ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 32

 マキの要望もあり、5月3日にレンタカーで房総半島に行くことにした。
 この日は3月末に大宮の氷川神社でお会いした柳本さんとフィアンセの吉田葵さんの結婚式が千葉市内のホテルで執り行われる予定で、前々日の1日にお祝いのメールを送り、この日に合わせて祝電を送った。



『柳本さん、葵さん、ご結婚おめでとうございます』

 


 心の中で文面と同じお祝いの言葉を述べ、
 部屋を出てマキとの待ち合わ場所の西船橋駅の改札まで急いだ。
 待ち合わせ時間の5分前に着くと、先日の高田馬場同じく、
 一足先に到着したマキがスマホに目を落としていた。



「おはようございます、お待たせして済みません」

 


「わたしもたった今着いたばかりです」

 


 薄化粧のマキが見上げた。

 


「いつもお早いですね」

 


「そんなことはありません」

 


「マキさん、デニムお似合です」

 


「ありがとうございます」


 
 マキはワンピース姿とローヒールの革靴からデニムのシャツとジーンズとスニーカーへとカジュアルな装いになっていた。



「ミャンマーでは鉄道インフラが未熟でバスがメインなので、
 日本の電車に素晴らしさにいつも感謝しています。
 地元のヤンゴンに古い日本の鉄道車両が今も走っていると言ったら驚かれるかもしれませんが、本当の話です。

 


 日本の鉄道の一番の利点は時間が正確で時間を読めることです。
 だから、いつも少し早めに部屋を出るようにしています。
 今日も特別なことは何もしていません。



 4月から千葉の大学に編入したので、
 短大時代と同じく西武新宿線で高田馬場まで行って、
 地下鉄東西線に乗り換え、西船橋で総武線に再度乗り換えるので、駅で降りたことはないのですが、勝手知ったる他人の家のようです。



 電車の中で西船橋がどんな街なのかとスマホで下調べていまいした。
 電車を降りて、プラットフォームから階段を上がり、
 初めて改札を抜けると、想っていた以上に人が多く驚いていたところ、吉田さんに声を掛けられました」



「確かに西船橋は人が多いですね。
 高田馬場とは比べものになりませんが、乗り換える人が多く、
 駅を離れ、裏通りに入ると、閑散としていて、その辺が都心との違いです。
 今日は西船場まで来て頂いて、ありがとうございます」

 


「今日はわたしの番です。
 大学は千葉市内なので、いつもの通学を思えば楽です。

 


 吉田さんが言われたように1ヶ月は様子を見ていましたが、
 アパートを出て大学のキャンパスまでの歩きを入れると2時間近くかかり、交通費もばかにならないので大学近くの千葉に住もうかと迷っています」



「僕が余計なことを言いませんでしたか?」

 


「そんなことはありません。
 吉田さんのアドバイスは貴重でした」

 


「そう言って頂いて、僕も少しほっとしました」

 


「短大卒業と大学編入に加え、引っ越しまで重なったら、
 わたし、倒れていたかもしれません」

 


「本当に驚かせないで下さい。
 僕も東京を離れ、西船橋に住んでいるのでマキさんの気持ちもわかるのですが、
 住み慣れた杉並とミャンマー人のコミュニティとバイト先の高田馬場を離れ、大学近くの千葉に移るのは悩ましい問題です。


 焦らず、じっくりと考えて結論を出してください」

 


「吉田さんとボウリングした翌日、今着ているシャツを買いました。
 あの日、吉田さんのジーンズ姿が素敵で連れ合いの取れないワンピース姿のわたしは少しブルーでした。

 


 ボウリングに誘っておきながら、
 わたし、ずっとデニムのシャツを考えていました。

 


 吉田さんとお別れして部屋に戻り、デニムのパンツは持っているので、スマホでデニムシャツを探りました。
 このままネットで買おうかと迷ったのですが、サイズと生地の触り心地を確かめたかったのと、今までネットで服を買った経験がないので、踏ん切りがつきませんでした。



 翌日の日曜日、新宿のショップで自分に似合いそうなのデニムシャツを見つけると、迷わず手に取り、大きな鏡の前に進みました。

 


 着ていたカーディガンを脱いで、手が届く棚の上に置いて、
 プラウスの上からですが、デニムのシャツを着てみました。

 


 お洒落上手な若い日本女性と違って、ファッションセンスに今一つ自信が持てないわたしは側にいた店員さんのとてもお似合いですの誉め言葉に『ありがとう』と呟いてレジに急ぎました。
 吉田さん、今日のシャツもお似合いです」


「ありがとうございます。
 今日は箪笥の肥やしなりつつあったシャツを初めて着てみました」

 


「わたしたちどこかチグハグですけど、どうにかなりますよね」
「もちろんです。
 レンタカーを予約したので、ここからオフィスまで歩きます。
 10分少々ですが、マキさん、歩くのは平気ですか?」

 


「大丈夫です。
 毎朝、アパートから駅まで歩いて慣れています」



 北口のロータリーに出て、駅まで来た道を辿るようにマキと並んで歩いた。
 改札前では弾んだ会話も駅を離れると、言葉に詰まり、
 無言のまま大通りに出て、レンタカー・オフィスの前まで来ると、急にマキが口を開いた。

 



「ミャンマーにも日本車が溢れていますが、
 車はプリウスとベンツしか知りません。
 プリウスが日本車でベンツがドイツ車、その程度の認識です。

 


 ヤンゴンの実家の父は運転免許も車も持っていません。
 わたしも免許を持っていないのでバスとタクシーは別にして、  日本で乗用車に乗ったことがありません」


 
 オフィスで規定の手続きを済ませ、店員さんと予約した白い車の前に進んで、キーを手渡された。

 


「可愛い車ですね。
 何という名前ですか?」

 


 マキが声を掛けてきた。

 


「スズキのスイフトです。
 同じくスイフトで房総の和田浦を訪れて、気に入ったので昨日予約しました」



「スイフトはミャンマーにも走っていますか?」


「残念ながら、知りません」

 


「ミャンマーには日本の中古車が多いと言いましたが、
 車音痴なわたしには全部同じに見えてしまいます。
 新しいとか古いとか、高級そうとか、そうでもないとか、
 それがわたしの判断基準で、来日してかもその癖が抜けません。
 


 ミャンマーのタクシーはほとどん日本の古い車ですが、
 日本ではピカピカの車ばかですし、タクシーかどうかの見極めが難しく、手を上げる踏ん切りがつきませんでしたが、1年くらい経ってようやく、タクシーには屋根にマークが付いていて、
 車に会社名が入っているので、区別はできるようになりました。

 


 吉田さん、今日はどうかよろしくお願いします」

 



 マキとスイフトに乗り込み、ゲンさんの家がある勝浦に向かって走った。
 下道から高速に入り、静かだったマキに独り言のように語り始めた。


「歩くのが好きで、数少ないわたしの趣味のようなものです。
 アパートから駅までに加え、高田馬場や大学のキャンパス周辺を歩いて眺めていますが、車の助手席から見える景色と若干の違いを感じます。

 


 知らない間に高速に入って、何だか別世界を走っているようで、都内の主要道路の上に</p>に支えたられた首都高を下から見上げると、それだけで怖くなります。

 


 タクシーを利用するのは友人知人との近場の相乗りですし、
 高速バスを除いて、車に乗って高速道路を走るのは初めてです。

 


 ハンドルを握っている訳でもなく、助手席に乗せてもらっているだけですが、日本の高速道路って、こうなっているんだ。
 普段歩いている道も綺麗ですが、歩行者も自転車もいませんし、高速道路は格別ですね。

 


 今、どれくらいのスピードで走っているのですか?」

 


「時速100キロです」

 


「正直、ピンときませんが、1時間走れば100キロ走るという意味でしょう。
 上から目線というか、自分が偉くなったような感覚に囚われて、ちょっとしたカルチャーショックです。



 わたし、東京から地方に行く時は安い高速バスが専門で新幹線はもっての他です。
 成田空港に行く時も成田から東京に戻る時もエアポートバスを利用せず、毎回、京成電車を利用しますし、成田からLCCに乗って日本国内を旅行するのが、今のわたしの夢です」



「マキさんはハワイに行かれましたよね」

 


「そうでした。
 あの時は成田からLCCで関空経由でした」

 


「僕もそうですよ」

 


「そうでしたね。
 LCCを使って、ハワイまで格安で連れて行ってくれた友人に感謝しないと」

 


「これから向かう勝浦のサーファーの人も、同じく成田から関空経由でハワイで知り合った、関空に近い大阪南部の出身の方なので、
 大阪出身の友人がいるマキさんと気が合うと思います」

 

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 31

 先ほどの店員が注文を取りに現れると、
 マキの生ビールの小ジョッキと小さなグラスに続いて、
 俺は中ジョッキと砂肝、つくね、鶏皮、ピーマン、玉ねぎをそれぞれ二人分頼んだ。

 


「とりあえず、以上です。
 あとから、また注文します」

 


「ありがとうございます」

 


 タブレットに注文を入力した店員が下がった。



 マキの女性ならでは横座りを見て、

 


「足を崩したらいかがですか?」

 


「ありがとうございます。
 男性の前で足を伸ばすのは端ないですが、
 正座のままでは足が持たないような気がして、好きとはいっても、畳に座るのは難しいですね。

 


 わたし、畳の臭いが好きです。
 部屋はフローリングで勉学が本業の学生だから机とベッドを置くと、狭い部屋が一杯です。

 


 板間で食事するのも味気ないので、小さな和風のテーブルを置き、 茣蓙の座布団に腰を降ろして、日々の食事しています。
 その時は人目がないので足を伸ばしていますが、
 今日はこのままにさせてください」



 生ビールと焼き鳥が運ばれると、
 マキの小ジョッキのビールと俺の中ジョッキをカチンと鳴らして、乾杯の音頭を取った。


 マキと同時に生ビールに口を付けた。

 


「美味しい。
 3月末にミャンマーの友人と花見して以来のビールです」

 


 マキはもう一度、ビールに口を付けて、ふっと息をついた。

 


「わたし、4月から千葉の大学に編入したばかりで、
 慣れまいことばかりにどこか気持ちが張り詰めていたのかもしれません。
 吉田さんと再開して、1年ぶりにボウリングを楽しんで焼き鳥屋さんに足を運んで、今日、お会いできて本当に良かった」




 マキと焼き鳥を食べながら、ビールを飲んでいろんな話をした。
 カフェでの続きで彼女の子供の頃からの夢の日本留学と、
 この4月、短大から千葉の大学に編入するまでの出来事を2時間の映画のようにぐっと濃く掻い摘まんだ話を聞いた。



「マキさん、ボウリング・フォー・コロンバインという映画をご存じですか?」

 


「わたしたちのようにボウリングをしたあとに焼き鳥屋さんに行く映画ですか?」

 


「冗談がきつないな」

 


「ネタではないんですね?」



「それならコメディーです。
 ネタではありません。

 


 ボウリング・フォー・コロンバインはアポなし取材で有名なアメリカの映画監督マイケル・ムーアが独自の手法で描いているドキュメンタリー映画でコロラド州の高校生が今日の僕たちのようにボウリングを楽しんだあとで、自分たちが通う学校を襲撃した実話に基づいたコロンバイン高校銃乱射事件を扱った作品です」

 


「そんな大変な事件があったのですね。
 わたし、日本に留学して正解でした。
 ボウリングのあとに自分が通う高校を襲撃することなく、
 焼き鳥屋さんで楽しい一時を過ごせるのですから」



「今から20年近く前の事件ですから、ご存じないのも無理はありません。
 アメリカでは銃の乱射なんて日常茶飯事でしょうが、
 舞台が高校だったのと、映画で注目度が上がったのでしょう。

 


 日本に住んでいるので、その辺の感覚は正直わかりません。
 僕も実際に映画館ではなくて、TV放映を観て事件を知ったくらいです」



「20年近く前ならわたしが生まれた前後の事件ですね。
 1月にハワイに行ったとはいえ、ミャンマーに住んでいた当時のわたしにとってのアメリカは日本以上に遠い、未知の国でしたから、わたしが知らなくても当然かもしれません。

 


 軍が国や情報を統治するミャンマーでもアメリカの映画や娯楽は入らなくもないんです。


 政治的なメッセージの強い映画がミャンマーで公開されたかどうかはともかく、今はネットの時代ですから、ミャンマーでも興味がある人は目にしていると思います。

 


 娯楽が少ないミャンマーにも映画館くらいはありますが、
 地元のヤンゴンには入場するのも憚れるようなローカルな映画館だけでなく、日本にあるようなショッピングモールに付随する小綺麗なシネコンもあるにはあるのですが、わたしは自分から進んで映画に行こうとは思わないタイプでした。

 


 日本映画に限らず、アメリカ映画に限らず、映画をほとんど観ないわたしは活字派です。


 
 そんなわたしにも子供の頃はアニメや漫画で日本に興味を持ったようにポップカルチャーで溢れる日本では誘惑も多く、映像に触れなくもありません。

 


 日本の小説を原作にした映画を観たいですね。
 TVで放映された、太宰治のヴィヨンの妻を観ましたが、
 三島由紀夫の潮騒や川端康成の伊豆の踊子も観てみたいのですが、小説と映画は別物でしょうし、わたしにはどうにも小説のイメージがどうにも強くて」



「マキさんは勉強家ですね。
 僕なんて文芸作品の映画化なんてほとんど観たことがありません。
 映画館で眠ってしまいそうで、そもそも足が向きません。

 


 金城武が好きで日本でも人気の三国志を描いたレッドクリフをTVで観ようものなら、案の定、30分も絶えられなくて、チャンネルを変えました。

 


 ゴールデンウィークに活字や映画もいいでしょうが、
 少し足を伸ばしてみませんか?」

 


「そうですね。
 今住んでいる東京はもちろん好きですが、
 先程も言った、自然溢れる房総半島に行ってみたい」

 

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  30

 エレベーターで地上に降りると、ビックボックス前に向かう途中、 難を逃れて、マキの足元に非難し、身の安全を確認するや否や走り去った猫と瓜二つの白い猫がどこからかやって来て立ち止まり、マキの顔を覗くように首をもたげた。



「吉田さんは犬派ですか? 猫派ですか?」

 


「今住んでいるマンションは賃貸でそもそも動物は飼えませんが、どちらかといえば、犬派です。
 今年になって偶然知り合った房総の二人の方のお宅にお邪魔すると、申し合わせたように番犬がいて、
 案の定、怪しい余所者でしかない僕は吠え立てられました。

 

 

犬も家族の一員で、犬が家を守っているという場面に出会え、

子供時代、広島の実家で雑種犬を飼っていたのを思い出して、懐かしかった」


「わたしは猫派かな。
 犬より猫が好きなんですが、ヤンゴンの実家でも東京のアパートでも猫を飼ったことはありません。

 


 ハワイに同行した短大時代の友人に誘われ、
 東京の猫カフェで子猫を触っている時は良かったのですが、
 彼女と別れ、部屋に戻り、シャワーを浴びようと服を脱ぐと、手から腕、肩に掛けて赤い小さな湿疹をところどころに発見しました。

 


 母に似てわたしも猫アレルギーのようです。
 猫を飼うことはできなくても、人知れず、猫の動画を観ています。
 見知らぬ猫の何気ない日常が東京で一人暮らしのわたしの心を癒やしてくれます。



 わたしの密かな猫好きが伝わってか、今日のようにわたしの周りに野良猫が近寄ってくることがあります。
 日本の猫は安全ですけど、ミャンマーでこのような猫に手を出したら危険です。

 


 狂犬病を持っていたら、大変な目に遭います。
 ミャンマーでは犬だけでなく、猫も危険です。

 


 日本では野良犬を見かけませんが、
 ミャンマーには野良犬が掃いて捨てるほどいますから、
 吉田さん、ミャンマーに行かれる際はお気を付けください」
                      

 タイとベトナムを訪れた時にそのような話を聞いた覚えがある。
 東南アジアで怖いのは野良犬と水と蚊とバイクだと。

 


 日本でも昭和の時代、50年ほど前まで街に野良犬が溢れていたそうで、保健所の皆さんのご苦労でゼロとはいわないまでも、
 街中で野犬に遭遇することが少なくなった。



「少し早いんですけど、この近くで食事でもしませんか?」

 


 このまま別れるのが惜しくてマキに声を掛けると、
 左腕に巻いた時計に彼女は目を落とした。



「吉田さんはいつもは何時頃に晩ご飯をお食べになりますか?」

 


「平日は仕事終わりの7時から8時です。
 2年前の引っ越した直後はほとんど都心で食べていましたが、
 ここ最近は西船橋に戻って、駅周辺での外食や部屋で食べることもしばしばです。

 


 休日は自宅でなるべく食べて、夜はのんびり過ごすようにしています。
 晩ご飯のあとはお菓子を含めて、夜食も食べない主義なので、
 体は正直で朝になるとお腹が鳴ります」

 


「高田馬場で晩ご飯にしますか?」

 


 俺が頷くと、

 


「わたし、短大時代からお昼は学食で済ませています。
 週に3日は高田馬場のミャンマー料理店でウェイトレスしているので賄いがあって、それ以外はほぼ部屋で自炊です。
 吉田さん、何か食べたいものはありますか?」

 


「僕はミャンマー料理を一度も食べたことがありません。
 一言で言って、ミャンマー料理はどんな特徴があるのですか?」



「わたしも、来日するまで日本料理を食べたことがありませんでした。
 日本に憧れ、日本語を学び、日本への留学が決定してからも日本料理は考えたこともありません。

 


 わたしの地元のヤンゴンには少なからずの日本料理店がありますが、日本のビジネスマンが対象で現地のミャンマー人にとって敷居が高いの実情です。

 


 バイトしているわたしが言うのも何ですが、
 東京のミャンマー料理店はそれほど高くありません。
 日本の若い人にもっと気楽にお店に来ていただきたいのですが、ミャンマー料理を食べたことがない日本の方が大半です。



 吉田さんが言われたようにミャンマー料理といっても、
 日本人にはイメージが湧かないようで、わたしが務めるお店もミャンマー人のお客さんがメインです。



 ミャンマーが東南アジアにあることはご存じでも、
 アウンサンスーチーの名前は知っていても、
 実際にミャンマーに行ったことがある日本の方は少数ですし、  知名度や関心は隣のタイとは雲泥の差です。

 


 日本に増えてきたベトナム人、ベトナム料理と比べても、ミャンマーはマイナーです。



 話をミャンマー料理に戻しますと、
 ミャンマーの主食は日本と同じくお米です。
 隣国のタイに代表される長いお米もありますが、
 ミャンマーには米は日本と同じく短いお米もあります。

 


 ヤンゴンの実家で短いお米を食べ慣れていたので、
 来日してからも、それほど違和感はありません。
 長いお米は苦手です」

 


「そういえば、これまで定説となっていた日本に稲作が入ったきた経緯が寒い朝鮮半島経由でなく、暖かくてお米が多く採れる、
 ミャンマー、タイ、ベトナムもしくは中国の沿岸部から日本に伝わったのではないかと、言われるようになっています」



「そう言ってもらえると嬉しい。
 ミャンマーでは白いご飯も食べますし、カレーのルーのようなものを掛けたり、日本風の混ぜご飯も食べます。

 


 カレーもあれば、肉も魚も食べますし、野菜も食べます。
 わたしはベジタリアンではありませんが、ベジタリアンもそれなりくに多く、仏教徒向け以外の料理もあります。

 


 日本人にイメージしやすいように言うと、
 一見、インド風な料理でありながら、スパイスを控えめにした、それほど辛くないのがミャンマー料理です。
 吉田さん、晩ご飯は何がいいですか?」

 


 マキが大きな黒褐色の眼を見開いた。
 俺が黙っているのを見越して、
「わたしはほぼ毎日、ミャンマー料理を食べているので、

 


 できれば、居酒屋さんみたいな所に行きたいな」

 


「そうですね。
 ミャンマー料理はまた別の機会ということにして、
 今日は居酒屋に行きましょう」



 ロータリーの人出はより多くなり、これから街に繰り出す人々の活気に満ちていた。
 ロータリーから高田馬場のガード下を潜り、マキとチェーン店の居酒屋に入った。

 


 開店したばかりの5時過ぎで、いつもは賑わうはずのお店も客の姿は疎らで、マキと二人、座席に通された。

 


 マキはワンピースの裾を右手に取って、革靴を脱いだ。
 衝立の前の席で、俺とマキは向かい合って畳に腰を降ろすと、
 早速、座席を勧めてくれた若い男の店員がおしぼりを持ってやって来た。

 


「ご注文がお決まりになったらお呼びください」



 店員が下がるを確認し、マキが俺の目を覗いて、口を開いた。
「わたし、日本に来てビールの味を覚えました。
 ミャンマーでは多くの国民は仏教徒ですが、
 女性がアルコールを嗜むのを忌み嫌う風習が残っています。

 


 わたしの家族もその例外ではなく、日本を学び、
 日本留学を許してくれた、文化的な面では心が広いはずの両親も、父はともかく、母は女性がアルコールを口にするのを絶対に許しません。



 日本でビールの味を知ったわたしも実家に戻ると、
 以前の実家暮らしのわたしに戻っています。

 


 日本でビールを覚えたとは言っても、
 生ビールを小さなグラスに注いでもらっても、
 全部飲み切れない時が多いですね。
 残すともったいないので、連れの人に飲んでもらうのですが、
 吉田さんにそれをお願いして宜しいですか?」


 俺は黙って頷いた。

 


 マキは恥ずかしそうに下を向いた。

 


「それでは、生ビールの小ジョッキをお願いします」

 


「マキさん、焼き鳥はどうしますか?」

 


「そうですね」

 


 マキは焦らすようにそう言うと、おしぼりを両手を拭きながら、
 

 

「わたし、おしぼりが大好きです。
 日本ではおしぼりで顔を拭いている人がいますよね。

 


 さすがに、女性は化粧が崩れてしまうので、
 男の人、特におじさん、サラリーマンの方の独壇場ですが。
 一度、わたしもおしぼりで顔を拭きたいと思ってはいます」



 マキはおしぼりに加えて、焼き鳥が好みだと言う。

 


 居酒屋の雰囲気も好きなようで、
 先述の猫カフェとハワイにマキと誘った友人と東京での別れの席で、いつもなら短大からも近い高田馬場で済ませるところ、 
 わざわざ渋谷まで足を伸ばし、友人が一度行って気に好きになった博多風の居酒屋さんに入ったところ、鳥ではない豚もピーマンも玉ねぎも、竹に刺して焼いたものすべてを焼き鳥と呼び事に衝撃を受けたという。



「焼きおにぎりに竹を刺せば、それも焼き鳥なのかしら」

 


 友人のジョークが的を得ていて、今もマキの心に残っていると言う。

 

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 29

「わたし、吉田さんに言われた房総半島に行きたくなりました。
 行ったことがなくても、海しかないのは知っていますが、 
 何かと忙しい東京に2年間住んでいると、
 どこか日本人化したようで大都会の暮らしに慣れてしまって、
 ハワイ観光ではないですが、海風に浸り、波音を聴き、
 ぼーっと過ごすのが贅沢かなって想うようになりました」



「確かに房総半島には海しかありません。
 僕もそれほど詳しくなくて恐縮ですが、
 房総の中央部にそれほど高くはない山があるとはいえ、
 海に囲まれた半島といって過言ではないでしょう。

 


 ハワイと同じくサーフィンのメッカでもあり、
 つい先日、和田浦で知り合いになった方は地元で代々漁師を営まれています。
 それから鯨で有名です」


「和田浦と言われましたか?」


 俺は頷いた。

 


「ハワイと房総半島の和田浦が鯨で結ばれているということですね」

 


「その通りです」



「話は変わりますが、今からボウリングに行きませんか?」

 


「ボウリングですか!」

 


「2年前、短大の入学祝いに知り合いになったミャンマー人数名に誘われ、今日、待ち合わせたビックボックスで生まれて初めてボウリングを経験しました。


 
 ヤンゴンにもボウリング場はありますが、
 実際に見たことがなく、怖い物見たさに彼らに同行すると、
 ビックボックスのエレベーターに充満するほど不安を抱えながら、 わずかな時間が数分にも感じるほど長く、ようやくボウリング場があるフロアに辿り着きました。

 


 緊張感に満ちた空間から誰より早くこの場を立ち去ればいいものを、お節介なわたしは薄いオレンジ色に変色したパネル表示を見ながら、開くマークを押え、愛想笑いさえ浮かべながら、最後にエレベーターを出ました。


 わたしを待っていてくれた知人の言葉に促されるように歓声やボールやピンの音が木霊するレーンに足を進めると、
 生まれて初めて見るボウリング場は想像していたスポーツゲームというより、誰でも気楽に楽しめる娯楽施設のようで、それまで張りつめていた肩の力がぐっとやわらいでいくのが自分自身で感じられたのです。

 


 シューズを借り、右足、左足の順で足を入れ、靴紐を結び、カラフルなビニール製の椅子に腰を降ろして、辺りを見回しました。



 男女二人ずつのグループでレディファーストを拒否して、
 ミャンマー式のジャンケンで、わたしの順番は最後になりました。
 心臓が高鳴り、自分でも音が聴こえるほどで、わたしは大きく息をつきました。

 


 今更、引き返すこともできず、知人や周りのレーンの日本人の投げ方を参考に見よう見まねで黒く重いボールを抱えました。
 深呼吸して、心を落ち着け、2、3歩、足を踏み出してボールを投げてみたのですが、ボールはピンに向かって真っ直ぐ転がることなく、案の定、ガターでした」


『溝掃除お上手ですね』

 


 日本語でジョークを飛ばす、ミャンマー人の知人男性にカチンときて、睨みました。
  これでも負けず嫌いで、子供の頃から学校のテストで人に負けると、次はやり返してやるというようなわたしの性格は日本に来ても変わっていませんでした。

 


 また、わたしの番が来ました。
 前の失敗を取り返そうと、ムキになっても、足元がもつれて、
 次の投球もガター。
 その次ぎもガターで、わたしの心は沈んだままでした。

 


 考えてみれば、日本ほどスポーツが盛んでないミャンマーで、
 並の運動神経でインドア派のわたしが初めてのボウリングで上手くピンを倒せるはずがありません。


 
 開き直って、黒いボールから少しは軽い赤いボールに持ち替えました。
 両手でボールを胸元まで持ち上げ、わたしの右の手元から放たれた赤いボールはゆっくりとレーンの中央を転がり、やや右に逸れてピンに命中して、5本のピンが倒れました。
 

 ゲームが終了すると、わたしの得点は32点。
 次のゲームが37点で、その次のゲームが43点でした。


 3ゲームを通して、ストライクは取れず、スペアも取れず、
 目標としていた50点越はならず、一番多くのピンを倒したのが7本でした。
 次の機会があればと、わたしは心に秘めて、その場を去りました」



 マキのお気に入りのカフェから路地のような細道を歩いていると、停まっていたワゴン車の死角から猫が飛び出し、
 もう少しでスクーターには撥ねられるところだった。

 


 命拾いした白い猫はマキの足元で一瞬、伸びをして、
 何事もなかったように突っ走った。
 マキは正面を向いて猫の後ろ姿に魅入っていたが、視界から消えると、黙って歩き出した。


 待ち合わせたビックボックスのエレベターの中でマキと二人だけの時間と空間を味わった。
 先ほど語ったように彼女が開きボタンを押して、俺は一足先にボウリング場のフロアに足を踏み出した。

 


 来日以来、マキは年に1度のペースでここを訪れて今日で3度目になるが、俺は10年以上のブランクがある。
 最後にボーリングをしたのは高校時代で当時の様子を思い出すことできなかった。


 二人でフロントに進むと、

 


「今日は土曜日ということで30分程度お待ちいただきますが、
 それでもよろしいですか?」

 


 グレーの制服姿の若い女性から丁寧な説明があった。

 


 一瞬、マキはたじろいで、大きな眼を見開いて顔を向けた。
「それでも構いませんか?」

 


 マキの無言のまま問い掛けに、俺が小さく頷くと、

 


「はい、結構です」

 


「マイクで番号をお呼びしますから、
 この付近のフロアでお待ちになって下さい」

 


 女性から黒字で32番と記されたカードが手渡されると、
 マキは辺りを見渡し、無人の緑のシートに目を遣った。

 


「あそこで待つのはどうかしら?」

 


 俺が黙って頷くの見て、

 


「その前にお手洗いに行かせて下さい」



 マキが席を外している間、
 俺は一人で見知らぬ人々がボウリングに興じる様子を見ていた。 小学生の子供から還暦過ぎの男女まで、ストライクでポーズを決めて声を上げ、仲間の祝福を受けた。
 ガターをすれば恥ずかしげに下を向き、取って当然のスペアを外そうものなら、それ以上に悔しがった。


 
「お待たせしました、遅くなって済みません」

 


 そう言ってマキが頭を下げた瞬間、

 


「32番でお待ちのお客様、ご用意ができましたので、
 フロントまでお出でになって下さい」

 


 30分程度の時間が大幅に短縮され、マキにカードを渡した女性の声が響いた。



 フロントから指定されたレーンに足を運ぶ前にシューズを借りた。
 マキはピンクのボールに合わせ、ピンクのシューズを選び、
 ライトブラウンのローヒールの革靴から履き替えているのを横目に俺は黒いスニーカーから黒いシューズに足を突っ込み、ビニールシートに腰を降ろした。


 
「わたしからボウリングに誘っておきながらですが、
 ボウリングをするなら、わたしも吉田さんのジーンズに合わせ、 もっとカジュアルなファッショにすべきでした」

 


 そう言って、長身で細身なマキは下を向いた。



 まずはマキに順番を譲ると、1年ぶりに投げた、彼女の体力、
 筋力からすれば当然のようにピンクのボールは右のレーンからカーブなのか自然の曲がりなのか、ボールはすぐにスピードを失い、上手い具合にピンの手前でやや左に曲がり、真ん中の一番ピンから少し右にずれて当たった。

 


 ボウリング場に響き渡るような抜けるような快音というよりは、ぐしゃっという鈍い音を立てながらピンクのボールが視界から消えると、上手い具合に白い10本のピンが弾けた。
 マキは生まれて初めて、ストライクを取った。



 マキは振り向くなり、右の拳をグーの字にして勝ち誇ったような表情で笑みを浮かべ、若かりし頃のスーチー女史に似た、
 まるでミャンマーのプリンセスになったようで満更でもなそうな雰囲気に満ちていたのある。


 俺が手を叩いて出迎えると、

 


「ありがとうございます。
 吉田さんも、続いてください」

 


 マキはワンピースの裾を右手で押さえ、無機質なビニールシートに腰を降ろした。



 彼女の声援を受け、俺は重い腰を上げた。

 


 黒いボールを手に取るとずしりと足元まで響き、
 もっと軽いボールにすればよかったのも後の祭りで、
 長いプランクはどうにも隠せず、映像で確認するまでもなく、
 どうにもぎこちないバラバラのフォームでボールを投げた。

 


 黒いボールはゆっくり転げながらも溝掃除することなく、
 一番ピンを外しながら、7本倒れた。


 
 若干下を向いて、ツートーンのシートに戻ると、マキは軽く両手を叩きながら、

 


「3本残りましたね」

 


 そう言って、スコアシートに鉛筆を走らせた。

 


「綺麗なスペアをお願いします」



 シートの横のトンネルから黒いボールが戻って来た。
 そのままボールを摘まみレーンに立つと、残った3本に意識を集中した。

 


 フォームに構うことなく、右手から放たれたボールは宙に浮き、ドスンと鈍い音を立て、足元1メートル先に着地した。
 そのまま綺麗な回転で真っ直ぐに転がり、1番ピンに当たり、
 上手い具合に3本倒れて、スペアが取れた。



 笑顔を隠し、俯き加減にシートに戻ると、マキは両手を叩いてくれた。

 


「ナイス! スペア。
 さすが、吉田さんです。
 高校生以来のボウリングでも、しっかり結果を出しますね」

 


 マキが備え付けの鉛筆を持って、シートに走らせた。

 


「わたしをからかったミャンマー人の男性にスコアの書き方を教わりました。
 今年の春、大学卒業後に帰国しました数日前に届いた彼のメールには地元にボウリング場がなく、少し腕が落ちていると嘆いているそうです」



 こうして、マキと10年ぶりのボウリングを楽しんだ。
 マキは3ゲームで1ゲームに1度ずつ、都合3度ストライクを出した。

 


 日本から遠く離れた異国で決して恵まれたとはいえない環境でコツコツと日本語を学び、日本留学のチャンスを掴んだ彼女の性格を現してか、尻上がりにスコアもよくなった。
 対照的に俺のほうは2ゲーム目でストライクを2度取った切りで、ゲームもマキに勝つには買ったものの、調子の波が大きかった。


 
 マキ 82
 俺  78
 マキ 86
 俺  98
 マキ 92
 俺  83



 結果は以上で二人とも百の大台を突破することなく3ゲームのトータルでは彼女の2勝1敗の勝利である。

 

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 28

「ゴールデンウィークはどう過ごされますか?」

 


「これと言って予定はありません。
 実家は広島ですが、この時期に帰省したことがありませんし、
 部屋で録りためた映画でも観ようかと思っています。
 マキさんはゴールデンウィークにミャンマーに帰省されるのですか?」

 


「帰省したいのはやまやまですが、この時期はチケットが高く、
 わたしには高値の花です。
 代わって、本を読んで過ごします。

 


 お盆休み、正月休みと並んで、ゴールデンウィークは日本で働いている皆さんにとって貴重なお休みですからチケットが高いのは仕方ありません。

 ミャンマーへの帰省はお盆過ぎまで待つしかありません」

 


「お盆は亡くなった先祖があの世から帰ってくるという言い伝えたあるのですが、海外から日本に来られている方も何かとご苦労があるのですね」

 


「ご先祖様ですね。
 季節は異なりますが、ミャンマーにもお盆と同じような儀式があります。
 大宮の氷川神社を話題にされましたが、ミャンマーは仏教国です。

 


 仏教国とはいっても、ミャンマーは日本と同じく多宗教です。
 国民の9割が仏教徒といわれていますが、
 キリスト、イスラム、ヒンドゥーなどの宗教を信仰する人も少なくありませんし、地元のヤンゴンに限ったことかもしれませんが、これらの宗教施設を容易く目にすることができます。

 


 わたし自身は仏教徒ですが、正直に言って、それほど熱心な信徒とは言えません。
 その点、多くの日本人の方と共通点があって、
 日本の神社をお参りするのに抵抗はありませんし、すんなりと受け入れることができました」

 


「僕も仏教徒といえば仏教徒ですが、あなた同様に熱心ではありません。
 宗教に詳しくないのですが、日本には海の神様、学問の神様、
 商いの神様、戦の神様とか多くの神様が存在します。

 

 
 その元になっているのが日本固有の神道に由来している気がしてなりません。


 
 神道についての起源や歴史も、
 インド発祥である仏教が日本に入ってきた経緯も詳しくありませんが、江戸時代まで神道と仏教がそれなりに両立していたところに明治政府が介入して今に至っているようで、今日でも、お寺の中に鳥居が残っているとこも少なからずあるようです。

 


 現代の日本では葬式仏教といわれるように葬儀の時だけ、
 お坊さんを呼び、仏式で葬儀を行うことが多く、
 いわゆる神さん、神道式に葬儀を行う家庭もあれば、キリスト教もあるでしょう。

 


 それほど、人の死には人生の最大のテーマです。
 江戸時代に始まったのでしょうか、檀家制度の継続も困難になっています。



 少子高齢化でそれまで墓を守ってきた墓守の存在が危うくなって、檀家の問題はそれまで保ってきた日本人のメンタリーに多大な影響を与えなくはない。

 


 東京に出て来て驚いたのですが、
 関東の初詣は神社とは別に成田山新勝寺とか浅草の浅草寺とか、お寺にも参拝することですね。

 


 僕の地元の広島でも初詣で寺に参る地域があるようですが、
 僕の家では初詣は神社と決まっていたので、少なからずショックを受けました」



「勉強になりました。
 神社とお寺にそのような経緯があったのですね。
 わたし、明治神宮にも浅草寺にも初詣に参ったことがありますが、日本ではお寺と神社が上手い具合にミックスされて、
 特別、不思議に感じたことはありません。

 


 ミャンマー人で仏教徒のわたしはともかく、
 特に西洋のキリスト教徒はお寺と神社の区別がつかない方が多いようですね」

 


「日本人にもそのような人はいます。
 テレビかネットで拝見しましたが、
 ミャンマーの仏さんのお顔はどこかインドっぽくないですか?」

 


「そうですか?」

 


 それまで畏まっていたマキが表情を崩した。

 


「日本の仏さんも、その昔はインドっぽいお顔をしていたと、
 どこかの学者が言っていた気がするんですが」

 


「仏さまのお顔一つとっても、奥が深いんですね」


 
「一つ、聞きにくいことを伺ってもよろしいですか?」

 


「はい、何なりと」

 


 マキは頷いた。

 


「ロヒンギャについてです。
 恥ずかしい話ですが、ここ数年、ロヒンギャ問題が報道されるまで、ロヒンギャの存在すら知りませんでした。

 


 最初は日本から遠く離れた国の話で他人事というか今更感というか、民族、宗教の違いから起こる差別でしょうと。
 TVニュースやネット記事を受け流していましたが、
 難民になったり、バングラデシュに送り返されたりと、
 状況は悪化しつつあるようで、
 当事者のミャンマーの方にとっては如何なものですか?」



「何なりと言っておきながら、
 吉田さん、応えにくい所を突いてこられますね。
 とはいえ、ここではわたしなりの見解を述べさせていただきます。

 


 わたしはミャンマーでは半数以上を占めるビルマ族の一人です。 

 ミャンマーには百を越える民族が存在しますが、
 先ほどの宗教同様に言語も肌の色も多種多様です。
 ミャンマーで生まれ育ったわたしでさえも、そのすべてを申し上げることはできませんが、ロヒンギャはその中でも特別というか、一筋縄ではいかない民族です。



 ロヒンギャの人は我々多くのミャンマー人とは違い、
 インド系というかバングラデシュ系というのか、民族そのものが他のミャンマー人とは違っていますし、イスラム教徒です。

 


 ミャンマーにはロヒンギャ以外にもイスラム教徒はいますし、
 それだけなら、ミャンマーにとってロヒンギャを受け入れることは可能なのかもしれませんが、より複雑にさせているのが、
 イギリスがミャンマーを、以前のビルマを植民地化する課程で、かつてのインド、今のバングラデシュ周辺からロヒンギャを移住させたことです。

 


 ロヒンギャがいつからミャンマーに棲み着いているのか、
 はっきりとした事は不明ですが、ビルマを混乱させ、分断するためにイギリスがロヒンギャを利用したというのが定説になっています。


 わたし、特別なイギリス嫌いではないのですが、
 日本ではいざ知らず、諸悪の根源はイギリスだという説があるようにロヒンギャ問題に限らず、パレスチナ、シリアと世界を不安定させる要因にイギリスが深く絡んでいると想います。

 


 ロヒンギャの問題は軍でも、民主化の象徴として祀り上げられたスーチー女史でも、ミャンマーが解決するのは困難です。
 スーチーさん自身、イギリスと深く関わりのある人で、
 亡くなったご主人はイギリスの方ですし、二人いる息子さんはイギリス国籍のようです。


 
 詳しい事情はともかく、ミャンマー人に今も慕われるアウンサン将軍の忘れ形見のお嬢さん然としたイギリスかぶれのスーチー女史が、わたしはどうにも鼻についてしょうがないんです。
 軍が一方的に悪くて、スーチーさんやその取り巻きが正義の味方だという報道には少なからず疑問を持っています」



「ロヒンギャとは直接関係ありませんが、
 スーチーさんが着られている民族衣装は素敵ですね」

 


「それが先程申し上げた、わたしも愛用していたロンジーです」

 


「そうなのですね。
 僕はミャンマーに行ったことがありませんし、
 特別、ミャンマーが好きだとか興味がある訳でなく、
 ミャンマーの歴史も事情にも疎い日本人です。
 だからこそ、客観的に見える部分はあると思います。

 


 軍が悪で、スーチーさんが正義だという常識に疑問符が付くとすれば、それはまるでプロレスですね」

 


「プロレスですか!
 プロレスって、大きな男の人が四角いリングに上がって、殴ったり蹴ったりする競技でしょう。
 わたし、プロレスも、格闘技も、ほとんど知識も興味もありませんし、隣国タイのムエタイも何が面白いのさっぱりわかりません」



「ムエタイについての知識はありませんが、
 プロレスは競技というより、一種のエンターテイメントです。

 


 悪がヒール、正義がベビーフェイスと予め役割が台本が決まっていて、それをプロレスラーが演じ、ファン、観客と一体になって会場を盛り上げます。

 


 昨今では男子だけでなく、女子プロレスも人気を博しています。
 女の人がボクシングやムエタイやキックボクシングをするのと同じです」



「女の人が、プロレスやボクシングをするって本当ですか?」

 


「本当です」

 


「サーフィンする女性以上の驚きです。  
 本当に女性もプロレスのリングに上がるのですか?」

 


「本場のアメリカでは日本以上に女子プロレスが盛んです。
 アメリカに限らず、男女を問わず、プロレスはエンタメというより演劇の要素が強い。
 アメリカのプロレスを真似た日本では歌舞伎や映画のようにプロレスも興行だと言われる所以です。

 


 色物なのでしょうが、一部に男女混合のプロレスもありますし、アメリカでは男性プロレスに女性レスラーがマネージャー役で登場したりと賑やかですし、追って日本もそうなるかもしれません。



 ミャンマーに話を戻すと、ミャンマーの政治も裏で誰かが糸を引き、台本を書き、軍とスーチー派に分かれ、ミャンマー国民と言う名の観客や世界に向かって演じている、発信し続けている。
 そう俯瞰してみると、以外に解決策が見つかるのかもしれません」



「わたし、さほど政治に関心はありませんが、
 軍もスーチー女史もお互いに意地を張り合って、
 がんじがらめで身動きがとれない状態です。

 


 それでも少しは動かないと、せめて動いているふりでもしないと、人権にうるさいヨーロッパやアメリカからの経済制裁は続きます。

 


 事の張本人であるはずのイギリス政府やBBCをはじめとするマスコミも、自分たちのやった過去を棚に上げ、どの口がミャンマーを非難するのかと。

 


 わたしに限らず、多くのミャンマー国民の心情を逆なでしているのが現状です。

 


 その点、日本はいいですね。
 日本政府も民間もロヒンギャを政治問題化にしません。
 ミャンマーを非難もしません。
 わたしが日本に惹かれた一因があるかもしれません。
 ロヒンギャで煮詰まってしまったので話題を変えていいですか?」

 


 俺は黙って頷いた。

 

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 27

「わたしにコーヒーを勧めてくれた日本人はハワイへ一緒に行った、卒業旅行に誘ってくれた短大の同級生です」

 


「お友達は大阪の方ですね」

 


「よくご存じですね」

 


「新宿のカフェであなたが言われたことを覚えていただけです」

 


「彼女は今は地元の大阪で、旅行会社の新入社員として研修を受けています。
 仕事を終え、帰宅してからも、会社で渡されたテキストを覚えることに必死で、ゴールデンウィーク明けにはお客様を交えた実践教育が待っているそうです。

 


 彼女との電話やSNSでのやりとりは欠かさないまでも、
 短大卒業後、彼女が東京を離れてほぼ1ヶ月が経ち、
 それまで学校で毎日、休みの日も何かと顔を会わせいた友人の顔を見れないのは辛いですね。



 ミャンマーを離れる時も同じでしたが、こうした別れを経験して、 人は大人になっていくのでしょう。
 頭ではわかっているつもりでも、感情が追いつきません。
 湿っぽい話はこれくらいにして、彼女と行ったハワイの記念にホテルの近くで鯨のキーホールダーを買いました」

 


「マキさんもですか?」

 


「ええ!
 吉田さんもですか?」

 


 いつもは冷静沈着でクールビューティなマキが珍しく人懐っこい笑顔を見せ、今現在、使っている鯨のキーホールダーをテーブルの上に乗せた。



「マキさんに似て可愛いですね。
 僕は買っていませんが、房総の館山で知り合った日本人の漁師さんとフィアンセもお持ちでした。

 


 ホテルであなたにお会いする前にマウイ島のホエラーズビレッジで日本人のご夫妻と偶然お目に掛かり、それきりになっていたのですが、先日、満開の桜に包まれる大宮の氷川神社で再会する機会をを得ました。

 


 マウイでは席を外していた娘さんがマキさんと同じく鯨のキーホルダーを買われて、ペアの一片を贈った婚約者の方が和田浦で出会った漁師さんで、彼と懇意になって、その日、誘われました」



「鯨とお花見が縁ですか。
 わたしは鯨もお花見も好きですが、
 鯨とイルカの区別がつないわたしが知っていることといえば、
 アンダマン海とベンガル海に挟まれたわたしの母国のミャンマーで鯨とイルカの中間種のような哺乳類が海から川に上ってくることくらいでしょうか。
 それでも、大きな鯨と可愛いイルカには惹かれます。



 よく日本人は日本は小さな国だと謙遜しますが、
 わたしのような外国人からすれば、
 ミャンマーを、以前のビルマを我が物にしたイギリスが七つの海を支配したように四方を海に囲まれた島国日本は世界有数の海洋国家だと思います。
 それで、鯨もイルカも日本の近海に集まってくるのですね。

 


 わたし、鯨もイルカも実際に目にしたことはないのですが、
 桜なら何度も観ています。
 わたしが留学のために来日したのが2年前の3月25日で、
 その時、東京はどこもかしこもソメイヨシノが満開でした。



 短大の入学手続きやアパートへの引っ越しなどで目が回るほど忙しく、都内の桜の名所に出向くことはできなくても、
 アパートと短大の近くや高田馬場近辺の何気ない場所に植わる桜の木々の幹先に垂れる花びらの甘酸っぱい香りに魅入ってしまいました。

 


 ミャンマーに住んでいる時から噂には聞いていましたが、
 実際に自分の目で見てみると、一言では言えない、何とも言えない気分になって、これから日本で2年間暮らしながら学ぶのだなと、短大に入学する前に気持ちを新たにしました。


 
 2年の猶予がさらに伸びて、これから2年間は大学で学びます。
 大学卒業後、日本に残るのか、ミャンマーに戻るのか、
 まだ進路を定めていないのですが、
 それもこの1年ではっきりさせなければいけません。

 


 わたしは日本文学を専攻する学生ですが、日本で文学に関わる仕事に就くのは至難の業です。
 日本人でさえ大変なのに、わたしは日本に住む留学生のミャンマー人。


 ご存じのようにミャンマーは東南アジアの貧しい国です。
 シンガポール、マレーシア、タイ、ベトナムなどとASEANという共同体に属していますが、ミャンマーは軍政の国です。

 


 途上国にありがちですが、実家が貧しく優秀な人は軍人になることが多く、軍には親に経済的な負担を掛けることなく出世できるメリットもありますが、あまりに厳しい軍政のせいでEUやアメリカから経済的な制裁を受け、その隙を突いて、経済発展目覚まし中国が忍び寄ってきました。


 
 日本は中国と欧米諸国の緩和剤のようにミャンマーに接してくれました。
 軍も馬鹿ではないので、世界的に著名な囚われの身のスーチー女史をとりあえず解放して、軍が勢力を握った形で選挙を実施しました。

 


 そうすると、ミャンマーが少しでも国を開いたかのように感じた、 日本をはじめとする先進諸国からの投資熱が高まり、
 鎖国状態のミャンマーでも、お金さえあれば、いろん物が手に入るようになりました。
 それがわたしの子供時代から思春期に起こった出来事です。



 外国から人や物が入ってくるようになると、それまで等しく貧しかったミャンマーでも、社会の変化に上手く取り入ってお金持ちになる人がいる一方で、貧しい人は貧しいままです。

 


 ミャンマーにはお金もなければ、技術もありません。
 インフラも足りなければ、教育も足りなければ、
 わたしのような若い人が多いだけで人材も足りていません。
 投資もお金も技術も外国に頼より切っているのがわたしの国の実情です。

 


 それまで首都だった最大都市のヤンゴンを一歩出れば、五十年前、 百年前の人々の暮らしを目にするといっても過言ではありません。


 
 わたしが育ったヤンゴンの家庭は目に見えて豊かになったとはいえないまでも、食べる物には事欠きませんでした。
 少し余裕のある家庭では子供の教育に熱心で宗主国だったイギリスの影響もあって英語を習わせる事が多いのですが、
 わたしは日本に惹かれ、日本語を学びました。

 


 きっかけは、ご多分に漏れず、日本のアニメであり、日本の漫画でしたが、わたしはアニメや漫画に飽き足らず、日本の小説を手にしました。



 いろんな小説を読みましたが、最も惹かれたのが、太宰治です。
 太宰の女生徒を読んで、わたしの太宰熱と日本熱は頂点を迎えました。
 太宰治の女生徒を読んだことがきっかけとなって、
 わたしは日本留学に漠然と憧れるようになりました。

 


 わたしも、日本の東京で女生徒として暮らしてみたい。
 とはいっても、日本に憧れ、留学を夢見てみていても、現実は追いついてきません。
 わたしが暮らしていたのは日本の東京ではなくミャンマーのヤンゴンだからです。

 


 成田から直行便に乗れば、7時間で着くと言われるかもしれませんが、当時は直行便など存在せず、ミャンマーから眺める日本は月ほどに遠い存在でした。

 


 遠く離れたミャンマーの夢みる少女が日本に留学するなど月旅行どころか宇宙旅行を夢想するようなものかもしれませんが、
 わたしは夢を諦めることができませんでした。

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 実際にどうしたら日本に留学出来るのか、周りに教えてくれる人もなく、もんもんと日々を過ごしていたのですが、
 ある日、ネットサーフィンしている最中に偶然、わたしの留学を受け入れてくれた短大のサイトを目にしたのです。
 それから、何かに取り憑かれたようにすんなりと物事が運びました。

 


 短大の担当者と日本語でメールのやりとりをする傍ら、
 目標が生まれたことで、それまで通っていたミャンマーの日本語教室の勉強も熱を帯びました。



 1年後、わたしは日本に出向くことなく、住んでいたヤンゴンで短大の留学試験を受ける機会を得ました。
 これが、ミャンマーのヤンゴンで日本留学を夢見ていたわたしの物語です。
 そして今こうして、あなたの目の前にわたしがいます」


 
 そう言うとマキは秘めた思いを打ち明けたかのようにすっきりとした表情でしばらく窓の外を見ていた。

 

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   26

 4月も半ばを過ぎて、新宿で別れたマキからメールが届いた。



「吉田さん、ハワイのワイキキビーチのホテルで出会った、

  ミャンマー人のマキです。
 月日が経つのは早いもので、新宿で偶然お会いしてから2ヶ月余りが経過しましたが、如何お過ごしですか。
 一時の夢を観せてくれた桜はなごり惜しくとも、
 来年の春には再び人々の前に可憐な姿を現すことでしょう。


 
 わたしの事などすっかりお忘れかもしれませんが、
 千葉の大学の文学部の3回生に無事に編入手続きを済ませました。

 


 西武新宿駅に直結するカフェであなたにアドバイスされたようにこれまで同様に西武新宿沿線に住んで千葉まで通学しながら、
 新しい環境で学園生活を送っています。
 所用時間は1時間半です。


 もっと早くご連絡しようと思っていましたが、
 何かと用事が立て込んでいまして、それどころではありませんでした。

 


 そう書けば失礼なのを承知していますが、
 どうにか大学生活に慣れて少しは落ち着いて日々を過ごせるようになり、ご連絡した次第です。


 
 不躾なお願いですが、
 よろしかったら、近いうちにお目にかかれないでしょうか。
 日時はあなたにお任せします。
 平日の夜でも、土日でも、あなたがお住まいになっている船橋でも、都内でも構いません。
 メールを頂けると幸いです」
  
                        マキ


 すっかり忘れていたというより、あれきりの出来事だと観念していたので、戸惑いを隠せないまま、帰宅直後にメールを読んだ。
 部屋着に着換え、コーヒーを飲んで頭の整理をしながら、
 1時間後にメールを返した。


「マキさん、メールありがとうございます。
 お久しぶりです。
 忘れるどころか、あなたをはっきりと覚えています。
 あなたに初めてお会いしたのがワイキキビーチ側のホテルでした。

 


 帰国後、新宿の紀伊國屋で再会して西武新宿駅まで歩いて駅に隣接するカフェで話したのを昨日のことにように思い出しています。



 大学編入おめでとうございます。
 日本文学を学んでいると仰っていましたが、間違っていたら御免なさい。 

 


 今まで通りに西武新宿沿線にお住まいなのですね。
 僕も相変わらず、西船橋に住んで都心まで通勤しています。
 近いうちにお会いする案件ですが、僕は西船橋でも都心でも結構です。

 


 それではお会いできる日を楽しみお待ちします」

                       吉田和彦


 マキとメールのやりとりした翌週の土曜日の午後2時、
 ゴールデンウイーク前に高田馬場で待ち合わせた。


 天気の良い昼下がり、
 待ち合わせのビックボックス前に5分着くと、レモンイエローのワンピース姿のマキがスマホに目を落としていた。

 


「遅くなって済みません」

 


 俺の声を聞いて、マキが右手にスマホを持ったまま顔を上げた。

 


「いいえ、わたしもたった今、着いたばかりです」

 


「ジーンズお似合いですね。
 来日してたしもジーンズを履くようになりました。
 通学やバイトに最適ですし、日本ではジーンズもカジュアルなファッションもお手頃な価格で手に入って重宝しています」

 


「ミャンマーではどのようなファッションだったのですか?」

 


「ミャンマーの伝統的な衣装のロンジーが好みでした。
 スカートのように腰の上から巻き付けるロングスカートの物ですが、女性だけでなく、男性用もあって、多くの国民が身に付けています」


「TVかネットで観たことがあります」

 


「そうですか。
 今日はわざわざ高田馬場までお出でくださってありがとうございます」

 


「西船橋から地下鉄東西線で一本で来れますから、
 僕にとっても高田馬場は都合がよい便利な場所です」

 


「そう言ってもらえると助かります。
 4月に大学に編入してからは地下鉄東西線の西船橋でJRに乗り換えているのですが、駅で降りたことないので、あなたがお住まいの西船橋はどのような街なのか頭の中で想像しながら、
 グーグルマップを見て、頭の中で駅からお店に立ち寄ったり、
 ネットで賃貸物件の検索もしています。
 とりえあず、カフェに参りましょう」



 マキに連れられ、表通りから細い路地を一本入った近くのカフェに入った。
 それほど広くない店内に入ると、マキは勝手知った他人の家のように若い女性店員に目配せして、通り沿いの窓の側のテーブルに目を遣り、俺に座ることを促した。




 二人で面と向かって腰を降ろすと、マキは大きな眼を見開いた。
「お昼はお済みですか?」

 


「遅い朝食を兼ねたお昼を食べて部屋を出ました。
 休みの日は寝たいだけ寝ていますが、
 今日はあなたとの約束があるので10時に起きて、
 トースト、コーヒーの朝食兼お昼の後、髭を剃り、歯を磨いて、音楽を聴いてくだくだしていたらお昼過ぎになっていました」

 


「どのような音楽がお好きですか?」

 


「何でも聴きますが、主にロックです。
 最近はルーツミュージックという、ロックのルーツになっている黒人の音楽に嵌まっています」

 


「そうなんですね。
 わたし、音楽には詳しくないのですが、
 大学に通う日も、休みの日もいつも同じ時間に起きて、
 食事や家事の合間にスマホのアプリでJポップや洋楽を主に聴いていますが、ミャンマーが恋しくなると、地元の音楽を聴くこともあります。



 今日は朝から洗濯機を回し、洗濯物をお風呂場に干して、
 お昼を食べて、こちらに参りました。
 部屋に小さなベランダが付いているのですが、
 自宅があるミャンマーのヤンゴンなら構いもしないのですが、
 さすがに東京ではベランダに下着を干す勇気はありません。

 


 来日以来、わたし、このカフェが入っています。
 昔ながらの日本の喫茶店の良さにモダンさが加味されたようで、とても心地良いのです」


 新宿で再会した時はハワイの名残が残っていたのかもしれないが、 マキの顔色が日本風のメイクのせいか、随分、白くなっている気がしてならなかった。

 


 先ほどの店員さんがオーダーを取りに来ると、 
 マキはメニューも見ずにドリップコーヒーを注文した。
 俺も同じドリップコーヒーを頼んで、店員さんが下がると、
 マキが語り始めた。


「わたし、スタバに行くと、何故かしら落ち着けないんです。
 ミャンマーにスタバが進出していないせいかもしれませんが、
 わたしが日本にいる間に進出しているかもしれませんが、
 わたし、日本でスタバを初めて経験しました。
 


 人に誘われ、何度か行ってみても、どうにも慣れないので日本の喫茶店にしたり、ミャンマー人の溜まり場にしたりと、
 いろいろと試してみたのですが、何度行ったことがある、あなたと伺った西武新宿駅のカフェも良いのですが、このお店が一番しっくりします」



「僕は家で飲むコーヒーもコンビニのコーヒーもカフェのコーヒーも同じような物だと割り切っていますが、
 マキさんはカフェにもいろいろと拘りがあるんですね。
 ホノルルで泊まっていたワイキキビーチのホテルのすぐ近く、
 ABCの隣にスタバがあったのを覚えていますか?」

 


「はい」

 


「入られました?」

 


「いいえ、怖くてとても入れませんでした」

 


「それはまたどうして?」

 


「先ほど申したようにスタバでは落ち着きません。
 それは東京もハワイも同じではないでしょうか。

 


 それでも、怖いもの見たさで通りから店の中を覗いてみると、
 水着姿で足を組む白人女性がいたりで東京のスタバ以上に観光地という雰囲気がビンビンと感じられて、とても中に入れませんでした。


 マキは店員さんが持ってきたコーヒーをブラックのまま口を付けた。

 


「正直言って、わたし、コーヒーの味なんてわかりません。
 ミャンマーにいた頃は紅茶が好きで家でもお店でも紅茶ばかり飲んでいましたが、日本に住すんでからは日本人や外国人を真似て、ファッション感覚でコーヒーを口にする自分に驚いているくらいです」

 


「そうなんですね」

 


 マキにそう言われて、俺もコーヒーに口を付けた。

 

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 25

 氷川神社の鳥居の前から本殿まで5人で連れ添った。
 本殿前でまずは結婚間近のお二人から首部を垂れて、次ぎに御両親、最後に俺の順で神事を済ませた。


「これからの予定ですが、まずは大宮公園の桜を堪能しましょう。
 妻と娘が弁当を用意しています。
 美味しい料理を味わい、桜の木の下で散りゆく桜を愛でるのも風情ではないでしょうか。

 


 日本人に生まれてよかった。
 両親や祖父母から受け継いだ感性をこれから家庭を持つ若い二人に受け継いてもらえたらと思うのが親心でしょう。

 


 食事を終えたら、わたしの知人が一役買ったオペラ、
 フィガロの結婚を観賞する予定になっています」

 


「オペラですか?」

 


 思わず、俺の口から出ていた。

 


「僕も2日前に葵さんから聞かされたばかりで、
 ご連絡しなくて、申し訳ありません」



「吉田さん、何も難しく考える必要はありません。
 モーツアルトのオペラですが、
 喜劇でも観るつもりでどんと構えてもらって結構です。

 


 わたしもオペラ鑑賞の初心者の一人ですが、
 オペラは歌を聴けばよい、そう割り切ることです。
 吉田さん、野球はお好きでしょうか?」

 


「地元の広島カープを贔屓にしていますが、
 熱烈なファンとまでは言えません。
 広島を離れ、神宮球場で二度三度、杉並から船橋に移ってからは交流戦で一度、千葉マリンで観ただけです。
 高校野球、アマチュア野球はさっぱりです」

 


「一度でもカープの試合をご覧になったことがあれば、
 わたしども家族と同じく、立派なカープファンです。
 カープの赤い血が流れています。

 


 神宮球場は勝敗に関わらず、言葉にならない開放感があって、
 明治神宮が所有するだけのことはあります。
 神宮は広島のマツダスタジアムに次いで、日本で2番目に素晴らしい。
 とてもじゃないが、東京ドームで愛するカープの試合を観ても楽しくはない。


 
 勝った時はともかく、負けると地獄です。
 読売の上から目線ファンの怒声が吐き気を催すほどおぞましい。
 2度と足を踏み入れたくはない。

 


 読売の選手もファンも見たくありません。
 吉田さんがカープファンなら話は早い。
 オペラは野球と同じく、難しく考えても無駄です。



 一昔前にIT野球、頭で考える野球が持て囃されましたが、
 草野球もやらない素人ですが、所詮、野球は点取りゲームです。

 


 ピッチャーがボールを投げないとゲームが始まらない。
 バッターは来た球を思いっきりひっぱ叩く。
 何も考えずに楽しんだ子供の頃の草野球が原点です。

 


 いくら考えてところで、体力、技術がない頭だけの野球はスタンドの素人だけで充分です。

 


 野球も音楽もプレイすると言うでしょう。
 野球も音楽も楽しみながらやるべきところを、
 明治以降、日本に輸入されたスポーツと日本の武道や学校教育がごちゃごちゃになって、今では金儲けの道具に成り下がっています。


 
 今回はフィガロの結婚ですが、オペラの主要なテーマが恋愛や色恋沙汰ですから、歌を聴いて、歌い手の身振り手振りをみていれば、言葉がわからなくても大抵のことはわかります。

 


 吉田さんも、好きな音楽がおありでしょう。
 お若い方のお好きなロックでもポップスでも構いませんが、
 どんと大きな船に乗ったつもりで二人の結婚を祝福して、
 フィガロの結婚を楽しんで下さい」



 葵さんのお父さんのお言葉を受けて、開き直るしかなかった。
 オペラを鑑賞したことはない。
 オペラどころか、ミュージカルも、学生演劇、アングラを含めて、演劇と名の付くものに縁はない。


「吉田さん、
 お義父さんが言われたように、難しく考えることはありません。

 


 僕もオペラ鑑賞は初めてなので物は試しに昨日、
 ユーチューブでフィガロの結婚を観てみたのですが、
 とはいっても、長くて随分端折りましたが、
 オペラは祖父と話されていたプロレスと同じです。

 


 ブック、台本があって、ベビーフェイス、対するヒールがいて、それを役者なり、プロレスラーが演じる。
 そう思えば、どうってことはない。

 


 映画やドラマより、多少派手な演出や衣装はありますが、
 オペラもプロレスも同じです。
 台詞や身のこなしが大袈裟な分、一脈、プロレスに通じるところがあって、ハッピーエンドが待っています」



 柳本さんにそう言われて、幾分気が楽になった。
 本殿を通りを過ぎ、埼玉県有数の桜の名所である大宮公園のソメイヨシノを愛でながら、柳本さんと葵さん、御両親と一緒になって、美味しいお弁当をご馳走になった。

 


 車を運転される葵さんのお父さんと柳本さんが居られるためビールの代わりに、ハワイのコーヒーと狭山のお茶で喉を潤し、

   オペラ会場に向かったのである。

 


 
 開演30分前に会場前の駐車場に2台の車を駐め、大学の別棟のような入場口で、葵さんのお父さんが5枚分のチケットを差し出すと、
 一人一人に簡単な手荷物検査があって、パンフレットを渡された。
 館内に入り、男性陣、女性陣に別れてトイレに寄った。

 


 ステージに向かって階段を降りると、ステージから中段のやや右側の指定席で中央側から葵さん、柳本さん、お母さん、お父さん、俺の順で並んで座ると、既に開演10分前。
 ざっと場内を見渡すと、収容人数7百人ほどの会場がほぼ満席である。


 
 ブザーが鳴り、照明が落とされ、館内がシーンと静まりかえると、ステージの左端にオレンジ状の照明が灯り、
 スーツ姿の女性司会者がマイクを持って現れた。

 


 本日の来場に謝意を述べるとともに、
 まずは、これから上演される『フィガロの結婚』の概略ならびに出演者である指揮者、オーケストラ、役者の紹介が始まった。


 本日のフィガロの結婚はイタリア語オペラのため、
 ステージ右に垂らされた白い幕状に日本語訳が表示されますので、ご参考になって鑑賞して頂けると幸いです。

 


 彼女がステージから姿を消すと、入れ替わりに男性とステージから一段下がったオーケストラピットの楽団員が姿を現し、モーニング姿の指揮者が観衆に向かって一礼した。



 一幕はあっという間だった。
 葵さんのお父さんが言われたように演技うんぬんより、
 役者の発する歌声に聴き入り、オーケストラの奏でる音に耳を傾けた。

 


 ステージ上の役者の身振り手振り、入れ替わり立ち替わりする役者とセット。
 白い幕に映る日本語訳に目を移し、誰が誰で、誰が主役なのかと観察しながら、大柄な男性のバスなのかバリトンなのか、低い声。

 


 なにぶん知識なく、ただただ迫力のある響く声に耳を傾けたながら、フィガロの結婚のタイトルそのままに主役のフィガロが結婚して、柳本さんが言われたようにハッピーエンドが待っているのだろう。


 フィガロがプロレスのベビーフェイスとすると、タッグパートナー、結婚相手がスザンナで、彼女のソプラノに若干、戸惑った。

 


 何を隠そう、女性や子供の高い声が苦手で、音楽は歌物に限らず、9割以上は男性のアーティストを嗜好しているのである。
 スザンナににちょかいを出す伯爵がこれまた低い声のヒール役で、男のような女のような小姓のケルビーノが得意の喉を披露して、医者、音楽教師、女中頭の脇役たちがドタバタと絡んだ。



 20分間の休憩でトイレを済まし、パンフレットに目を通すと、
 目の前で繰り広げられた舞台を活字上でざっくりと再現した。
 ブザーが鳴り、2幕が開いた。

 


 伯爵夫人が登場する。
 夫人は小間使いのスザンナに手を出そうとする伯爵の心に悩みを打ち明けるが、舞台に役者が入れ替わっている間に奥の部屋に隠れていたケルビーノが窓から飛び降りた。 

 


 酔いどれの庭師が現れて、ケルビーノの異変を匂わせているが。
 早いもので、第3幕もフィナーレを迎えているようで、出演者総出の大合唱。



 幕が閉じ、幕とステージの狭い合間にフィガロ、スザンヌ、伯爵、夫人の4人が姿を現して、観客に感謝の表情を現し、お辞儀してステージから去った。

 


 オーケストラの演奏だけでは眠っていたのかもしれないが、
 ステージ場から発せられる、男であれ女であれ、ソロであれ、
 合唱であれ、歌の力は凄まじかった。
 長いようで時間を感じさせないのは流石だった。

 


 フィガロの結婚の舞台が終わり、オペラの余韻に浸りながら客席を離れ、会場の外に出ようとすると、衣装を着けたままの役者が待ち構えていた。



 ケルビーノ役はやはり女性だった。
 歌声でわかっていたとはいえ、近くで目にすると意外に大柄で、これなら男としても充分だなと、一人にやけて外に出ると、
 柳本さんが声を掛けた。

 


「お疲れ様でした。
 これから、葵さんのお宅に向かいますが、
 吉田さんもいかがですか?」

 


「ありがとうございます。
 でも、明日は仕事なので、これで失礼します」

 


「そうですか、残念ですが、無理を言ってもご迷惑を掛けるますから、駅までお送りします」

 


「ありがとうございます」

 


「大宮駅でよろしいですか?」

 


「お願いします」



 葵さんには今日初めてお目にかかり、
 御両親にはマウイのホエラーズ以来の再会が叶ったこと。
 氷川神社での桜と葵さんとお母さんのお弁当を頂いたお礼と最後にオペラの感想を述べた。

 


「5月の結婚式に吉田さんをお招きしたのですが、
 既に招待客を締め切っていますので、ご了承下さい」

 


 柳本さんが深々と頭を下げた。



「とんでもありません。
 今日はお招き頂いてありがとうございます」 

 


 俺も頭を下げた。


「一つ質問があるのですが、よろしいですか?」

 


 お父さんが自分という顔で右の人差し指を胸に向けて頷くのを確認しながら、

 


「オペラの出演者はプロでしょうか?」

 


「素晴らしいご質問ですね。
 全員、アマチュアです。
 とはいっても、指揮者の大学の先生を除いて、
 オーケストラのメンバーを含め、
 プロを目指す予備軍の大学生、大学院生です。
 それでチケットが格安の千円になっています」

 


「ありがとうございました」



 もう一度、葵さんと御両親に頭を下げて、
 柳本さんのエクストレイルに乗り込んだ。

 

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 24 
        
 土曜日の午前11時、大宮の氷川神社で柳本さんと待ち合わせた。
 西船橋で吉田さんをピックアップしますと、柳本さんの有り難い申し出をお気持ちだけ頂くことにして、俺は電車で大宮に向かうことにした。



 IKEA目指して南船橋に向かって以来の武蔵野線であるが、
 休日の気分転換のはすが平日の都心方面真っ青の満員電車に巻き込まれた。
 プラットフォームに足を踏み込んだ瞬間、
 山のような人だかに臆することなく、俺は車内に体を押し込んだ。

 


 周りを窺うと、何のことはない乗客の大半は中山競馬場に向かうファンのようで若者から還暦過ぎの男性に混ざり、 
 女子大生からアラフォーくらいまでの女性と少なからずのカップルも含まれ、西船橋の次の船橋法典でほとんどの乗客が降りた。
 胸を撫で下ろしながら、長椅子に座り、そのまま目を閉じた。



 この日の中山競馬場でのレース開催を知っていれば、
 わざわざ競馬ファンで溢れる電車に乗ることなく、
 同じJRを利用して時間も料金も対して変わらない秋葉原方面の総武線に乗っていたはずだ。

 


 数分、満員電車に巻き込まれたとはいえ、
 それさえ過ぎてしまえば、房総半島を旅するような空いた電車で、線路沿いに落ちたソメイヨシノの花びらに目を落とした。


 
 11時前5分、氷川神社の鳥居の前に辿り着くと、紺のスーツ姿の柳本さんと同じく紺のスーツ姿のフィアンセと和装の御両親が勢揃いされていたのである。

 


 俺は他人の目線で自分の身なりを振り返った。
 紺のスーツにネクタイ、黒の革靴とはいかないまでも、
 焦げ茶色のジャケット、厚手のチェックのシャツ、
 黒のジーンズと色を揃えたスニーカー。
 柳本さんのフィアンセと御両親の前に、様子を窺いつつ、
 カジュアルながら、自分なりに頭を悩ませた出で立ちにひとまず、胸を撫で下ろした。


「遅くなりまして、申し訳ありません」

 


 俺は頭を下げた。

 


「僕たちも2分前に着いたばかりです。
 こちらは、僕の友人で吉田さんです」

 


「はじめまして、吉田と申します」

 


 俺はもう一度、丁寧に頭を下げた。

 


「こちらは僕のフィアンセの吉田葵さんと御両親です」

 


「はじめまして、吉田葵です」

 


 フィアンセは長身細身でモデルのような容姿で時や場所が許せば、つい見蕩れてしまうところであるが、そうも言ってもおられず、ご両親と葵さんに頭を下げた。



「吉田さんと言われましたか」

 


 フィアンセのお父さんが声を掛けた。

 


「はい」

 


「初対面で失礼ですが、吉田姓はどこにでもいますから、
 遠縁ではないでしょうが、どちらのご出身ですか?」

 


「広島です」

 


「実はわたしども夫婦も広島の人間で、
 広島駅から東へ、呉線伝いの小さな港町が地元です」

 


「僕は山口県と境の近い小さな町の出身です」

 


「このような所で広島の方とお会いするのは奇遇ですが、
 これも何かのご縁です」



 葵さんのお父さんに続いて、お母さんが尋ねた。

 


「人違いだったら御免なさい、
 吉田さん、どこかでお会いしませんでしたか?」

 

 

 俺は御両親の表情を伺い、想像力を働かせた。

 


「もしかですが、1月末、マウイ島のホエラーズビレッジの鯨の標本の前でお会いしたような気がします」

 


「その時期、吉田さんもハワイに行かれていたのですか?」

 


 お母さんの声に俺は頷いた。

 


「思い出しました。
 葵が買ったばかりのお土産を忘れ、ショップに戻っていた時ですね」

 


「そういえば、そういうことがありました」

 


 葵さんが思い出したいように言って、
 ジャケットの右ポケットから鯨のキーホルダーを取り出した。
「あの時、買ったペアのキーホルダーです」

 


「ハワイから帰国した葵さんに貰った同じ物を僕も持っています」 そう言う、柳本さんの言葉で思い出した。
 
「今年の1月、フィアンセは家族旅行で好きになった思い出のハワイ、オアフ島、マウイ島に両親と出掛けていました。
 結婚して落ち着いたら二人でハワイに行く予定です」



「やはり、あの時の方ですね。
 ホエラーズビレッジのバス停の前で、
 空に浮かぶような鯨の骸骨のすぐ下で、
 わたしがどちからお越しですか? と尋ねたら、
 ラハイナですと言われて、面白い方だと。

 


 あなたのを姿が見えなくなって、失礼ですが、
 わたしと主人は思い出したようにクスクス笑っていました。
 普通、日本人なら、東京から来ましたとか大阪から来ましたと言うところ、マウイの港町を口にする方は珍しいかなと」



「あの時、僕は焦っていました。
 朝早く、バスでホノルル空港まで行って、予約したのは小さなエアラインで、メインのハワイアンから5分も10分も離れた駐機場まで歩いて、ようやくそれらしき場所を発見した時は心底ほっとしました。

 


 掛りの人は親切で予約した便を一便早くしてくれてラッキーでしたが、僕を待っていたのはプロペラの小型機でした。
 大丈夫かなと想えるほど小さな機体は大きな音を立ててプロペラを回し、滑走路を走り出しました。


 
 上空に舞い上がると、それまでの不安が一気に解消すべく、
 機内のからの景色は素晴らしかった。
 高度数百メートルから映し出されるホノルル港、アロハタワー、ミニチュアカーのように小さな車が貼り付いていように見える。


 
 ホノルルの街並み、鮮やかな海色に染まったワイキキビーチ、
 泊まっていたホテルはという具合に絵巻物のように、
 映写機から映し出される至極な映像美に目移りして、
 最高の景色の一枚の写真を撮ることなく、やり過ごすうちにマウイ島の名前も知らぬ小さな空港に着いていました。

 


 タクシーでラハイナのホテルに着くまでは順調でしたが、
 ホテルを出てマウイ島周遊の旅に出ようとして、
 バスを乗り違え、もう一度バスを乗り換えて、ホエラーズビレッジでバスを降りて、御両親にお会いしたのです」



「そんな前触れがあったのですね。
 吉田さんとお会いした直後、戻ってきた葵にたった今、
 こんな日本の方にお会いして、と、話が弾みました。

 


 翌日、家族3人でお会いしたホエラーズビレッジからタクシーに乗り、名前も知らないと言われた小さな空港からプロペラ機に乗り、吉田さんが機内から眺められた真反対の風景を親子3人で眺めながら、ホノルル空港まで飛びました。

 


 ホノルルで大きな飛行機に乗り換えて、成田に向かいました
 わたしはこれまで何度かプロペラの小型機に乗ったことがありますが、初めての方はこれに乗って大丈夫かな想われるでしょう。

 


 わたしどもはホノルルからマウイまではマウイのメインのカフルイ空港を利用したのですが、復路はマウイ発はホテルから近いカパルア空港を利用しました」



「僕は真逆でした」

 


「お話が弾んでいるようで恐縮ですが、そろそろ、氷川神社に参りませんか」
 柳本さんが切り出した。

 

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 23

「プロレスで思い出しました。
 ハワイのマウイ島を巡るバスの中で、日本で大人気だったアメリカ人プロレスラー、スタン・ハンセンのそっくりさんを見掛けたました。

 


 大きな体を持て余すように狭いバスの中で駄々をこね、 
 バスの乗客に薄汚れたジーンズ姿で半ケツを見せながら、

   女性運転手に悪態をついて、仕舞いにはバスから強制的に降ろされました。

 


 半ケツのスタン・ハンセンは自慢のテンガロンハットも被らず、女性運転手に必殺技のウエスタン・ラリアットも見舞わず、
 凶器ともなり得る左腕に巻いた黒いサポーターを披露することなく、お得意のお叫びを上げることなく、マウイ島のバスの中のリングから負け犬のように逃げ去りました。



 半ケツのスタン・ハンセンはエリートだったのかもしれませんが、地球上から恐竜が絶滅したように911、リーマンショップと続いた社会の激変に付いていけず、弱肉強食の荒波に放り出されたのでしょう。
 最初から勝者は決まっていながら、誰もが敗者になってしまう、よく言われる、グローバリズムに僕はうんざりしています。



 この1月にハワイを訪れ、日本人観光客が押しかけるホノルルのあるオアフ島とアメリカの金持ちの御用達のマウイ島を訪れたのですが、マウイ島を周遊するバスに乗り、足を止めたショッピングモールのホエラーズビレッジに和田浦の道の駅同様に鯨の模型が展示され、そのすぐに近くにセレブ用の別荘、マンション群が並んでいました。

 


 その昔、辺りは地元民であるハワイの人達がのんびりと暮らしていたのですが、今はセレブ御用達となっていて、バスの中から覗いてみたのですが、どこか素晴らしいのか今一つピンときませんでした。


 
 マイクロソフトのビル・ゲイツに代表される世界的な大富豪と日本の庶民では懐工合も感覚も違い過ぎて、到底比較できませんが、 彼ら世界的なセレブにとって日本人に人気のホノルルがあるオアフ島より捕鯨の基地として栄えたマウイ島のほうが良いのでしょう」


「帝国海軍に襲われた真珠湾のあるオアフ島より捕鯨で栄えたマウイ島のほうが、ビル・ゲイツに代表されるアメリカのセレブにとって居心地が良いなんて、ハワイに行ったこともないのにその気にさせるのが面白いですな。

 


 ゲイツといえばお忍びでたびたび日本にも来ているそうで、
 孫子の代はおろか、千年も万年も寝て暮らせるほどに稼いで、
 まだ一儲けしてやろうと企んでいるのでしょうか。
 ただの観光とも想えません。

 


 そのビル・ゲイツですが、軽井沢に別荘があるやなしやのネット住民の囁きに、いい年をしたわしも首を突っ込むのですから、
 ネット中毒の走りかもしれません。



 これもそれも、世界中にネット社会を拡散させたビル・ゲイツのせいにしておきましょう。
 今から30年以上前の昭和の終わりの出来事ですが、
 吉田さんも、直哉も生まれる前の昔話ですが、詳細はともかく、今でも時折り、取り上げるマスコミもありますのでご存じでしょう。

 


 羽田空港から伊丹空港に向かっていた日航ジャンボ機が軽井沢近くの山の中に墜落しました。
 飛行機に乗るのも稀なわしでも、飛行機は怖いな。
 今度、飛行機に乗るときは全日空にしようと思わせたほど、
 日本中を震撼させた大事件ですが、小説にも、映画にもなり、  ある意味で、日本の繁栄の終わりを告げる象徴的な事件でした。



 盆の直前でした。
 漁から戻って、獲った魚を市場に卸し、家に帰って風呂に入り、 日も暮れて、わしはばあさんの手料理を肴に酒が一杯入った頃でした。

 


 NHKの娯楽番組か巨人戦の野球中継がすっかり忘れてしまいましたが、テレビに事故の一報が入ると、NHKから民放までありとあらゆる報道機関をハイジャックするように日航ジャンボ機墜落事件に染まったのです。



 その瞬間、扇風機の風に当たりながら、わしは寒気を催し、流れる汗が冷や汗に変わったことを今でも忘れることができません。

 


 それでも、2時間ほどテレビに釘付けになっていましたが、
 この調子では朝まで生中継があるなと判断して、わしは床に就きました。



 案の定、翌朝の新聞、テレビから日航ジャンボ機事故の報道が途切れることなかった。 
 日航ジャンボ機は群馬県御巣鷹の尾根と言われる、
 群馬と山梨と長野の県境近くに墜落して、
 家でも漁師仲間でも、その話題で持ちきりになりました。



 五百名を越える乗客のうち、世界的に有名な『上を向いて歩こう』を歌った歌手の坂本九が不幸にも同乗していたことでマスコミの注目を浴びたのはもちろんですが、錯綜する情報、険しい尾根からのテレビの中継で無残にも墜落して四方八方にバラバラになったジャンボ機の機体、乗客、乗員の荷物、亡くなられた方の身元確認などの一方、奇跡的にも4人でしたかな生存者が確認されました。


 飛び交う情報に目くらましにされたわしら庶民の耳には入らず、 当時は話題になりませんでしたが、
 被害者に日本航空のジャンボ機の乗客にインターネットの世界に革命を起こすとまで言われた、日本のTRONプロジェクトの技術者の多くが含まれていました。



 彼らの貴重な生命が損なわれたことで、奇しくも、ビル・ゲイツのマイクロソフトが世界のネット環境を牛耳ったというのが、
 真相のようですな。

 


 ゲイツと日本、御巣鷹と軽井沢が奇妙にリンクしていると噂される所以です。
 それ以外にもジャンボ機を製造したアメリカのボーイング社や日本の政治家や在日米軍について、日航ジャンボ機墜落事件には多くの謎や噂が今現在もネットの世界では飛び回っています。


 
 名前は忘れましたが、どこかの先生の言葉です。
 先程、吉田さんが言われた、グロバーリズムとは現代の帝国主義であると。

 


 スペイン、ポルトガル、オランダの海洋国家が世界の海に打って出るのを待っていたかのように殿に控えていたのが、
 産業革命の生みの親、資本主義の本場、権化となったイギリスが七つの海を支配して、悪の帝国、大英帝国となり、世界を支配したのです。

 


 先生の言葉は続きます。
 もし、秀吉がバテレンを追放しなかったなら、
 家光が鎖国をしなったなら、遅かれ早かれ、日本はボルトガル、スペイン、オランダ、イギリスと戦争になったであろう。



 世界を揺るがすほどの大戦争はペリーの黒船が浦賀にやって来る以前に起こることは必然であり、勝敗の如何に関わらず、日本の開国は早まり、今の日本とはまったく別の日本になっていたであろう、と。

 


 そうなっていれば、わしも直哉も吉田さんもこの世に生を受けたでしょうか。
 ここでお目に掛かることもなかったでしょう。
 それくらい、世界を揺るがすほどのパワーを秘めた一大事となっていたはずです。

 


 話が随分と長くなってしまいました。
 吉田さん、これに懲りず、直哉と親しくしてやって下さい」



 藤原組長似の柳本さんのおじいさんと会話が弾んで時間を忘れるほど語り合った。

 おじいさんが席を外すと、料理を作っていただいておばあさんに、
「とても美味しかったです。ありがとうございした」と丁寧にお礼を言って、使った食器を手に持って席を立とうとすると、

 


「吉田さんはお優しいのですね。
 そこに置いといて下さい。
 食器を流しに運ぶなんて、この家の男のすることじゃありません。

 


 でも今の都会では、それが当たり前なのでしょう。
 直哉が嫁を貰ったら、別所帯になりますが、どうなりますか?
 直哉も吉田さんと同様に優しい男なので、嫁さんの尻に敷かれるかもしれません」



 おばあさんが優しそう目でそっくりな孫を見た。



「ばあちゃん、心配御無用。
 最初が肝心だから、俺がしっかり嫁さんを教育します。

 


 さて、長い昼飯になってしまいましが、
 吉田さん、午後の予定はどうですか?
 鯨の標本を観られたついでに、資料館に行かれました?」

 


「資料館はまだ行っていません。
 資料館があることすら知りませんでした」

 


「それでは、今から資料館はどうでしょう。
 ここから歩いても行けますが、
 都会の人と違って、田舎の人間はほんのそこまでも歩きません。
 とりあえず車にしましょう」



 洗い物に忙しおばあさんに挨拶して、庭に出ると、
 紀州犬のよしが犬小屋から出て待ち構えていた。
 白い大きな体でリードを引っ張り、吠えるように一呻りして、
 体を震わせ、目を細めた。



「よし、吉田さんに挨拶しな」

 


 そう言われて、よしが甘えるように啼いた。

 


「よし、じいちゃんとばあちゃんをしっかりと守って。
 頼んだよ」

 


 柳本さんの声に頷くように、よしがリードを引っ張り、気合いを込めて一啼きした。


 
 習志野ナンバーのスイフトを置いて、袖ケ浦ナンバーの柳本さんのエクストレイルの助手席に乗り込んだ。
 車がゆっくりと動き出すと、
 ルームミラーにどこか寂しげなよしの白い体が映っている。



「長かったでしょう。
 祖父に気づかれないように壁に掛けられた鳴ることを忘れた骨董品のボンボン時計を何度も見ていたのですが、
 道楽のような長い話に付き合っていただいてありがとうございます。


 
 祖父は気に入らない人とは口もきかないのですが、
 気に入った人とはとことん話し込む人です。
 父なんて、またその話ですかと、端から聞く耳を持たないですし、母も父同様に、お義父さん、もう勘弁してくださいと言い出す始末です。

 


 うちの家族でまともに祖父の話を聞くのは祖母と俺と去年嫁に行った妹の三人です。
 それから、番犬のよしですか。
 彼女の両親が家に見えた時には得意の滝沢馬琴の南総里見八犬伝の講釈を垂れていました。


 
 こっちが早くて終わってと、瞬きしながらサインを送るんですが、知らぬ存ぜぬで1時間ばかりも話し込んでしまって。
 吉田さん、八犬伝をご存じですか?」

 


「はい。小学生の頃、図書館で借りて読んだことがあります」



「吉田さんこそ、何でもご存じですね。
 南総というぐらいですから、この地が生んだ八犬伝の物語が祖父の大のお気に入りです。

 


 気分が乗ると、自分が登場人物になりきって、いろんな役柄を演じるから面白い。
 その上、わしの先祖に使えていた犬の生まれ変わりが、
 今のよし、だと言い出したりで、手が付けられません。



 その昔は芝居になったり、映画になったり、人形劇になった八犬伝ですが、最近では取り上げられる機会が減っていて、
 祖父はそれが気に入らないようですが、
 祖父の命があるうちに南総里見八犬伝がかつての栄光を取り戻すように再び世間の注目を浴びる日がくれば嬉しいのですが」



 柳本さんの語りが終わらない間に巨大な鯨の標本が目の前に現れていた。

 


 道の駅の駐車場にエクストレイルを駐め、標本に近づいた。
 つい先日、ここを訪れたばかりとはいえ、
 あらためて、巨大な鯨の標本を目にした直後に資料館に入ると、目に見えているはずの展示中の鯨に関するすべての物が吹き飛んでしまった。

 


 館内にいたはずの1時間足らずが夢の中の出来事のように断片的でどうにも思い出せず、何を観て、何を観なかったのかさえ幻のように渦巻いて館内を出て、再び、鯨の標本を目にすると、
 それまで休んでいたかに想えた脳内のスイッチが急に入った。


 
 日曜日の午後の道の駅は2度目ということもあり、資料館以上に印象に残ることなく、車に戻った。



「再来週の土曜日、花見を兼ねて埼玉の彼女の家に行く予定です。
 よかったら、吉田さんもご一緒されませんか?」

 


「柳本さんやフィアンセ、御両親にご迷惑ではありませんか?」

 


「そんなこと気にするような人達ではありません。
 もしそうなら、俺のような田舎者の漁師と結婚する訳ないじゃないですか」

 


「それなら、ご一緒させていただきます」

 


「そうこなくっちゃ」

 


 柳本さんがエクストレイルのエンジンを掛け、鯨の標本の前から離れていた。

 

 

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