ブログ連載小説・幸田回生

ブログ連載小説・幸田回生

読み切りの小説を連載にしてみました。

よろしかった、読んでみてください。

 48

 

 富四郎一行9名はまずは羊肉を食べることにした。
 俗に言う、ジンギスカン料理である。

 


 ジンギスカンはモンゴル帝国の英雄でモンゴル人といえば遊牧民、遊牧民といえば羊を連想させることから、ジンギスカン料理と名付けられたとも、
 兄の頼朝に追われた源義経が大陸に渡り、ジンギスカンになったという伝説が由来になっているとも、諸説あるジンギスカン料理だが、日本の創作料理だというのは意外に知られていない。

 


 羊肉とジンギスカンの関連がどうにもピンと来ないと言われる方に、ここで簡単に説明しよう。


 明治政府による北海道の拓殖事業の一環として、この地に羊がやって来たのが明治初頭ですが、これらの羊は主に欧米からもたらされたようです。

 


 そうはいっても、北の寒冷地で羊が繁殖するのは難しく、   
 第一次世界大戦後、昭和になって、日本が満州国を建国する際に、軍服として利用する羊毛を自給するために北海道での羊の繁殖が根付くことになった。

 


 戦後の日本で、すべてが一転したように北海道の羊の運命も逆らえず、海外から特にオーストラリアから羊毛の輸入が急増するにつけ、北海道の羊は羊毛から羊肉へと転換せざるを得なかった。
 こうして、この地に羊の肉が供給される下地が整った。



 富四郎一行が店の暖簾を潜った。
 座敷に通された9名はテーブルの上に置かれた中華鍋を一回り小さくした専用の鍋を二人で囲み、富四郎だけは一人で鍋の前に腰を降ろすと、年配の女性が注文を取った。

 


 二人の院生のうち、年長者の院生が鍋奉行ならぬこの場を仕切るように富四郎以下の全員の顔色を探り、引率者の許諾を得て、
 ジンギスカン料理9名分、それからビールを付け足した。

 


「ここは札幌のすすきの。
 ビールといえば、その名の通り、サッポロビールです。
 瓶ビールを5本。
 とりあえず、注文は以上です」


 待つこと10分。


「それにしても客を待たせますね。
 大学近くの居酒屋なら死活問題。
 一言、言ってきてやります」

 


 お水のお姉さんと言った学生である。
 学生が席を立って、座敷から離れること3分。
 若い女性店員さん2名に先導されるように学生が戻って来た。

 


「お待たせしました。トイレが混んでいまして」

 


 言い訳した学生が頭を掻いた。
 


 富四郎と年長者の院生以外の7名は初めての北海道であり、
 ジンギスカン鍋も当然のように初体験である。

 


 この当時の内地では羊の肉を食べることは稀で、
 羊肉を売っている場所も羊の肉を食べさせる店もごくごく限られていたので当然といえば当然で、
 セルフサービスで羊肉と野菜を焼いて食べるという基本的なスタイルさえ知らない彼らに対し、まずは院生が手本を見せた。

 


 鍋にガスの火を点し、脂を引き、メインの羊の肉を箸で摘まみ、 中華鍋を一回り小さくした専用の鍋に乗せ、もやし、玉ねぎ、人参などの雑多な野菜を加えた。
 


「ここにお集まりの皆さん、
 こうして、食べ頃を見計らって下さい。

 


 あまり焼かなくても食べられる牛肉と違って、羊の肉は豚肉と同じようによく火を通すこと。

 


 肉と野菜はタレを付けて食べますが、タレが苦手な人は塩と胡椒もあります。
 その前にビールで乾杯しましょう」

 


 院生の一言で、まずは院生が富四郎にサッポロの瓶ビールをコップに注いだ。
 それから、院生、学生が互いにビールを注ぎ合った。



「今宵の札幌に乾杯!」


 食欲旺盛な若い諸君は言葉も発することなく、羊の肉をむさぼり食った。
 多少臭みがあろうが、肉が硬かろうが、
 質より量を好む若い連中にいらぬ講釈は無用で、
 タレだろうが塩、胡椒だろうが構うことなく、肉の焼き加減を気にすることなく口の中に放り込み、胃の中に収めた。

 


 おまけ程度に野菜を抓み、ごはんと一緒に口に運んだ。
 8名が10分少々で完食すると、コップにビールを注ぎ合った。

 


 いつもながらのんびり食事する富四郎を横目に、

 


「先生、せっかく札幌に来たのですから、締めにラーメンは如何ですか?」

 


 あの学生である。



「若いだけあって、胃袋のほうは底なしだね。
 僕はお腹一杯でもう食べられない」
「先生、そう仰らずに」
「ここはジンギスカン料理専門店のようですけど」

 


 最年少の学生である。

 


「それじゃ、ここからラーメン屋に足を伸ばせばいいだけのこと。
 先生、そうですよね」



 富四郎が食べ終わるを待って、全員、店を出た。
 ジンギスカンでお腹が膨れた富四郎は学生諸君とラーメン屋には同行せず、辺りをぶらぶらして宿に戻ることにした。



 店の前で袂を分けた8名は財布を預かった最年長の院生に連れられるようにしてすすきの町をそぞろ歩きしたのである。

 


「先生が仰っていたように門限は11時ですよね」

 


「お前、変なことを考えているんじゃないだろうな?」

 


 お水のお姉さんの顔を見たいと言った学生に院生が諫めた。

「そんなことはありません。
 僕は味噌ラーメンを食べれば充分です。
 この先、いつ札幌に来れるか知れませんから、
 すすきの夜風に当たって風流を楽しむことにします」


 富四郎はすすきのから札幌駅に向かって一人歩いていた。
 途中、大通り公園に寄って、美子との新婚旅行を懐かしむように札幌の町を巡った。

 


 美子はどうしているだろう。
 結婚して半年足らず、初めて家を空けて、自分が結婚したことを実感した。

 


 公衆電話で家に電話してみようかと閃いたが、いつものように母が電話に出て美子に代わってもらうのが面倒なので、
 ガラス張りの電話ボックスを通り過ごした。

 


 駅の向こうの北海道大学近くまで行ってみようか。
 富四郎は足を止めて、辺りを窺った。

 

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 47

 

 翌週末、富四郎は北海道を訪れた。
 大学のゼミ研修で鹿児島に行く予定が台風で急遽、北海道に変更になり、チケットや宿の手配に手間取って、3日遅れで札幌の旅館に入った。
 ということで予定は真っ白である。


 
 鹿児島市内からフェリーか飛行機で屋久島か奄美大島まで足を伸ばしてみたいと考えていたが台風のせいで御破算となった。
 さんざん練っていた計画はすべてパーである。
 鹿児島大学や鹿児島県の関連施設に断りの電話等で富四郎はてんてこ舞いの1週間だった。


 
 予定通りの鹿児島行きなら、山田名誉教授の後を受けた教授と助教授の二人が同行するところが、北海道行きとなり、引率に講師の富四郎が指名されたのである。

 


 偉いさん二人がいないせいか、
 富四郎以下の面々は少々気が緩みがちだが、
 リーダー役を仰せつかった本人はそうも言っていられなかった。

 


 当然のように旅行の中止も検討されたが、年に1度の祭りのようなもので学生と院生が楽しみにしていることから、
 キャンセルで浮いたお金で北海道に旅立つことにした。
 富四郎以下、11名のメンバーの内、2名の脱落者が出て9名となって、どうにもこうにかこの日に漕ぎ着けた。


 
「本番の遠征試合が軽い練習試合になって、サッカーから野球に変更になったと思えば、どうってことはありません」

 


 旅館の広間に集まり、これからの予定を話し合っている最中に、学生の一人が軽口を叩く中、責任者の富四郎はどうしたものかと考えた。


「今からすすきのに足を運んで、羊の肉でも食って精を付け、
 お水のお姉さんを冷やかしに行きませんか。
 本当にお姉さんと遊ぶ必要はありません。

 


 ご相伴にあずかるならともかく、
 他の人はいざ知らず、僕にはそんなお金はありません。
 この旅も学生生協でローンを組んで参加した次第です。

 


 旅の恥は掻き捨てといいますから、
 ここは一つ、客引きのおばさんでもからかいながら、
 お姉さんの顔でも拝めれば、それで結構です」



 大学で何を学んでいるのか、とんだ学生がいたものである。
 普段、大学のゼミではそのような顔は見せないが、
 スカイメイトという割引サービスを使い、人生初の飛行機に乗り、北海道くんだりまでやって来て、気が大きくなっているのだ。



「先生、明日の予定が未定なら札幌から近場の温泉にでも浸かってゆっくりしませんか。

 


 美味い物でも食って、温泉に浸かり、さらに美味い物をたらふく食って、また温泉に浸かり、北海道の野生の王者のヒグマにでもなって気分で、魚であれ肉であれ、土地の美味い物を食べ漁りましょう。

 


 北海道で丸々と太って、大学に戻りましょう。
 9月に入れば、嫌でも講義は始まります。
 どうせ、この旅行はおまけのようなものでしょう。
 台風が研修も何もかも吹っ飛ばしてくれたのですから、
 今更、深く考えても仕方ありません」

 


 別の学生である。



 とりあえず、富四郎は学生と院生を引き連れて旅館を出た。
 ここからすすきのまで歩いて10分程度。
 まずは飯を食って、考えるのはそれからだ。



「空港からバスに乗ったので気づきませんでしたが、札幌はもう秋ですか。
 先生の肩に上にトンボが留まっています」

 


 そう学生に言われて、富四郎は右の肩を覗き込んだ。
 地元では見掛けたない黒っぽいトンボを指で摘まもうとしたら、此奴は空に飛び立った。


 本土のトンボに比べ、やや大型で本土の亜種なのかもしれないなと想いつつ、ヒグマ、エゾ鹿、キタキツネ、北海道に生息する野生動物は本土の動物と似ているようで少々違っている。

 


 サルとイノシシは北海道の気候では生きていくのは難しくても、ヘビとカエルはこの地でも逞しく生きているようで、
 夏のイメージが強い、カブトムシとクワガタムシはどうだろう。
 今まで考えてみたこともなかった。



「先生、女将さんのお勧めの店がここです」

 


 学生に言われて、ジンギスカン料理店の前で立ち止まった。



 富四郎にとって札幌はこれで3度目である。
 大学生の頃に恩師の山田教授のゼミでこの地を訪れたのが最初で、あの時は北海道大学に伺った後、札幌から各地に向かった。
 今で言う農業大学や農業試験場に出向いて、内地との違いに愕然とさせられた。
 規模が違う、気候が違う。


 
 それ以上にメンタリティの違いに驚かされた。
 北海道は日本の中の外国だとは上手く言ったものだ。

 


 本州、九州、四国、日本の本土と言われる土地で長らく暮らしてきた、生活を営んできた日本人は先祖代々から受け継いできたというより肌身に染みこんだ島国根性というか、
 良くも悪くも村意識が行動規範となっているのだが、
 北海道は歴史が浅く、本土からの移民とアイヌで構成されているせいか、大陸的というか個人主義というか、どこかしらあっさりしているのである。



 地方の農家に生まれ、大学生になっても実家暮らしの富四郎が北海道について感じたことはそれが一番であった。
 本土から北海道に渡ってきた学生や北海道に住み着いた人のことまでは頭が回らなかった。

 


 社会学者ではない、生物学者を夢見る富四郎が偉そうなことは言えないが、何冊もの本を読んだとか、著名な学者の論文を読んだ訳でなく、一介の大学生が感じたまでである。
 こうして、山田教授に連れられ北海道の地を踏んだ富四郎は札幌に戻ってきた。


 内地では札幌と北海道内を点と点で結び、描写するから、
 日本ばなれしたデカさだけと寒さばかりが強調されて、
 肝心のことがぼやけてしまう。

 


 札幌から北海道各地へ、また札幌に戻ると、距離感に驚くの加え、内地と札幌、札幌と地方の二重の地理的、時間的、心理的な距離感を実感せざるを得なかった。

 


 富四郎が興味を持ったポリオが大流行したのも北海道である。 
 一昔、二昔前とはいえ、その後、どうなったのだろう。


 
 2度目の北海道は札幌は美子との新婚旅行であった。
 ほんの4、5ヶ月前のことである。

 


 桜が満開だった二人が住む内地とは違い、今だ桜のつぼみすら見られない札幌で富四郎と美子はコートの襟を立てた。
 二人が乗った飛行機が関東以北、青森以南の桜前線を一息に飛び越えてしまった。

 


 富四郎はまだ行ったことがない沖縄に、
 本土から返還されて5年になる沖縄に行ってみたかったが、
 沖縄も北海道も行ったことがない美子にとっては圧倒的に北海道が魅力的に映っただったのだろう。



「わたしが生まれてから沖縄はずっとアメリカでした。
 終戦の暮れに生まれた4つ年上のあなたも同じようなものでしょう。

 


 沖縄は江戸時代までは琉球王国で、明治以前の沖縄の歴史をよく知らないわたしは、イメージが沸かないというか、正直に言って、 興味が持てなかった。

 


 アイヌと北方領土しか知らない北海道も沖縄と同じような物だといえば、それまでだけど、数年前まで沖縄はアメリカでした。
 北方領土というか千島列島並びに南樺太をソ連に取られたのは残念至極だけど、北海道はどうにか日本に留まってくれました」



 沖縄返還時、オーストラリア在住だった富四郎はその時の日米間の交渉や顛末、沖縄の事情に疎かったのだが、
 図書館かどこかで目にしたオーストラリアの英字紙の一面と言わないまでも、それなりに扱われていたのが印象に残っている。

 


 日米開戦や日本軍のオーストラリア各地への襲撃と絡まさせて、これで30年に渡る戦争の終わりにメドがたった。
 という記事の横に泥沼と化したベトナム戦争の激戦の写真が添えられていた。

 



「沖縄に話を戻すと、アメリカは基地としての沖縄を利用するだけ利用したんだわ。

 


 敗戦目前だった日本が本土防衛のために沖縄を捨て石にしたのは有名で、戦後、アメリカに沖縄を差し出した日本が悪いといえばそれまでだけど、
 沖縄を統治したアメリカは戦後の日本人が憧れを抱いたアメリカとはほど遠く、悪の限りを尽くした、悪の権家のアメリカだった。

 


 あれがアメリカの裏の顔でなく、表の顔だったなんて、今から考えると、ぞっとするわ。

 


 植民地支配同様に沖縄を羽交い締めにしたアメリカ。
 本土復帰後、あれやこれや米軍の出鱈目な情報が溢れてくるにつけて、わたしの心は張り裂けた。


 
 わたしが西海岸を訪れたのが大阪万博の年で沖縄返還の2年前、ベトナム戦争の最中でした。

 


 戦後生まれといえ、楽しいはずの青春時代が戦争で塗り固められた両親に育てられ、間接的な戦争を知らなかった訳でもないのに、 生まれて初めての海外旅行に浮き足立って、わたしは周りが見えなかった。

 


 帰国して、冷静になってみると、沖縄の基地から軍用機が飛び立って、泥沼のベトナム戦争で枯れ葉剤を撒き、現地の人の命を奪うだけでなく、米兵が女子供に悪戯したりで、彼の地で悪さの限りを尽くしたということは、日本も直接手を出さなかったにせよ、ベトナム戦争に手を貸したしたようなものでしょう。



 わたしの偏見かもしれないけど、
 沖縄といえば、見たくもない米軍基地と戦闘機。
 頭が足りない米兵と琉球の衣装に身を包んだ地元の人がブロークンな英語を喋り、チューインガムを噛んで、コカ・コーラを飲んでいる、それしかイメージできなかった。

 


 沖縄の現実が見たくないわけでも、沖縄を見下している訳じゃないと頭で解っていても、これって、わたしの差別ごころから生まれるのかしら」



 美子にそう言われて、富四郎は言葉がなかった。
 こうして、二人の新婚旅行先は北海道に決定した。

 

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 46

 次に、富四郎と美子が向かった先は隣町の姉の嫁ぎ先だった。
 長兄の家では消えた番犬が兼業農家の姉の家では尻尾を振り、
 犬小屋に繋がれたリードを引き千切るほど大歓迎してくれて、
 若夫婦を出迎えてくれた。
 犬は何度もこの家を訪れている富四郎とは顔馴染みなのだ。



 富四郎は犬の頭を撫でてやり、長兄の家と同じ菓子折りを手に持っていた美子は側に立ってその様子を不思議そうに眺めていた。

 


 富四郎が婿入りした渡辺家に犬はいない。
 美子は犬はおろか猫も小動物も飼ったことがない。
 この人、動物が好きなのかしら。
 生物学者ですねものね。

 


 一人で頷いた妻の美子は今年の正月過ぎのお見合いの後、
 間を置かずの結婚以来、5ヶ月弱、寝起きを暮らしを供にしても、今まで一度も犬や動物の話をしたことがなく、夫の意外な一面を発見したのである。



 動物に限らず、二人は最も大事なはずの子供の話をしたこともない。
 一人娘の美子が富四郎を婿に迎え入れたということは、
 美子の父と母は、口に出さないまでも孫の誕生を望んでいるのは明白である。

 


 家に纏わる制度に固執した戦前、戦中ならいざしらず、
 もはや戦後ではないと言われてかなりの月日が経っている昨今、養子を迎える家も少なくなっているが、
 それでも、旧家や村落共同体が色濃く残る田舎に限らないのかもしれないが、婿養子を迎えるということは、即ち、家を守る、
 血を繋ぐことである。


 
 家を守り、血を繋ぐには子供は必然であるが、
 そこは教育者としての建前、教養、プライドが邪魔をするのか、両親は美子と富四郎に子供の話題を微妙に避けていた。
 その節が窺える。

 


 面と向かって、子供の話をすることはなく、
 父と母はそれぞれの職場である小学校についての一般論に留めていた。


 富四郎は子供について深く考えたことはなかった。
 自分が農家の5人兄弟の末っ子ということもあり、
 結婚すれば、子供なんて自然にできるものだと、
 高を括っていた訳ではないのだろうが、
 妻と将来生まれてくるかもしれない二人の子供について語るメンタリティを持ち合わせていなかった。
 富四郎はそんな人だった。



 犬の啼き声につられて、姉夫婦の小学生の長男の一太がTシャツと半ズボン姿で庭に飛び出して来た。

 


「おじさん、いらっしゃい。
 美子さんもよくいらっしゃいました」

 


 一太に続いて、富四郎と美子が玄関に向かうと、
 おかっぱ頭の妹の千恵子が白い毛の子猫を抱いて出て来た。


「いらっしゃいませ」



 千恵子に続いて、

 


「父も母も首を長くお待ちしていました。
 父は座敷に母は台所にいますので、家にお入りください」

 

 一太が声を枯らしながら言った。

 



 富四郎と美子は玄関に靴を脱いで家に上がった。
 まずは広い座敷に座った絣の着物に身を包んだ義兄に勧められて、二人は夏物の座布団に腰を降ろした。

 


「お兄さん、ご無沙汰しています。
 今日はお盆のご挨拶の伺いました」

 

 改まった富四郎が畳に両手をつき、美子ともども、頭を下げ、挨拶している最中に台所にいたはずの普段着の姉が姿を見せた。



「堅苦しい話はそこそに、冷たい物でもどうですか?」

 


 そう言った姉に富四郎は目を向けた。
 姉は盆に乗せた6人分のガラスコップを漆塗りの黒い広いテーブルの上に乗せた。

 


「富四郎も美子さんも、どうか足を崩してください。
 暑い日が続きますね。
 世間ではクーラーという物が流行っているようですが、
 我が家では今だに自然の風と扇風機です」


「庭から良い風が入ってきますね」

 


 富四郎がそう言う横で、美子は手に持った菓子折りをそっと指し出した。
 緊張のせいで決まり文句の台詞を忘れてしまったのだ。
 しっかり者の美子がである。

 


「ありがとう」

 


 義兄に続いて姉が言葉を繋げた。


「お昼は済みましたか?」

「兄さんの家で頂きました」

 


「そうですか。それでは西瓜を切りましょう。
 富四郎は子供の頃から西瓜で大好きでしたね。
 自慢じゃないけど、うちのは実家で食べた西瓜に負けないくらい、甘くて、瑞々しいから驚かないで」



 姉が席を外す代わりに、一太と千恵子が座敷に姿を出すと、
 美子は風呂敷に忍ばせたいた小袋を兄妹に指し出した。
 一人っ子で甥姪のいない美子が生まれて初めて、叔母の役割を果たすため、小遣いを与えたのである。

 


「ありがとうございます」

 


 一太と千恵子が声を合わせた。

「美子さん、ありがとう」

 


 義兄が太い声で感謝を述べると、盆に西瓜を乗せた姉が現れた。

 


「お母さん、美子さんに頂きました」

 


 一太が母が小袋を見せると、

 


「一太、美子さんではありません。
 美子さんはあなたの叔母さんです。
 美子さん、子供の躾が行き届かず、失礼しました。
 どうもありがとうございます」


 富四郎と美子は姉の家の畑で採れたおいしい西瓜を頂いた。
 富四郎が「美味しい、美味しい」と、
 家では見せたことがない子供時代にかえったような生き生きした表情の夫の横顔に美子は知らなかった富四郎の一面を垣間見た気がした。


 この日は挨拶だけで、すぐにお暇するところを、
 義兄や姉に引き留められて、家族と一緒に夕飯までごちそうになった。
 予定外の成り行きに美子は電話を借りで家に連絡したことは言うまでもない。

 


 兄の家に続いて、姉の家の田んぼで摂れたお米を炊いたごはん、吸い物、卵焼き、野菜の付け合わせ、漬け物など、
 心のこもった手作りの料理に比べ、日々の暮らしに追われ、
 味気ない食事になりがちな渡辺家の食卓に美子はなかば胸を締め付けられる思いもしたが、それでも楽しい一日だった。


 美子には経験がない兄妹や子供がいる和やかな雰囲気の中、
 亡き父や母の思い出話に花を咲かせ、お土産にまん丸とした大きな西瓜を頂いて、富四郎と美子は玄関先に出ると、
 家族全員が見送りに出てくれた。
 千恵子が抱く白い猫の赤い眼が光った。



「赤い眼の猫は珍しいですね?」

 


 富四郎が千恵子と猫に眼を向けた。

 


 そういえば、オーストラリアのパースの大学寮のルームメイトだったマイクと旅したダーウィンへの旅で、間違った列車に乗り込み辿り着いたカルグーリで車両の売り子のケイトの家に泊めてもらった時、彼女の家の飼い猫が今、目の前で千恵子が抱く白い猫と同じく、白い毛並みで真っ赤な目をしていた。

 

 

「今年の春、近所の方に譲ってもらいました。
 母親は黒く、5匹産まれた小猫のうち、この子だけが白くて、
 他の子猫はもらい手が決まっていて、一匹だけ取り残されていたので、家で飼うことにしました」

 


 姉に続いて、

 


「子猫が赤い眼でわたしを誘っているようで、お父さんとお母さんにお願いしました。
 名前は見たまんまにシロというメス猫ですが、
 おじさん、シロにはシロと同じように毛が白くて赤い眼の子猫が産まれますか?」



 千恵子の何気ない言葉が富四郎の胸に残った。
 もしかして、この時の姪の何気ない一言が、白い毛で赤い眼のシロが、その後の富四郎の研究テーマの一つになろうとは。

 

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 45     

 富四郎は暑い夏を過ごしていた。
 お盆には両親と美子と揃って、渡辺家の墓に参った。
 美子は一人娘で母親も二人姉妹の長女で訪ねて来る親戚も少なく、富四郎は賑やかだった実家のお盆を思い出していた。

 


 小学生の頃は家にTVがなく、娯楽の中心といえば映画になるのだろうが、いかんせん、田舎の農家で家族、親戚で映画館に通う者は少なかった。


 
 近所に祖父母の兄弟がいて、両親の兄弟がいて、富四郎の上に三人の兄と姉一人がいる。
 子供の時代のお盆といえば、竈がある土間と流しの周りに大勢の親戚縁者が集まった。

 


 本家筋で従兄弟や再従兄弟が多く、誰がどんな親戚なのか解らない人もいて、飲めや歌えの宴会で普段は農作業で忙し両親もお盆と正月だけは人が違ったように集まった人々に笑顔で振る舞っていた。

 


 特別のご馳走があった訳ではなく、男はニワトリを絞め、 
 女性陣は多めにごはんを炊き、おにぎりを結び、梅干しと漬物を用意した。

 


 野菜を炒め、手作りの饅頭を作り、お盆にはそうめん、正月には雑煮が定番だった。
 母は休む時間も食べる時間も惜しんで、土間を動き回っていた。

 大人は日本酒、夏は冷やで冬は熱燗にたくわんを摘まみ、
 子供は何を飲んでいたっけ。

 


 瓶入りのコカ・コーラは夢のまた夢で、TVに続いて家に冷蔵庫がなかったので、お盆には甕で冷やしたラムネやサイダーを飲み、近くの氷屋さんで買った氷を専用機で削り、オレンジやイチゴのシロップを掛けた。

 


 店に行かずとも、自前のかき氷の出来上がりだ。
 お盆に比べ正月は飲み物が限られ、お汁粉と飴湯が最高だった。


 いつだったか、大きな自転車に乗った紙芝居のおじさんが家の近所の広場に来てくれた。

 


 黄金バットか明智小五郎か、ヒーローは誰だったのか、
 どんな物語なのか、今となっては頭が錯綜するのだが、
 木枠に嵌まった紙に描かれた絵に観入りながら
 おじさんの名調子の台詞に耳を澄ませ夢中になった。
 おじさんが一枚一枚作画を差し替える度に、興奮は頂点となった。

 


 物語が終わりを告げると、母にもらった軍資金をおじさんに委ねて、おじさんが自転車の荷台の上で割り箸のような棒に差して引き伸ばし水飴を、口を広げて頬張っていたことを、富四郎は今でも覚えている。
 チューイングガムより硬く、すごく甘かった。



 几帳面で子供の頃からお金の管理に秀でていた富四郎は、
 両親や祖父母や親戚から小袋に入った貰った小遣いを使わず大事に取っていた。

 


 小学生の頃に貰って机の奥に仕舞っていた小袋が大学生になって見つかって、中から板垣退助の百円札が出て来た時は正直言って驚いた。

 


 人前で口に出したことはないが、将来、自分もお札になるほどの偉い人になれればと、心に秘めていた富四郎はオーストラリにも持ち込んで、結婚した今でも、この百円札をお守り代わりにしているのである。


 富四郎は婿入りした渡辺家でお盆を過ごした。
 盆明けの土曜日の午前中、嫁入りした妻が初めて実家が訪ねるように、結婚後初めて、富四郎は妻の美子を伴い、長兄一家が住まう家を訪ねた。

 


 パブリカのハンドルを握りながら、富四郎はあんな事がこんな事があったと、実家で過ごしたお盆を一人で懐かしながら、車を走らせた。
 助手席に薄化粧の美子の姿がある。



 お盆前、美子はアメリカ留学と富四郎との見合いにも一役買った美容院オーナーの店を訪れた。
 少し髪を切り、オーナー女史に髪をセットしてもらいながら、

 


「うちの息子がご主人が勤める大学の学生なのよ。
 お手柔らかにお願いします」

 


 女史の声に美子は目を下げた。



 富四郎は白の開襟シャツに紺のズボン、
 美子はグレーのワンピース姿で菓子折りを持ち、両親が亡くなり、富四郎が帰国する前の年に建て替えた家の玄関口に立った。

 


 結婚して渡辺家に入る3月までいた犬の姿がなかった。
 富四郎が物心つく前から家では雑種犬が代替わりで番をしていたが、昨年の春、8年ぶりに帰国した際も富四郎を見送ってくれた番犬がのっそりと体を起こし、一声啼いて出迎えたくれたが、ついにその伝統も絶えたのだろう。



 鈴を押すと、濃紺の着物姿の兄嫁が出迎え、すぐに仏間に通されると、長兄が待っていた。
 まずは富四郎、次に美子があらたまって挨拶すると、菓子折りと風呂敷から香典を差し出した。

 


 富四郎と美子は蝋燭に火を点し、線香を上げた。
 仏壇には二人が持参した菓子と香典が供えられている。



 富四郎と美子は居間兼食堂に通された。
 兄嫁が作ってくれた母譲りの家の田んぼで摂れた米を炊いたごはん、畑の芋、野菜を使用した天ぷらを、吸い物を富四郎は懐かしく頂いた。
 美子は黙って口に運んでいた。

 


 富四郎が婿入りした渡辺家ではこれほど手が込みながらも、
 シンプルな素材の料理が出ることはない。
 母も美子も教員で料理にそれほど時間を割けないこともあるが、農家ではないので食材にも限りがある。


          
 長男と長女は学校行事と部活で留守で兄夫婦と富四郎、美子に共通の話題はなく、会話が弾むことはなかった。
 家取りの一人娘で、家でははっきり物を言う美子もこの時ばかりは、兄から家の様子、学校のことを聞かれても、上手い具合にはぐらかしていた。



 時間を持て余し気味な美子に気づいた富四郎が食器を持って真新しい流しに足を進めると、近寄った兄嫁が一言呟いた。

 


「今日は本当にありがとうございます。
 お疲れ様でした」

 

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 44

 結婚後、3ヶ月半もすれば夏休みに入った。
 教員一家の渡辺家では小学校校長の父、同じく教員の母、
 中学校英語教師の美子、この春婿に入り、大学講師となった富四郎も休みになった。

 



 夏休みに入る直前、この期間を利用して本を読みだめしようと、   富四郎は大学の図書館に入った。
  目に付いたポリオについての本を手に取り、立ったまま数冊をペラペラと捲り、手一杯の本を借り、自宅に持ち帰った。

 


 大学でも家でも、富四郎は変人扱いである。
 富四郎がどんな本を読み、どんな服を着ようが、誰も関心を払わないことが幸いした。
 それで富四郎は本に集中できたのである。



 こうして、富四郎はポリオとワクチンに興味を持った。
 自分の左上腕に目を向けると、今も残っているのはハンコの跡ような痣は結核予防接種のBCGの残骸のようだ。

 


 そういえば、子供の頃、両親や祖父母から予防接種のことを聞かされた覚えがある。

 


 小学生の頃の夏休みのラジオ体操か中学、高校の修学旅行の旅館の風呂場で誰かとふざけ、見せ合ったかもしれないが、
 富四郎は左上腕の跡をさして気にも留めていなかった。


 
 BCG予防接種を受けたのは何歳のことだろう、
 今、あらためて、左の上腕を見てみると、30歳を過ぎ、結婚して、いい大人になってもくっきりと跡が残っているくらいだから、当時は飛び上がるほど痛くて、大声を上げて泣いたはずだ。

 


 今回は取り上げるのはワクチンはワクチンでも、
 富四郎が幼き日に受けた結核予防のBCGと違って、
 今、関心を持っているポリオのワクチンである。

 


 ポリオワクチンを受けたのか、受けていないのか、富四郎にははっきりとした記憶がない。
 母親に聞いてみようにも、富四郎がオーストラリア滞在中に他界している。

 


 富四郎に関心が薄い長兄が知っているはずもなく、3つ違いの姉は幼くて覚えていないだろう。
 

 ポリオとはポリオウイルスが原因で主に乳幼児が発症する感染症で急性灰白髄炎または脊髄性小児麻痺と呼ばれるものである。
 はっきり言えば、小児麻痺のことだ。

 


 日本でも戦前戦後に流行して、1960年(昭和35年)に北海道で大流行したそうだが、富四郎はポリオについてほとんど知識がなかった。

 


 医者でない素人で医学を学んだこともないのだから、 
 卑下することもないが、
 富四郎が流行の当時者になってもおかしくなかった。


 
 戦中、戦後を通して、日本人が最も多くの命を落としたは戦争であり、次は結核である。

 


 社会の大混乱の中、生きていくだけで精一杯な時代に、
 大東亜戦争が終わり、4ヶ月後の1945年(昭和20年)12月25日のクリスマスの日に生まれた富四郎にとって、
 実家が農家で食べることには困らなかったとはいえ、
 現金収入は乏しく、情報にも事欠いていたはずである。



 地震、雷、火事、親父の格言を別にすれば、
 生まれたばかりの幼子が戦争の次に怖い、結核にならないことが、両親にとっての最重要課題だったのは間違いないであろう。
 だから、左上腕の跡が残っているように富四郎はBCG予防接種を受けているのである。

 


 しかし、ポリオはどうだろう。
 末っ子の富四郎を愛してやまなかった母も父もそこまで頭が回らなかったのではないだろうか。

 


 5人の子供を養い、同居する両親の面倒を見ながら、日々の生活に追われていただろう。
 幸いなことに富四郎も3人の兄も姉が大病したこともなく、今日まで過ごしている。


 夕食後、本を読むうちに富四郎は目を閉じ、畳の上で寝転がっていた。
 先に風呂に入っていた美子が2階に上がって来て、
「お風呂どうぞ!」を声を掛けた。
 目を開け、新妻の横顔が浮かんだ。

 


 一瞬、富四郎は美子にBCGとポリオワクチンのことを尋ねようかと、閃いた。
 この日まで、富四郎は美子の二の腕をはっきりと見たことがない。
 気に留めたこともない。

 


 4つ年下の美子も多分、BCG予防接種は受けているとして、
 ポリオはどうだろう。
 もし、ワクチンについて尋ねたら、きっと、彼女はこう応えるだろう。



「変な人ね。
 日本脳炎にでも罹ったのですか?
 そうでなかったら、休みを利用して、脳病院にでも行ってきなさい」
 


 蚊取り線香の煙が揺れ、美子は浴衣姿で扇風機の風に涼んでいる。

 


「麦茶が飲みたいわね」

 


 そう言って1階に降りる前に、

 


「遅くならないうちにお風呂に入って。
 お風呂を出たら、湯を抜かずにそのままにしてください。
 明日の朝、わたしが洗濯の番ですから」



 富四郎は現実に引き戻された。
 婿養子の富四郎は風呂の番はいつも最後と決まっている。
 誰が決めたのか知る術もないが、同じく養子の父が一番風呂でその次は母でその次が美子で、殿が富四郎である。

 


 これがこの家の序列であり、新婚であっても美子と富四郎が一緒に風呂に入るなどもっての他である。
 これが渡辺家の家訓である。

 


 父が養子に入った当初は富四郎と同じように最後の風呂だったのであろうが、美子が生まれ育ち、祖父母が亡くなり、
 いつの間には父が一番風呂に出世を果たしたのだろう。

 


 一番風呂に入る日が来るのだろうか、そう想いながら、富四郎は湯船に浸かった。

 

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 43

 ジェームズが本家のジェームズ・ディーンに一つだけ似ている所といえば、どこか不安げな表情が挙げられる。

 


 アメリカ東部の田舎町生まれで、荷風や谷崎が好きで京都や東京に憧れながらも、彼が好きな古の日本にも、近代的な日本も縁がない田舎の大学にやって来たの運の尽きで、ジェームズはどこか自分を持て余しているようだった。


 
「谷崎が亡くなって、もう5年ですか。
 僕は亡くなってから谷崎を知ったのですが、
 先日、『細雪』のモデルとなった兵庫県芦屋市に出向いて、
 あらためて、谷崎の偉大さを再確認しました。

 


 今、僕がいる坂道を谷崎も上り、この通りを谷崎も歩いたんだなと、想うと、胸一杯で好きなうどんも喉を通らなくなりました。
 小説にも書かれていますが、京都の桜はぜひ観てみたいですね。
 これだけは絶対です。

 


 海沿いから狭い平野、山に向けて広がる坂が多い芦屋の街で、
 台風が阪神間を襲った時、谷崎はどのように過ごしていたのでしょう。
 想いは募るばかりです。



 荷風の『墨東綺譚』は日本文学史上の最高傑作です。
 荷風の作品が読みたくて、僕は日本語で小説が読めるように努力しました。
 今もその最中です。

 


 僕は荷風ほどの金持ちでも、お坊ちゃんでもありませんから、
 日本に留学するのも一苦労しましたが、

 


『墨東奇譚』で荷風が描いた江戸のなごりが残る下町も、
 貧しいながらも懸命に生きた、憂いと逞しさと見せてくれる花柳界の女の人達も、荷風が訪ねてくれた、僕が生まれる前の遙か昔のアメリカも、僕が見たことも、触れたこともないフランスも、アメリカ人作家が書いた読み物とは一味も二味も違って、僕の心を突き刺すのです」


 どこで覚えたのか、誰に教わったのか、それはそうと言うのが口癖で、

 


「それはそうと、美子さんは教育大学を出られると、
 英語の先生になられるのですね。
 僕は日本文学の専門家になりたいので、二人が手に手を取り、
 力を合わせると、一人前ですね」



 空想好きでありながら、変な理屈を捏ねるジェームズに対して、 戦後の強くなった日本女性を代表するように美子ははっきりと言った。


「わたしは荷風も谷崎も興味がありません。
 耽美派か何か知りませんが、荷風も谷崎も女性を美化しているようで、どこか女を馬鹿にしていませんか。

 


 誰の詩ですか、句ですか、忘れましたが、
 わたしが生まれる前の戦前でしょうか、
『明治は遠くなりにけり』に共感する今日この頃です」



「今、初めて聞きました。
 日本人から見ても、明治は遠いんですね。
 美子さん、英語だけでなく、博識です。
 感心しました」


「お世辞は結構です。
 荷風も谷崎も気負っているようでなりません。
 日本は日本で良いじゃありません。
 西洋に憧れようが、気触れようが、侍が髷を切り、ザンバラになろうが、洋服を着ようが洋食をたべようが、日本人は日本人です。

 


 男は、女、子供を守ってなんぼです。
 家を守り、家族を守り、食べていくのが先決です。
 わたしは古い女でしょうか。
 


 明治生まれの作家ではありませんが、明治の匂いがする作家なら、徳川慶喜が大政奉還した慶応の生まれで、洋行して暗いロンドンで気が触れて、日本に戻り、血を吐きながらも筆を執った漱石が好きです。
 漱石が英語教師だったこともあり、わたしは英語に興味を持ちました」


「そうですか。
 それはそうと、美子さんは英語で小説を読まれるそうですが、
 どんな作家がお好きですか」



「シェークスピアと言いたいところですが、
 一番好きなのはシャーロック・ホームズの生みの親のコナン・ドイルです。
 堅苦しく、理屈を捏ねる小説は苦手です。

 


 ドイルの分身のシャーロック・ホームズは屁理屈を捏ねるようで、 夢想に生きるロマンチストです。
 中でも好きな作品がホームズとワトソンが出会った、
『緋色の研究』です。

 


 ドイルはシャーロック・ホームズ以外にも海洋小説、海洋奇譚の作品を残したり、晩年は亡くなった兄との霊の交信に夢中になっていました。
 妖精を見たという二人の従姉妹が撮った写真に騙されたこともありました。

 


 妖精なんて、わたしでも騙されませんが、ドイルは小説の主人公のホームズとワトソン君に捜査を依頼すればよかったのです。
 コナン・ドイルの次に好きなのはアガサ・クリスティーです」



「僕はドイルもクリスティーも読んだことがありませんが、 
 美子さんがお好きなら、今度読んでみようと思います」

 


「無理は禁物です。
 小説は音楽や料理と同じです。
 好みの問題です。
 合わない人には合いません。
 それに、あなたはアメリカ人ですから」

 


「美子さんが仰る通りかもしれません。
 僕は日本文化に憧れを持っていますが、所詮、アメリカ人です。

 


 日本語を話そうが、日本語で小説を読もうが、
 日本に住んでみて、日本人にはなれないことを実感しました。
 こればかりはどうしようもありません」


「日本に留学して半年足らずで悟りを開かれたようですね。
 嫌みではありませんから、お気になさらないで下さい。

 


 あなたと同じというか、真逆というべきか、
 異国の文化、文明に憧れを持ちながら、
 詰まるところ、日本に回帰した荷風や谷崎はともかく、
 コナン・ドイルが生んだシャーロック・ホームズには、
 アメリカ、オーストラリア、インドが登場するといっても、
 ロンドンやイギリスの田舎が小説の舞台になっているので、
 あなた好みではないかもしれません。



 そう言うわたしもイギリスにもヨーロッパにも行ったことがなく、一度切りの海外はサンフランシスコと周辺のベイエリアだけです。
 学生生活も残すところ1年少々で、教員として社会人になると、 なかなか海外に出るのも難しいでしょう。

 


 せいぜい、小説の中のイギリスを、
 海の向こうに聳える外国を味わってみたいと思います」

 

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 42       
 
 時間を富四郎と美子の新婚当時に戻そう。
 見合い後、3ヶ月足らずで結婚した二人が互いを理解するには十分な時間が必要であったが、今更それを言っても後の祭りである。



 短い婚約期間が物語るように青春時代を謳歌するまでもなく、
 二人で会った数も知れている。
 デートと呼べるような代物もごく僅かである。
 いや、ほとんどなかった。

 


 二人で映画を観たことも、食事に行ったこともない。
 美子が富四郎のアパートを訪れ、手料理を振る舞ったこともない。
 二人でコンサートを観に行ったこともなければ、美術館を訪れたこともない。
 手を握ったこともなかった。



 二人が会う場所は決まって、美子の家でいつも美子の両親と一緒だった。
 土曜日の渡辺家の夕飯か、日曜日のお昼に招かれながら、
 美子や両親と交わす言葉も少なく、美子と美子の母が作ってくれた料理を、富四郎は無心に食べ続けた。

 


 愛車のパブリカを運転して来ているので、当然のようにアルコールは飲めない。
 緑茶かコーヒーがせいぜいである。


 
 富四郎にしろ、美子にしろ、近く結婚が決まっているのだから、婚約期間はこんなものだろうと、割り切っていたのかもしれない。

 


 見合い結婚ではないが、同じ小学校の教員同士で、同じく渡辺家に養子に入った父親も、婿を招き入れた先輩である母親も、
 娘の美子や富四郎と同じような考えたを持っていた気がしないでもない。


 当然ながら、富四郎は美子という女性がよく解らなかった。
 美子というより、女の人を想像しても無駄と観念していた節がある。
 それもそのはずである。
 富四郎が良く知る女性の代表は母であり、姉であり、祖母なのだから。

 


 農家の5人兄弟の末っ子で母親が四十に近い年に生まれた富四郎は、オーストラリアに渡り、両親の死に目に会えなかったのが災いしてか、帰国してからますます実家での存在感が薄れた。

 


 長兄に追い立てられるまでもなく、自ら進んで独立した富四郎とは違い、教員家庭の一人娘の美子は両親の跡を継ぐように中学校の教師になった。

 


 謂わば、箱入り娘の美子が5人兄弟の末っ子で家を継ぐ必要がない事以外、これといって取り柄のない自分と見合い結婚したのは何故だろう。          
 それが富四郎が終生抱き続けた疑問であった。



 変わり者でありながら、絵に描いたような常識人の富四郎は美子の持ち物を探ってみたり、彼女が書き記した日記やメモの類を盗み見たことはない。

 


 美子の後を付けたり、彼女が勤める中学校の門の前で待ち伏せたこともない。
 美子の車を追ったこともない。

 そんな事をしようものなら、自分が惨めになるだけだ。

 


 表面的な事象ではなく、美子という女性の肝になっているのが、彼女自身の心に、内面に潜んでいるのだから、どうあがいてみても始まらない。
 誰に教わることもなく、富四郎はそのことを知っていたのである。


 田舎なので結婚相手に限りはあるが、
 見合いをするまでもなく、同業者の教師でも、医者でも富四郎より良い条件の男を見つけるくらい、朝飯前とまでは言わないまでも、美子をもってすれば、それほど難しいこととは想われない。

 


 しかしながら、美子は富四郎と見合い結婚した。
 ほぼ即決である。
 見合いの席で、長兄が熨斗も付けずに差し出したような婿養子の提案が功を奏したのが、美子は結婚を決断したようである。
 

 それほどまで美子は渡辺家を守り、両親を安心させたかったのであろうか。
 容姿は近代的でありながら、ほとんど武家の娘のメンタリティーである。
 明治の人である。 

 


 ジタバタしても始まらない。
 これが富四郎と美子の暮らしである。  



 美子は富四郎のことをどう想っていたのであろう。
 教育大学を出て、中学校の英語教師となってからの美子は両親と住む実家と学校の往復が主で男性との付き合う機会は少なかったといえ、学生時代は人並みにボーイフレンドもいればデートもしていた。


 
 短期間ではあるがサンフランシスコへの留学経験もあり、
 帰国後、より英語が上手くなりたいと、
 知り合いになった留学生と一時期交際していたことがある。

 


 中学、高校の同級生に紹介されたのが、
 ジェームズ・ディーンと同じく、ジェームズという名前が自慢の、背ばかり高くて、ひょろひょろした、鼻筋にそばかすが目立つ、どれ一つとして、本家のジェームズに似ていない彼は、
 富四郎の大学に留学していたアメリカ人だった。

 


 美子が英語で話し掛けると、
「美子さん、僕には日本語で話してくれませんか」と、きたもんだ。



 一度、二人で映画を観に行ったことがある。
 大学近くの名画座で彼のお気に入りのジェームズ・ディーン主演の『理由なき反抗』と『エデンの東』の2本立てだった。

 


 24歳の若さで自動車事故で亡くなったジェームズ・ディーンの作品はデビューしたての端役を除くと、生涯で3本と少なく、
 この日の2本以外は大女優のエリザベス・テイラーやその後、  エイズで亡くなったロック・ハドソンと共演した、20世紀初頭、
 テキサス州の石油の勃興期を描いた『ジャイアンツ』のみである。

 


 数少ないディーンの3作品のうち2本が見れるとあって、
 同じジェームズであっても、ディーンに少しも似ていない留学生のジェームズは映画デートが決まった数日前からどこか浮き足だっていた。


 ディーンの全3作を何度もアメリカで観たことがあるジェームズと違って、美子はテレビで観たことがある程度の認識で、
 ジャームズ・ディーンに恋い焦がれることもなければ、
 天下のジェームズ・ディーンに興味すら持っていなかった。



 日曜日の午後、二人は狭い名画座の一番後ろの席に座って、
 スクリーンに観入っていた。
 まずは「理由なき反抗」の一幕が終わった。
 互いにトイレに行って、「エデンの東」が始まる。

 


「理由なき反抗」はロサンゼルスを舞台にした映画でラストのシーンで、ジム役のディーンと相手のジュディ役、ナタリー・ウッドが年下の友人の少年と映画史に残るようなラスト・シーンで一役有名になったグリフィス天文台が象徴的である。



 次の「エデンの東」では冒頭のスクリーンに映し出された海に美子は胸をときめかせた。
 サンフランシスコ郊外の日系人のお宅に約3週間ホームステイしていた際、ご主人の車でベイエリアのビーチに連れて行ってもらったことが脳裏をよぎった。

 


 夫妻の子供のキョウコとマリコの姉妹と一緒にビーチでじゃれ合っていたのが、昨日の事のように思い出された。
 ホームステイ先に帰ってからは、美子と姉妹が三姉妹のように振る舞っていたあの日の夏が深く心に刻み込まれていた。



 一人娘の美子は遊ぶのもいつも一人切りで、家では供に小学校教師の両親と祖父母に囲まれ育ち、子供のようであって、どこか大人びていた。

 


 見合い相手の富四郎が5人兄弟の末っ子と知らされて、
 どこか羨ましくあり、美子自身が意識するしないに拘わらず、
 それが結婚の引き金となったのかもしれなかった。


「エデンの東」に戻ると、
 主人公のディーン役のキャルが住むサリナスも、キャルが生き別れた母親が住むモントレーも、美子は実際に行ったことなくても、ホームステイ先から車で行ける近距離だったのでぐっと親近感が湧いた。


 
 映画の設定が第一次世界大戦の前後で、美子とジェームズが映画を観た時から50年以上前の物語りであっても、二人にとっては何の違和感もなく、映画は進んだ。

 


 クライマックスを迎える直前、ディーン役のキャルと双子のアロンの婚約者のアブラが観覧車に乗っている時に、それまで控え目だった現実のジェームズが美子に手を触って来た。

 


 男性と手を握り合うことなど経験済みの美子であったが、
 この時ばかりはジェームズの手をきつく叩いて払い退けた。



 映画が終わって、近くの喫茶に入った。
 ナポリタンを食べ、コーヒーを飲みながら、映画の感想を述べ合っているうちに、美子は英語で、ジェームズは日本語を話して、結局、英語にするか、日本語にするかで二人の折り合いが付かず、 長い付き合いにも、深い付き合いに発展もせず、自然にフェイドアウトした。


 
 しかしながら、これがきっかけで、美子は映画の原作となった、ジョン・スタインベックの『エデンの東』を読むことにした。
 まずは日本語で読んで、次に英語で読んだ。
 もう一度、日本語で読んだ。

 


 前述したように映画はディーン役のキャル、双子のアロンと父のアダムと別れた妻のケイト、アロンの婚約者のアブラを中心に第一次世界大戦後の物語として描かれているが、原作は映画よりもずっと長い大河ドラマで、父のアダムが生まれ以前から、トラスク一族がアメリカ東部に住んだ頃から物語なのである。



 南北戦争に従軍して足を負傷した双子の父、アダムの父の葛藤、アダムの母の死、父と新し母の間に生まれたアダムの弟のチャールズ。

 


 アダムと母親が違う弟のチャールズには目に見える、見えない確執があって、父に無理強いされて陸軍に入ったアダムは除隊して、キャルとアロン、双子の母親のケイトと出会った。
 

 父が亡くなり、アダムは莫大な資産をチャールズと分け合い、
 妊娠中のケイトと家を連れて、西海岸に向かった。

 


 子供を持つことも、西海岸に来ることも望まなかったケイトは、キャルとアロンの双子を産んで間もなく、妻として母として生きることを望む、束縛感の強い夫のアダムの肩を拳銃で撃って、家を出た。
 


 映画で描かれていないが、原作では父親のアダム、双子の息子、 キャル、アロンのトラスク家と作者のスタインベックの母方の祖父母のハミルトン家の交流が伏線となっており、妻であり母であるケイトがいなくなった一家の家事全般を支えていたのが中国人男性のリーである。

 


 その後、東部から西部に移っても足を突を洗うことなく、
 ケイトの居場所となったのが売春宿である。
 そこは双子の家からもそう遠くはなく、映画の冒頭にあるようにまずはキャルが母親のケイトを突き止めた。
 母親の存在を知らされたナイーブ過ぎるアロン。


 
 古今東西、人間がやることは同じことだと言えばそれまでだが、マーガレット・ミッチェル原作の、南北戦争をテーマにした有名な映画、『風と共に去りぬ』とは一味も二味も違ったアメリカの近現代史をテーマにした『エデンの東』をきっかけに、
 アメリカ人作家がスタインベックが好きになった美子はこれを機に、ヘミングウェイへと、読み継いだのであった。

 

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 41

 そのような富四郎にヒントを与えてくれたが、時代や目的は違えど、明治時代に真珠養殖の潜水夫としてクイーンズランド州のケープヨーク半島の先端に浮かぶ木曜島に移り住んだ日本人だった。

 


 仕事で訪れた木曜島は、目標を失いかけていた富四郎にかつて寮のルームメイトのマイクと訪れた西オーストラリア州ブルームでの出来事を思い起こさせた。

 


 泊まっていたホステル・オーナーのリーさんから中国人移民だった祖父や父親から耳にしたブルームにやって来た、当時の日本人移民の話を聞かせてもらい、彼らの光りと影に関心を持った。
 瞬間とも言えるほど一時の光りを浴び、時代に忘れ去られたような彼らの足跡を、別の形で表現する手段がないものか。



 これといって決まった研究テーマを見い出せずにいた富四郎だが、 オーストラリアならではの生物には興味を抱いていた。

 


 大陸から切り離され、海に囲まれた大きな島となり、
 陸続きだった時代からの名残を残しながら、アボリジニー、
 カンガルー、コアラといった、オーストラリアならではの命を育み、今日に至っている。


 
 ヨーロッパの白人はオーストラリアという大き過ぎる孤島と遭遇して、オランダ、イギリスの領有権争いの中、これといって利用すべき物がない大きな島を持て余していた。

 


 彼らは香辛料、茶、綿花をはじめとする物資の宝庫であったアジアを筆頭に、鉱山資源の豊かなアフリカ、独自の歴史、人生観を誇っていた南北アメリカの生き血を吸い、すべてを奪うことによって、 西ヨーロッパ諸国は豊かになった。

 


 貧しく何もない暮らしから脱却して、より快適な暮らしを手に入れ、今日の基盤を築いた彼らは、植民地からの揚がりで食べていた世捨て人なのだ。
  
 イギリスからメインフラワー号に乗った連中がアメリカ大陸に渡り、時間を置いて、流刑植民地となったのがオーストラリアである。

 


 アボリジニーをはじめとするオーストラリアの先住民族の人々も豊かな文化を持っていたが、それらを葬り去るようにして、
 今でいう移民の新参者がこの大地の頂点に立った。


 ローマ帝国、その後大国となったフランス、スペインから見ればヨーロッパであるのかないのか、意識すらしなかった辺境の蛮族で、食べる物さえ粗末だったイギリスが一度大海に乗り出すと、海の王者として、世界に君臨したのである。

 


 帝国主義の権家となったイギリスでさえ、流刑植民地としての価値以外見出していなかった南洋の大地がある時、反転した。


 
 富四郎とマイクが金鉱山が今も残るカルグーリーに迷い込んだように19世紀半ば、サンフランシスコの2番煎じではあるまいが、オーストラリア各地に金が発見されると、その渦はイギリスに留まることなく、世界中で胸騒ぎを覚える人が少なくなかった。
 インドの次はオーストラリアだろう。


 
 こうして、世界各地の荒くれ者と多量の物と動植物がオーストラリアに流れ込んで来た。
 多くの人々が移動することで良い意味でも悪い意味でも、生態系に変化が生じる。

 


 その一例がウサギである。
 ウサギは日本に生息するノウサギとヨーロッパに生息するアナウサギに大別されるが、ノウサギはその名の如く、野で生まれ育つウサギのことであり、アナウサギは土の中の穴で生まれ育つ。


 
 ノウサギは耳が大きく、足が早く、毛が生えた状態で生まれ、
 敵から身を守るために生まれてすぐに動けるのに対して、
 穴の中で生まれ育つアナウサギは毛がない状態で生まれ、
 生まれてすぐには動けない。
 ノウサギとアナウサギは交配しても、子孫を残せない、まったく別種のウサギである。

 


 アマミノクロウサギはノウサギのようでありながら穴を掘って暮らすウサギなので、本土のノウサギとは別種の、もっと古い特別なウサギのようである。


 オーストラリアに移住した人々は牛、馬、羊といった家畜を船に乗せる同時にこの地にいなかったアナウサギを持ち込んだ。
 一方で、オーストラリアにアナウサギを持ち込んだのは諸悪の根源といわれるイギリス人(ブリテン島の人々)なのか、
 対岸の大陸であるヨーロッパからの移民なのか、船乗りなのか、 諸説あって今だに定かではない。


 もう一つ、ウサギを持ち込んだ先はオーストラリア本土ではなく、南に浮かぶタスマニア島で食肉用のウサギだったともされる。

 


 19世紀の半ば過ぎ、オーストラリア各地がゴールドラッシュで賑わう最中、この地でウサギが繁殖したきっかけを作ったのは数少なかった狩猟用のウサギがルーツとなっているとさえ言われる始末です。



 その後、アナウサギが当時のオーストラリアの人口の軽く十倍以上、百倍近く、一節には5億頭、6億頭に繁殖したされるが、
(ウサギの数え方にも諸説あって、匹、頭、羽、耳など)
 一筋縄ではいかない動物がウサギなのである。
 繁殖し過ぎた、多過ぎるアナウサギは野を荒し、農作物に食い尽くした。

 


 製造業の発展が今一つで、資源と農業が主要産業のオーストラリでは農民の社会的な位置付けと影響力が極めて高く、彼らの職場である農地を、資産を脅かすアナウサギは害獣扱いされた。

 


 政府も害獣でしかないアナウサギに頭を悩まし、ない知恵を絞り、あれやこれや手を打ってはみるものの、人間の浅知恵をせせら笑うように賢く俊敏なアナウサギは繁殖し続けた。


 
 第二次大戦後、暫くして、オーストラリアのアナウサギに感染症が広がり、絶滅の危機が訪れた。
 害獣たるアナウサギの撲滅を目指し、ウサギにしか効果がないワクチン開発を密かに図っていた政府による成果だとする一方で、自然発生した感染症だと主張する研究者も少なからずはいる。

 


 どこかで聞いた話である。
 百年前、アメリカで流行っていた感染症を第一次世界大戦に参戦した米軍兵士がスペインに持ち込み、世界的な大流行の惨事となったのがスペイン風邪である。
 同じ頃、世界は第一次世界大戦、ロシア革命、スペイン風邪の三大トラブルに見舞われた。


 世界での死者数は数千万人単位から1億人を超えるとも言われ、日本では台湾遠征の力士が発端になっているともされ、
 数十万人の死者が出ている。

 


 その後、毎年のように変異を繰り返しながら世界的に広がるインフルエンザ。
 スペイン風邪から約百年後、中国の武漢が世界を震撼させることになるとは、お釈迦様でもご存じあるまい。

 

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 40

 夏休みに入った頃には、富四郎は渡辺家の流儀にも大学講師としての振る舞いにも馴染んできていた。
 1年前は今の自分が想像できなかった。
 5年前、10年前はどうだった。



 自然だけが豊かだった子供時代、田舎暮らしの夏、麦藁帽子を被り、ランニングシャツと半ズボンで富四郎は仲間と走り回った。

 


 虫取り網を手に持ち、田んぼの回りの用水路に生息するカエルを掬い、小川の淵に腰を降ろし、釣り竿の先の赤い浮きに一点集中してフナを待った。



 時に竹竿の先に糸を巻き付け、いりこや小さなカエルを生きたままを糸に巻き付け、獰猛なアメリカザリガニを捕獲した。
 獲ったザリガニの鋭い両手の鋏に気を付け、背を抓み皮を剥いて白い身を餌として、糸に吊して小川に垂らした。

 


 ザリガニの残骸を川の水を張ったバケツに投げ入れ、
 這い上がるザリガニに共食させるなどして、残酷ながら、子供の頃からぼんやりと生き物に興味を持っていた。



 しかし、家で飼っていたのは番犬代わりの雑種犬だけで、
 朝晩の餌は家族の残り物と味噌汁のぶっかけ飯で、金魚や男の子が大好きなカブトムシもクワガタムシも飼ったことがなかった。

 


 家の土間の隅で梅干しを漬けるような大きなガラス瓶の中に土とおが屑を敷き詰め、幼虫からさなぎへ、成虫へと育ったカブトやクワガタを見せびらかす近所の子に嫉妬したこともない。


 
 夏休み、神社の境内に集まってラジオ体操のテーマソングを聴き、体を動かしながら賑やかな蝉の鳴き声に心を動かされた。
 ラジオ体操が終わると、蝉がどこにいるのか気になって、彼らの住処である木々に目を移すと、主役のはずの蝉の姿はどこにもなく、木々に留まっていたのは蜜を吸うカブトやクワガタだった。 

 


 目を落とすと、木の根元に小さな蝉の体が横たわっていた。
 突然、カブトムシが羽根を揺らして飛び立った。


 近所の子が飼っていた白いウサギを遠目に見ながらも、
 自分から生き物を飼いたいと、富四郎は両親や祖父母にねだったことはない。

 


 幼な心に刻まれた生き物への憧れが心のどこかに潜んでいたのか、大学に入ってより具合的な生物について学ぶことになった富四郎はゼミの研修で北海道の牧場を訪れ、牛、馬、羊の飼育を目の当たりした。

 


 ヒグマに遭遇することはなかったが、鹿、狐など北海道の大地に根ざした動物の姿も目に入った。
 


 同じく大学時代の夏だった。
 偶然訪れた奄美大島で富四郎が興味を持ったのは、
 奄美の歴史と生き物だった。

 


 戦後、8年間のアメリカ統治を経験した奄美諸島であるが、
 サンフランシスコ講和条約の発効を機に日本に返還された。
 本土復帰した。

 


 琉球と同じように薩摩藩の支配を受けたとはいえ、
 文化的にも生物学的にも、本土より琉球と似た側面が強い奄美諸島は実質的には鹿児島県であり、米軍との地上戦はなく、
 米軍基地の数も少なく、奄美を手放しても、アメリカのデメリットにならないと想定したのか、日本政府へのギフトだったのか、沖縄より20年近く早い、1953年、昭和28年の12月25日に日本に返還されたのである。

 


 この日は富四郎、8歳の誕生日である。



 アメリカによる統治は奄美諸島だけはなく、
 伊豆諸島の本土復帰は1946年 昭和21年3月22日。

 


 屋久島、種子島の南に位置する、縄文時代早期の噴火で有名な薩摩硫黄島のあるトカラ列島の本土復帰は奄美諸島の前年の1952年、昭和27年の2月10日。

 


 小笠原諸島の本土復帰は1968年年、昭和43年6月26日。
 それ以上に忘れていけないのは進駐軍の撤退後、
 アメリカは目に見える形での日本統治を終える代わりに、
 一夜漬けと揶揄される、戦勝国が第一次世界大戦で破れたドイツに押し付けたワイマール憲法の模造品といわれる日本国憲法と対極の日米安保と在日米軍で日本を縛り付けた。



 日本全国に繰り広げる米軍基地、兵器と米兵で脅迫すると同時にアメリカは日本の政治に首を突っ込んだ。
 その最大の犠牲者が何を隠そう、ロッキード事件で致命傷を負った田中角栄元総理である。

 


 アメリカは巧みに日本語を操る知日派という名のインテリヤクザをメディアに登場させ、シンクタンクという名の戦争屋の手先を使って情報をコントロールした。

 


 世間に知られた予算の一般会計とは別枠の特別会計という国民には知らされない、触れること許されない予算を、日本国民の血税を貪ることに成功した。

 


 アメリカの、世界を支配する悪党達は軍事に限らず、
 円やドルに限らず、経済、文化、宗教、スポーツ、食料等、 
 ありとあらゆる手段を使い、死なない程度に日本を締め上げ、
 ペリーの黒船以来の長年の夢である、植民地としての日本の支配が完結する序章が奏でられたのである。

 


 
 民宿に2泊もすると飽きてしまった富四郎は奄美の森に入った。
 ハブに襲われる恐怖と葛藤しつつ、足を進めると、童心に戻ったように蝉の鳴き声に耳を澄ました。

 


 これまで聴いたこともない風変わりな鳴き声に心をときめかせながらも、蝉の姿は見えない。
 奄美の固有種かはともかく、蝉は姿を現してはくれないのだろう。

 


 その代わりといってはなんだが、カエルやバッタ、夜行性と言われながら、寝惚けているのか昼間に姿を現していたカブトムシ、クワガタムシに遭遇した。

 


 そういえば、小学生時代の夏休み、ラジオ体操で目に止まったカブトやクワガタもどこか動きが悪かった。



 奄美の虫達で頭が一杯になりながらも、
 早晩の散歩の道すがらアマミノクロウサギと遭遇し、 
 等々数知らないほどの多様な動植物にも心を惹かれた。

 


 陸続きだった大陸から切り離され、孤島となった奄美諸島では大陸で絶滅したはずの動植物が生き残り、固有種となって進化を遂げていたのだ。
 どこかで聞いた話である。
 ガラバカス諸島しかり、オーストラリアしかり。
 

 パースの大学院で過ごした4年間はともかく、

    オーストラリア西海岸随一の都市パースから対極にある東海岸北部の人も疎らなクイーンズランドの研究機関に移ってからは、
 自分がいったい何をやりたいのか、どんなテーマで生物を研究していけばよいのか、富四郎は彷徨っていた。

 

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 新年度の4月、富四郎は母校で講義を受け持つことになった。
 初めての講義、この時ばかりは緊張した。
 予めテーマを設けて臨んだ講義にも拘わらず、
 富四郎の頭の中は真っ白で、1時間半の講義でくたくたになった。

 


 自分が何をどうに話しているのかも解らず、
 百人近くいた学生の顔や姿が一人も目に入らなかった。
 それどころではなかった。
 声は裏返り、学生に背を向け、黒板に向かう手が震え、
 チョークを2度も3度の床に落とした。



 この日のために新調した紺のスーツと白いワイシャツば春先にも拘わらず、汗が滲んだ。
 この春、大学に入ったばかりの1回生相手の講義とはいえ、
 富四郎が多くの学生、生徒を目の前にするのは大学4回生時に出身高校に出向いた教育実習以来であった。

 


 一昔前の事である。
 忘れもしない、あの時は40人前後の高校1年生の生物の授業を担当した。
 高校生1年生と大学1回生は年にして3つ4つの違いでないか、読者はそう想われるかもしれないが、この年頃の3つ4つの差は実に大きい。

 


 高校1年生は去年まで中学生であり、大学1回生は去年まで高校生かもしくは浪人生である。
 成人もいれば社会人の経験があったりもする。


 
 日本に戻り、昨年1年間、この大学で助手を務めていたとはいえ、ほとんどが研究室で見知った院生か学生であり、
 この日、壇上から見渡す不特定多数の新入生が恐怖そのものだった。

 


 放心状態で富四郎は大学の教務室に戻ってきた。
 自分の机に顔を伏せ、目を閉じていると、どこからか声がする。
 顔を上げて目を開けると、これまで富四郎を導いてくれた還暦過ぎの山田名誉教授である。


「山本君、君のことが気になって来てみました。
 初めての講義は如何でした?」

 


 富四郎は寝惚け眼でグレーのスーツに紺色のネクタイを締めた、 髪が薄くなられた恩師の顔を見上げた。



「そうですか、話さなくても解ります。
 大変でしたか。
 わたしも初めての講義はそうでした。
 時代や建物はすっかり変わってしまいましたが、
 戦争で命を落とすはずのわたしがこの大学に拾われて、
 ご縁があって講師となりました。

 


 今まで数えきれないほど学生の前に立ちましたが、
 あの時の講義だけは今でもはっきりと覚えています。
 忘れることなどできません。
 例えが悪くて済みませんが、戦争と同じです。
 それくらいわたしの目と心に焼き付いています。

 


 あの日を一言で言い表すとしたら、初めての講義はわたしが教えるのでなく、学生がわたしを教えてくれました。
 そうやって、育てられて、今日のわたしがあります。



 山本君、今日の講義を忘れないでください。
 これが君を一人前に育ててくれるのです。
 遅くなりましたが、御結婚おめでとうございます。
 親族だけで家で式を挙げられたそうですが、
 入り婿で苗字が変わられたのですね」



 そう言って、名誉教授は赤いリボンが掛けられた細長い箱を差し出した。

 


「渡辺先生、これはわたしからの贈り物です」

 


「有難うございます」

 


 椅子から立ち上がった富四郎は静かに頭を下げた。



 家に帰り、新しく家族となった美子と両親、渡辺家での夕食の後、いつものように食器を洗って2階に上がった富四郎は妻の美子に見られないように先生から頂いた箱を包んだ和紙と赤いリボンを外し、白い箱の上蓋を開けると、紺色に金文字で渡辺富四郎と記された、金の筆先が輝く一本の万年筆で出てきた。

 

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