ブログNO.134 ‶不比等の寺〟になぜ九州年号が? 奈良・大和に興福寺を訪ねた ◇九州年 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.134

‶不比等の寺〟になぜ九州年号が?

奈良・大和に興福寺を訪ねた

 

◇九州年号で時代を表示

 

134-1  奈良時代から平安時代にかけて奈良・大和の宗教界と政治を支配していた奈良市登大路町の興福寺(写真=再建された中金堂)に、大和政権が制定した年号以前の、いわゆる「九州年号」が伝えられている。一部の古代史フアンの間ではわりとよく知られている話だ。

 しかもこの寺は、大和政権の中枢部に君臨していた藤原一族の氏寺という。藤原氏の栄華の基を造った藤原不比等は七世紀末、持統女帝に取り入り、有力な後継候補であった皇子を殺害、排除し、年若い天皇・文武を立て、さらに元明、元正という女帝を立てて陰で操った。彼女らは不比等の巧妙な脅し、なだめすかしにあって手もなく術中にはまったとみられる。

 さらに新政権の統治に役立てるために、政権がいかに由緒深く統治者として大義のあるものであるかを内外に示そうとして、九州倭(いぃ)政権などの存在を抹消したいかがわしい史書『日本書紀』を作らせた。わざと天皇側近の皇子らの名をあげ連ねて『日本書紀』を作ったとし、この「史書」があたかも国家的で真っ当な史書であるかの如く装って宣伝に努めた。

まずそれまで九州倭(いぃ)政権を構成していた熊曾於族や紀氏、額田部や阿部氏など有力氏族が各氏ごとに記録していた歴史資料『墓記』を没収し(1)、さらに九州倭政権の史書である『日本記(日本旧記)』などを持って山奥に逃げこんでいた人たちに対して「禁書を持って逃げていたら殺すぞ。出せ」と脅して奪った(2)。このブログで何回かお伝えした。不比等らしい周到なやり方だ。

こんな「藤原氏の氏寺」に「本当の歴史のゆるぎない証拠」とも言える九州年号の記録が残されていたことにまずびっくりする。藤原氏一族のなかにも、本当の歴史の一端は残しておくべきだとする良心に恥じない人々もいたのだろう。

 

◇『興福寺年代記』、時代の指標に九州年号使う

 

134-2  その記録を『興福寺年代記』という(写真=明治41年、東京帝国大学蔵版復刻分国会図書館デジタルサービスより。表紙部分)。坪井九馬三、日下寛両博士が、メモ書きのような書入れのある文書を整理し、字句の朱直しもして復刻版を作ったという。「皇統年代記」として天神、地神から書き起こし、江戸時代の慶長20年(1615年)までの天皇と年号、出来事を年次に従って記録している。

著者は分からないが、各年の書き込みは仏教関係の記述が多いから、おそらく寺の僧侶による記録であろう。それぞれの記録は詳しく見ていけば通説とは違う興味深い記述もありそうだが、ここでは奈良時代以前、全国を統治していた九州倭政権が発布していた「九州年号」にしぼって見てみよう。

 

◇「善記」から「大長」まで34年号で

この記録でも「九州年号」の創始者は、他の多くの記録と同様「継体天
134-3 皇である」とする(写真)。ただこの時期の出来事や天皇についての記録は、九州倭政権の史書は焼却、或は隠されていてなく、『古事記』も一部改作されていたらしいこともあって、もっぱら『日本書紀』の記述に頼っているようだ。神武天皇を第一代とし、「日本記に有り」、持統天皇のところに「神武天皇から継体天皇の善記元年まで、以上四十一代千三百五十六年、日本記に載す」とある。

この「1356年」という数字は現在の一年を春と秋に年が変わる「二倍年暦」(3)を用いた数字であろうから実質678年ということになろう。ただ、ここでは「善記元年」を「継体天皇の14年」としているが他の例では「16年」とする例が多い。

書中『日本記』と書いているのは『日本書紀』のことだろう。二か所にこの書名が出てくる。『日本記』というと、『書紀』の雄略紀や福岡県糸島市の雷山千如寺縁起に記す九州倭(いぃ)政権の歴史書『日本(旧)記』とみられる書名である。

しかし著者が『日本旧記』を手にしていないことは間違いないだろう。年次を九州年号で記録したのは残念ながら別の資料から得た知識であろうと思われる。

九州年号を創始した「継体天皇」は、筆者の調べで福岡県朝倉市の「三嶋の藍」周辺に都していた天皇「袁本杼(えんほんじょ)」であることがわかった(注4)。『書紀』は越前・三国にいた大和勢力の王「男大迹(おほど)」を継体天皇に仕立て上げるいかさまを演じている。

『年代記』の記事では「丹波国桑田郡に尋ね奉る」と、「武烈」で皇統が絶えた時最初に後継ぎとして白羽の矢が立った倭彦王と男大迹王を勘違いして書いている。もちろん誤りだ。元年は「□梁の武帝の天監六年(507年)に当たる」という。都の所在地も『日本書紀』の記述に沿って「大和国十市郡の磐余玉穂宮」「山城国綴喜郡」などをあげている。

注目されることは、継体の子で福岡県香春町勾金に都していた「安閑天
134-4 皇」はやはり、『書紀』の記載とは食い違う「治世二年」と書く。継体と太子らが共に崩じた(あるいは殺害された)「教倒
三年」の次の年から二年間は空位があったことをここでも示している。

次の宣化の時に「僧聴」、欽明の時には「明要」「貴楽」「法清」「兄弟」「蔵和」「師安」「知僧」「金光」の八回の改元を記す。改元がちょっと多すぎる。少なくとも九州内に二朝以上の「元号を制定できる権力」が並立していた可能性も考えなければならない。

「兄弟」は『隋書』に記録された「日出る処の天子・阿毎(天)の多利思比孤」の「太陽とその兄である自分」の「二頭政治」を元号として表したのかもしれない。

聖徳太子には深い関心を寄せていて「知僧二(566?)年正月一日誕生」、「端政四年、太子御元服十九歳」、「願転三年、太子制憲法十七ヶ条」、「光充三年四月三十、太子建法隆寺」「和京縄三年、聖徳太子滅」など多くの書入れをしている。

しかしこれらの年が西暦何年にあたるかは、他の例と違うことも多い。「厩戸皇子」ではない法隆寺釈迦三尊像に写された本当の「上宮法皇」の話しであれば興味深い。が、年次や書入れの内容から見てそうではないようだ。あくまで『書紀』の記述を参考にしたものとみられる。

607年にあたる「光充三年」に「法隆寺が建てられた」という記事は興味深い。焼失した「斑鳩寺=若草伽藍」の事を言っているのかもしれない。が、そうではないとすると、「九州・太宰府の観世音寺を移築して現
134-5 法隆寺とした」という説を裏付ける記述になろう。塔の心柱の年輪年代測定値が「
594年伐採」だったし、金堂内落書きの内容などから「観世音寺」がこのころ建設されたことはほぼ間違いないからだ。書入れの基になった何らかの記録があったのかもしれない。

「聖徳」の年号は舒明天皇のところに記されている。次に「僧要」があり次に「命長」がある。釈迦三尊像光背銘文あるに「病に倒れた上宮法皇」の寿命が延びることを祈った年号かもしれない。

天皇の即位年はすべて中国の帝王が制定した年号と年で表している。これは鹿児島県薩摩川内市入来町の「入来院家古文書」にある「日本帝皇年代記」(5)などと同じ手法をとっている。

701年に大和政権が初めて制定した年号「大宝」とどうつながるか、迷った様子が見られ、七世紀末の「大化」と「大長」の順番が逆になっていて、「朱鳥元年」のところに「大化ヵ」とか、「朱鳥七年」のところに「大長元(年)ヵ」と書き入れている。

これまで何回もお伝えしていることだが、『書紀』が「大化」を645年に制定したというのはもちろん大ウソである。九州年号の「大化」を50年遡らせて書き、「改新」があったと見せかけている。

『年代記』の著者は何らかの記録を参考にして書き写したが、それが大和政権ではない九州倭(いぃ)政権(注6)の年号であったとは認識していなかったようだ。

次回ではこの藤原氏の氏寺に、なぜ「九州年号」が伝わっていたかを探る。

 

1 『日本書紀』持統天皇五(691)年八月

 十八の氏、大三輪、雀部、石上、藤原、石川、巨勢、膳部、春日、上毛野、大伴、紀伊、平群、羽田、阿部、佐伯、采女、穂積、阿曇に詔し、その祖等の墓記を上進せしむ

2 『続日本紀』元明天皇和銅元(708)年

山沢に亡命し、禁書を挟蔵して百日自首せねば、また罪すること初めのごとくせよ(「八逆の罪」の筆頭である「亡命」は死罪相当)

注3 『魏志』倭人伝・裴松之の注として「『魏略』に(いわ)く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収を(はか)りて年紀となす」とある。日本の多くの神社で行われる一年のけがれをはらう儀式・「大祓(おおはらえ)」の儀式も六月(夏越祭)と十二月の二回行われている。宮中でも「二倍年暦」廃止後も12月の大晦日(おおみそか)に行われる大祓(おおはらえ)の儀式を六月にも行うことが決められていた(「延喜(えんぎ)式」並びに「続日本紀・養老五年七月紀」など)。「二倍年暦」が実際に行われていた名残であろう。

4 当ブログNO.1314 「継体天皇」参照

5 入来院家に伝わる古文書。年代を九州年号で示している(当ブログNO.115 参照)

  注6  「倭」を「わ」と読むのは教科書で教えられている読み方であるが間違いである。『魏志』倭人伝は世紀末、中国北方の洛陽(らくよう)で作られた史書であるから北方の音、後漢の『説文解字』による「漢音」で読まなければならない。「倭」の読みは「ヰ(い)」しかない。「ワ(uwa:)」と読むのは中国南方や日本の「呉音」による読みであり、明らかな誤りである。「奴」の読みも同様に漢音の「駑馬(どば)」の「ド」であるという。「ナ」と読むのは「呉音」、そして現代中国語の読みであり間違いである。[倭]を日本側がなんと発音していたが分からないが、「井」氏を「いぃ」と発音することなどから、とりあえず「いぃ」としてみた