ。

 


 後から考えれば、住民の7割が中国系で占めるシンガポールでは洒落にならなかったのかもしれないが、
 着いた先が、観光客で溢れる、繁栄するシンガーポールを代表するマーライオンとは別の顔を持った、ありふれた街の一角だったのを思い出した。

 


 そこは本当にこじんまりとした、日本の地方の商店街風であり、そこがシンガポールの中華街だった。

 



 オークランドに話を戻すと、中華料理店に入ってチャーハンでも麺類でも食べようと思っていたら、中華風な雑貨屋が目に入った。
 そこはもう中華のパラダイスだった。

 


 名前も知らない数多くの中華な野菜から豆腐か醤油からB級雑貨や日用品まで、中国人が好みそうな品物が所狭しと並んでいた。
 

 狭い店内をぐるりと回って、目に付いた中華弁当とペットボトルの水とオレンジを買い物籠に入れ、レジに前に進み、ドルで支払った。

 


 クレジッドカードでも良かったのかしれないが、
 大陸生まれの移民かアメリカ生まれなのか、
 中国のどこにでもいそうなおばさんの顔を見ていると、
 すーっと現金が出ていた。



 おばさんに「謝謝」と言われ、目で返して、店を出た。
 どこで昼飯を食おうかと辺りを伺ってみても、公園もベンチも見当たらなかった。

 


 おばさんが弁当を入れてくれたビニール袋をぶら下げたままバートに乗車し、サンフラシスコのダウンタウンのユニオンスクエアまで行くのも面倒である。

 


 弁当なんて買わず、適当な定食屋かファストフードでも入るのが正解だったのかもしれないが、歩いているうちに中華街を過ぎていた。

 

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