ブログNO.135  興福寺の九州年号 2 前身寺院・山階寺に謎のカギ 「山階」は関西の九州 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.135  興福寺の九州年号 2

 

前身寺院・山階寺に謎のカギ

「山階」は関西の九州政権の拠点

 

 権勢を誇り、九州倭(いぃ)政権を歴史から消そうと企てた藤原不比等一統の寺で、奈良・大和の代表的な寺院のひとつである興福寺に「九州倭政権」の実在を証明する「九州年号」がなぜ伝わっていたのだろうか。

その謎を解くカギは、興福寺の前身寺院であるという山階(やましな=山科)寺にありそうだ。山階寺が名を変え、興福寺になったことは、寺に伝わる古文書「旧記」「宝字記」「三宝絵詞」やこれらを引き継いだ『興福寺流記』などにはっきりと書かれている。戦後では福山敏男ら多くの古代史や仏教研究家が古文書について研究して解明を進め、それぞれの見解を打ち出している。

それによれば、山階寺は現京都市山科区大宅鳥井脇町付近にあった寺で、今はない。不比等の母である「鏡王女」が、夫の「中臣(なかおみ)の鎌足(かまたり)」の病気平癒を願って建てた寺であるという。

『書紀』などによれば、鏡王女は田村皇子(舒明天皇?)の娘で、万葉歌人としてもよく知られる。当初葛城皇子に嫁いだが、後に鎌足の妻になったらしい。683年に亡くなったという。

どのような寺であったかは、いろいろな見方がありよく分からない。が、三尊形式で丈六(5m弱)の釈迦如来像を造って納めたことは間違いなさそうだ。京都府教委が発掘調査している「大宅廃寺」がそれに当たるとすると、講堂、金堂、塔が一直線に並ぶ四天王寺式の寺だったのではないかという意見もある。

中臣氏一族は元来、北部九州に根を張っていた。大宅廃寺近くにも中臣神社があるが、北部九州にも多くの「中臣神社」がある。藤棚を設けている神社もある。藤原氏はもともと「藤(とう)」とも名乗っていたらしい。藤原家の家伝は「籐氏家伝」といい、北部九州一帯にはいまでも多くの「藤さん」が住んでおられる。

不比等の養女?である聖武天皇の后・光明皇后も正倉院文書のなかに「藤原」でなく、「藤三娘」というサインを残している。筆者は中臣氏に「藤」という姓を送ったのは九州倭政権ではないかという疑いを持っている。

大和政権はそれに「原」を加えて初めて自ら姓を贈ったかの如く見せかけたのではないか。光明皇后らは自らのサインに「藤原」よりもっと由緒正しい「藤」を使っていたのではなかろうか。

山科というところはどういう所なのか。もう少し当ブログNO.95を見てみよう。

 

◇中大兄は山中で殺された?

『書紀』によれば、天智天皇(中大兄、葛城皇子)は死ぬ直前、弟で皇太子だった天武天皇(大海人皇子)を枕元に呼び、後事を託そうとした。が、天武は側近に注意され、吉野に逃げて「壬申の乱」が戦われ、天武は天智の子・大友皇子の勢力を倒して即位した、ということになっている。

ところが平安時代末に書かれた『扶桑(ふそう)略記』という史書には、

一に云う。(天智)天皇、馬車に乗り山階(やましな)郷に幸す。永(なが)らく山林に交じり、崩ずる所を知らず。ただ履(は)きつる沓(くつ)落ちし處をその山陵となす。以て往きし諸皇、その因果を知らず。煞(殺)害は恒(常)の事なり。山稜は山城国宇治(うち)郡山科郷北山。高二丈、方十四町。

と記録する。

「天皇」に擬された中大兄は山科の山中で何者かによって殺害され、今宮内庁が「天智陵」だとしている土饅頭は「残されていた靴があった場所」を「陵墓とした」というのだ。

この殺害説は後の『帝王編年紀』にも引き継がれて記録されている。さらに鹿児島で書かれた『日本帝皇年代記』(当ブログNO.56参照)には、『書紀』の記述を述べたうえ、「此の儀、未だ審(つまびらか)ならず」と不信を隠していない。

『書紀』の記載が事実であるとすれば、後世、わざわざ違う話を書くはずはなかろう。なにせ『書紀』は不比等らが「これが正史だ」として宣伝と普及に努めていた「史書」だ。よほど間違いのない証言が数多くあったから『扶桑略記』などはわざわざ記録した、と考えるのが普通だろう。

さらに、『書紀』が言うように中大兄皇子(葛城皇子)は本当に「天智天皇」と贈り名(諡号)された人だったのかにも重大な疑問がある。というより、どうやら事実としては「太宰府にいて鹿児島の南九州市頴娃町で亡くなった九州倭政権の天皇」の贈り名をパクってつけた「大和の王」だったようだ。(ブログNO.95「開聞古事縁起」の証言など)。

『続日本紀』にも記載のある「九州年号」の存在からも、文武以前の「天皇」と言えば当然「九州倭(いぃ)政権の天皇」しかいなかったはずである。

 

◇山科は九州倭政権の拠点

それはそうと、山科から宇治市、八幡市にかけては古代「内郡」と呼ばれていた地域だった。『倭名抄』でも「宇治」は「うじ」でなく、「宇知(うち)」と濁らず発音するよう求めている。「内郡」であ
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八幡市では熊曾於(熊襲)族の墳墓である地下式横穴墓(図)や地上の横穴墓が大量に発見されている(当ブログNO
59「関西の熊曾於族」参照))。内氏は「武(たけし)内の宿禰」に代表される熊曾於族の代表的な氏族だ(拙著『熊襲は列島を席巻していた』参照)。

「山階」は、奈良県五條市や御所市(宇智郡)と並んで関西における熊曾於族、紀氏勢力の拠点だったのだ。興福寺の近くにも「紀寺」があるが、八幡市の「石清水(いわしみず)八幡宮」は紀氏が建立した神社として知られる。紀氏と熊曾於族は離合集散を繰り返しながらも九州倭(いぃ)政権を構成していた主要氏族だ。

要するに山科には以前から、枝分かれした九州人が多く住んでいて、九州倭(いぃ)政権の関西における拠点のひとつだったのだ。葛城皇子(中大兄)は大和政権を作った功労者でもある。だが、九州倭政権側から見れば、とんでもない裏切り者である。殺されても仕方がなかろう。山階には葛城皇子に対する怒りを充満させた多くの九州政権人がいたのだ。

いずれにせよ山階寺は、葛城皇子とタッグを組んだ中臣(藤原)氏の氏寺であるから、色濃く九州倭政権の影を引きずっていた寺だったのだ。だから「九州年号」の伝承をしっかり残していても何の不思議もない。

福山敏男をはじめ、現在の古代史家の多くが身をかがめ、頬かむりして「九州年号」の存在に知らないふりを続けている。興福寺の由来についても、この寺に伝わる『年代記』にふれることもない。「これはまずいから知らん事にしよう。な、な」というわけだ。

おいしい飯にありつくことしか考えず、これで市民の負託に応えている、と胸を張れるのか。相変わらず「帝国主義」時代と同じウソを引き継ぎ、日本を「ウソにまみれたアイデンティティしかもたない国」にしてどうしようというのか。第二次世界大戦でいかがわしい神話教育と美辞麗句にだまされてゴミ扱いされ、地獄のような戦場に駆り出され、亡くなった300万人以上の市民に対してどう謝罪するのか。問いたい。

 興福寺はまず山階に造られ、藤原京時代に橿原市石川町の厩坂付近に移り「厩坂寺」ともよばれた。さらに平城京への遷都を機に現在地に移ったとされている。「山階寺」の仏像や伝来の品のほとんどは焼失して今伝わっていないが、興福寺の由来を示す文書だけは焼失を免れて『年代記』として結実したと考えられる。

 

◇どうなりますか奈良博の聖徳太子展示

興福寺の北側、同じ春日野の奈良公園内にある奈良国立博物館が来年4月から、聖徳太子についての展示をする、と聞いた。そこで博物館がどんな展示をするつもりなのか、お聞きしたいと思い、20年ぶりぐらいだろうか、館を訪れた。どんな解説や展示をするのかちょっと気がかりだったので・・・。

このブログを読んでいただいている読者はもちろん、多くの人が今、これまでの「聖徳太子像」に疑問を持ち始めている。法隆寺や寺の主仏・釈迦三尊像についても重大な疑問があるからだ。小生もNHKがいかがわしい放送を繰り返すたびに、「事実はこうですよ」と資料を添えて通知し、善処を求めてきた。

 奈良博も、いかがわしい歴史を綴っていることがわかってきた『日本書紀』の記述をそのまま信じて、事実とはかけ離れた太子像を市民に流布してもらっては困るという思いがあった。

 館内ではちょうど英語を交えた落語の会が催されていた。館長も出勤しておられ、落語の会を聞いているという。二時間ほど会が終わるのを待っていると、館長が会っていただけるという。

 案の定、というか、訪問の趣旨を述べると、愛想のよい表情がちょっと硬くなった。そして立ち話でなくてちょっとじっくりお話ししたいというと、「私は詳しいことは承知していないので日にちを改めて専門家の担当者と話をしたらいいのではないか」という。

 「そうしていただいても結構です」と名刺を差し出し「皆さんは市民の税金を使って研究をしているわけだから、市民に間違いのない話をしてほしいと思っているんです」と言うと表情がさらに硬くなった。

怒り出し、「もう話は聞かない。市民の話を聞きだしたら何万人の人の話を聞かなければならなくなる。不可能だ」「なんであなたの話しを聞かなければならんのか。あなたが特別の人だとは思わない」とまくしたてる。

 「私ももう40年以上研究を続けている。聖徳太子などについてブログを書いているから、一度読んでほしい」と、持参したコピーを渡そうとした。が「われわれは専門家の論文なら読むが、ブログなんか読まない。何万人の人が読んでいようが関係ない」と言う。

 「専門家の意見」は聞くがそれ以外の研究者の意見は聞かないというのだ。小生らはその「専門家」が間違ったことを書いたり言ったりするケースが多いから、何とかしてほしいと思っているのだが・・・。

 この時小生は、この館長氏は小生らの意見もある程度知っていて内心困惑しているのだろうな、と感じた。そうでなかったら「話も聞かないし、書いたものも読まない」なんて言わないだろう。論争に勝てる自信もないし、読んでも反論もできないだろう。だから、耳も目も塞ごうとしているのだろうと思った。

いわゆる「守旧派」の主張の論拠はほとんどあの『日本書紀』の記述とそこから派生した話ししかない。だからこれまで通り、ひたすら「専門家仲間の城」に逃げ込んで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込み、カビの生えた展示でお茶を濁し、身の安全を図ろうという算段なのだろうか。

これでは市民は浮かばれない。血税をむしられたうえにとんでもないうそ情報だけを伝えられることになりかねない。こんなんでいいんですかね。

来年、博物館はどんな展示をするか、見守りましょう。もし事実とかけ離れた展示や解説があったら、皆さんそれぞれしっかりと文句を言いましょう。裁判に訴える手もありますね。もちろん論拠を持っておく必要がありますよ。ブログなどをしっかり読んで行ってください。(202012月)