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デニムのオーバーオール姿のジミーはギターが入ったソフトケースを抱えたまま、王と富四郎の先頭を切って寮を出た。
「俺達の車はどこにあるんだい?」
大声で歌うように叫ぶ小柄なジミーを追い抜いて、王は車を駐めた寮の裏手の空き地に足を進めた。
「これが俺達の車か?」
黒髪のジミーはコンテッサを見るなりに言った。
「見たことがないけど、ミニよりデカいからどうにかなるだろう」
「トミー、知っている?
君の母国からはるばる海を渡って来た日本車の日野だ。
日本で何と呼ばれるのか知らないけど、シンガポールで何度か見たことがある、これは紛れもない日本の車なんだ」
王の言葉に頷く富四郎だったが、
日野といえばバスやトラックを作る日本のメーカーである。
それくらいの認識はあったものの、日野自動車が乗用車まで作っていようとは、今の今まで知らなかったのである。
王が知り合いの中国人から一日の期限で借りた車は当時日本で流行っていた白いセダンの日野コンテッサであった。
実家は代々農家で家に父愛用の軽トラと役所に通う長兄のスバル360があるとはいえ、免許を持っていない富四郎は車に明るくなかった。
王が持ち込ん車を一目見て、どこかで見たことがあるな、
たぶん、日本車ではないだろうかと、推測するに留まっていたのだ。
「トランクにギターは入るかな?」
王にトランクを開けてもらい、ギターが入ると事を確認したジミーは、
「俺と同じく小ぶりなガットギターだからどうにかトランクに収まったけど、ロバートのようにデカいギターなら寮の部屋でお留守だったな」
一旦、部屋に戻っていた金髪のロバートが黒い革ジャンを羽織り、 紙袋を抱えながら息を切らしながら走って来た。
「待っていてくれてありがとう。
とりあえず、俺とジミーの替えのパンツと歯ブラシだけ持ってきた」
トランクとギターケースの合間に王の荷物が入ったバッグと富四郎のナップザックとロバートが持ってきたジミーとパンツと歯ブラシが詰まった食料品店の紙袋を埋めて、王がトランクを締めた。
右手の運転席に王、助手席の富四郎、後部座席には王の後にジミー、富四郎の後にロバートの配列で4人は車に乗り込んだ。
王はコンテッサのエンジンを掛け、ハンドブレーキを解除した。
左足でクラッチを踏み込み、ギアを入れ、右足でアクセルを踏み込むと、コンテッサはゆっくり寮の裏手の空き地から側道に入った。
「オーストラリアで運転する機会があるかもしれないと、国際免許を取ってきて正解だった。
それに加え、イギリス植民地のなごりだろうが、オーストラリアがシンガポールと同じく右ハンドルで助かった」
「ジョニー、シンガポールもこの車が生まれたトミーの母国の日本も、俺達のアイルランドやオーストラリアと同じく車は左を走っているだな」
「ロバート、その通りだ。
僕は小さな島国のシンガポールしか運転した経験がなかった。
父の車を借りて、ぐるっと島を一周しようにも半日もあれば充分だ。
今朝、チャイナタウンから寮までの短い距離ながら、
久しぶりの運転で心臓がバクバクしてしょうがなかった」
「それで運転は大丈夫かい?」
「ウォーミングアップはもう充分」
コンテッサは側道から通りに出た。
「車の運転なら俺に任せな。
ジョニーが疲れたら、いつでも交代してやる。
アイルランドも小さな島国ながら、どこまでも車で走ろうとすれば海に落ちるか、北アイルランドとの国境線で一悶着が待っている。
それに比べ、オーストラリアは天国で無駄な国境線はないし、 どこまでも広い。
カンガルーやノウサギが好き勝手に飛び回れるほど土地が余っていて、俺達、アイリッシュが憧れるはずだ」
「ジミー、アイリッシュにとってオーストリアは夢の国かもしれなけど、中国人にとってはどうだろう。
その昔、カリフォルニアのサンフランシスコに続いてイギリスの流刑植民地のオーストラリアで金が発見されて、
この地はゴールドラッシュで賑わうことになった。
金を求めて、世界中から多くの人がオーストラリアに集まり、
その中に数万人の中国人が含まれていた。
移民の流入と急激な人口増加はそれまでのイギリスの植民地然としていたオーストラリアに新たな社会現象が起こった。
その後の紆余曲折を経て、オーストラリアは独立の道を歩むことになった。
それが今から70年足らず前の出来事で、オーストラリアという国の誕生は人の一生ほどの時間した経っていない。
とはいえ、僕の母国のシンガポールは生まれたばかりの赤ちゃんのような小さな島国だ。
僕が生まれた時はまだイギリスの植民地だった。
二人の母国のアイルランドとイギリスとの複雑な関係に触れるつもりはないけど、僕の祖父母は中国の混乱から逃れてシンガポールに辿り着いた。
その行き先がシンガポールではなく、もっと足を伸ばして、オーストラリアだったら、僕はパースに留学する必要もなかった訳だ。
仮にそうだったら、僕の両親は巡り合うこともなく、僕も生まれていなかった。
世の中、面白いとうか、偶然に偶然が重なって、今があるんだ。
僕がトミー、ジミー、ロバートと出会ったのもそうさ。
キリスト教徒でもない僕が言うのは変な話だけど、
これは神のご加護というべきものだ。
僕はね、両親や祖父母に連れられて、お寺に行くこともあっても、教会には縁がないからね。
道教って知っているかな?」
「名前だけなら知っているけど、詳しくはない」
コンテッサに乗ってはじめて、富四郎は口を開いた。
「トミー、名前だけでも知ってくれてありがとう。
中国の古代宗教と孔子の儒教がインドから伝わった仏教とごちゃごちゃにミックスされたのが、道教だと言われている。
その道教が中国人の移民によって、シンガポールにも持ち込まれた。
日本にあるかどうかは知らないけど、
シンガポールといわず、オーストラリアといわず、
中国人が居る所には中華料理のように存在する、それが道教なんだ。
僕はシンガポールでは一人で訪れたことはないけど、
何だろうね、中国人の血が騒いだのか、
つい1ヶ月前、パースの町中で偶然、道教寺院を見掛けると、
線香の匂いと煙に惹き付けられるように飛び込んでいた。
考えもなしに長い線香を買い求め、火を灯し、
手を合わせ目を閉じると、どこからか鐘の音が聴こえ、
両親や祖父母の顔が浮かぶどこか、見たこともない、
会ったこともない、老いた中国人や赤ちゃんや子供の顔が浮かんだのには驚いたね。
彼らは大陸でこの世を去った僕のご先祖や親戚縁者かもしれない。
これから生まれてくる予定の僕の子供なのかもしれないけど、
言葉や理屈を越えた世界がこの世の中の存在するんだろうね。
頼むから、僕を変な奴と思わないでくれ」