ブログNO.116   九州の旅 その1 やはり九州に色濃い「景行天皇」伝承 「佐賀・鳥栖市 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.116   九州の旅 その1

やはり九州に色濃い「景行天皇」伝承

「佐賀・鳥栖市近辺に都」を裏打ち


猛暑の8月、九州を旅した。以前から関わっていたNPO「東アジア交流学院」(本部・久留米市)の仲間に、「女帝・神功皇后について発掘できた事実」を話すためもあっての旅だった。「神功皇后は佐賀で生まれ、福岡の京都(みやこ)郡に葬られた」などだ。

NPOのある福岡県久留米市は佐賀県鳥栖市の隣にある。中国語や朝鮮語の講座を設けたり、中国と日本の子供たちのホームステイを援助したりしている。

そのなかで今回は‶とんでもない〟収穫があった。報告しよう。

NPOの古くからのメンバーに古庄典子さんという方がおられた。ずっと学校の音楽の先生をしておられ、今は退職されている。その古庄さんが‶講義〟の後の食事会の折、「私の祖父は神社の宮司をしていた」と話された。

古庄さんとはもう二十年来のお付き合いだが、「初めて」聞いた話だ。「初めて」ではなく何回か聞いていたのかもしれない。が、なぜか小生のアンテナに引っかからなかった。反省しなければならない。

神社は久留米市の南方約40キロ、有明海に面した熊本県玉名郡長洲町上沖洲という所にある。「名石(めいし」神社」という。今は親族の方が宮司をしておられ、景行天皇についての伝説を伝えている、という。

次の日さっそく、古庄さんの案内で、神社を尋ねることにした。禰宜の古庄力彦さんが言い伝えについて詳しくお話しくださった。以下その伝説だ。


116-1 「名石神社」(写真)には「女石(めいし)宮(沖社)」と「名石社(陸社)」の二社がある。「名石社」は景行天皇が九州遠征から帰る途中、この地(長緒浜)に着いた。地元民は喜び、天皇に「腹赤(はらあか)」という魚を献上して祝った。

一年後、6年間滞在していた日向の御刀媛(みはかしひめ)が、息子の豊国別皇子を伴って景行天皇を追ってきた。

しかし景行天皇はすでに都へ去った後で、落胆
116-2 した媛は天皇から贈られていた瑞瑗(ずいえん=勾玉)を近くの老婆に預けて、付き添ってき
11人の官女とともに入水し、海岸の岩になった。今、現地を「姫ケ浦」といい、海中から姿を表した12個の岩を媛らの魂として慰め祭っている(写真=ご神体の岩の一部と古庄禰宜)。

創建は西暦90年。これらの話は『肥後国風土記逸文』『日本書紀』などにも記されている。という。


「景行天皇」は、『記紀』によれば奈良県桜井市の「纒向の日代の宮に都していた天皇だ、ということになっている。そこを拠点にして息子の「小碓命(おうすのみこと)」と協力し、九州や関東まで支配網を伸ばした、とされる。

九州政権実在説の生みの親・故古田武彦氏は「『日本書紀』(紀)の景行の九州遠征話」の出発地は山口県周防であり、最終地点も九州内と考えられることから、話に疑問を抱き、「この話は糸島に本拠を置いていた伊都国王の『前つ君』の事績を横取りしたものではないか」とした。

筆者は古田氏の考え方を参考に、「景行天皇」の伝承を追った。そしてこの天皇は実は鳥栖市とか久留米市あたりに都を置いていた九州倭(いぃ)政権の天皇の一人であり、話の粗筋自体はほぼ『記紀』に記す「景行天皇」の事績として扱っていいと結論した。

それは宮内庁が『書紀』の記述に基づいて、陵墓を奈良県天理市の「渋谷向山古墳」と指定し、都が奈良にあったとするわりには、この天皇の伝承が関西にはほとんどない(注1)という事実を発見したからだった。景行は場所柄九州政権の天皇で、熊本県菊池市を拠点にしていた紀氏系統の人だ、と判断したのだ。その詳細は拙著『太宰府は日本の首都だった』や『熊襲は列島を席巻していた』(いずれもミネルヴァ書房)で書き、当ブログでも何回かふれた。

いちいち本をひっくり返してもらうのも大変だから要旨だけいうと、

①景行の都の名称「纒向」の「纒(まき)」は『古事記』の雄略記に記されているように「真木」である。九州北西部には樹木中の樹木、これこそ本当の樹木と称えられたすごいクヌギの巨木(真木)があった。『日本書紀』(『書紀』)や『肥前風土記』に記されている。

『書紀』は景行が遠征から帰って来た時、宮廷の百寮(ももつかさ=百官)が倒れたこの巨木をまたいで出迎えたと書く。「百官が出迎えた」というのだから、都はこの近くにあったことは間違いない。奈良の都を空っぽにして九州でお出迎えしたとでもいうのか?

奈良には巨木伝説はなく、奈良の「纒向」は佐賀や筑後の人が大和へ進出した結果、故郷を懐かしんで付けた地名であろう。

②景行の都はこの「真木」と向かい合う位置にあり、「日光がさんさんと降り注ぐ(日代)宮」だった。『肥前の国風土記』は全編を通じてこの天皇の事績で埋め尽くしている。鳥栖市には今も「真木町」や小字「都」がある。ここは筑後川沿いの町で、西北九州の交通の要衝だ。どこへ行くにもここを通らなければならない。市の北部丘陵からは多数のカメ棺、すばらしい刀の鞘(さや)、神殿風建物跡などが出土している。

③都に帰って景行がまず「遊んだ」のは「酒殿の泉」だったという(風土記)。「酒殿の泉」が現在の鳥栖市酒殿町を指すことに異論はない。白濁した温泉が湧くところだ。景行は遠征から帰ってこの温泉で‶命の洗濯〟をしたのだ。

④熊本県の北端・山鹿市の、景行を祭る「大宮神社」の祭りである「灯篭祭り」は有名だ。この祭りは景行の「始めよ」の一声で祭りが始まる。近辺の英雄だ。大宮神社は景行の行在所があったところという。佐賀の「浮流踊り」は景行らの弥栄を祈る祭りだという。

⑤「景行の九州遠征説話」は、九州北西部を支配していた紀氏の一派と考えられる景行が、その他の九州地域のほとんどを支配下におさめていた熊曾於族との戦いの歴史を凝縮した説話ととらえられる。

などなど。


「名石神社」の伝承も、奈良時代に「正史」とされた『日本書紀』の記述と齟齬(そご)しないよう、細部を変えて伝えているようだ、変えないといかがわしい歴史を広めようとしていた藤原不比等らに潰される危険もあったろう。九州の多くの神社が社伝を変化させて逆風の世を乗り切っている。

例えば、同じ名の著名な神社が関西にあると、「当社は関西のそこから勧請(かんじょう)した」と社伝を変える。実際の「元祖」は九州にあったのに、である。

権力の関西畿内説に疑いを抱かせるような伝説は許されなかったのだ。神社もそれぞれの時代を生きていかなければならない。

「名石神社」でも景行があたかも関西にいた大王であるかのように話を変えられていると思われる。「名石神社」の伝説の実際はこうだろう。


遠征先の日向での妻であった御刀媛が、鳥栖周辺にあった景行の宮を訪れようとした。熊曾於族の本拠地である日向では、媛は景行が帰った後窮地に立たされた。

曰く「敵に寝返った女」「子まで宿したふしだら女」など厳しい非難と叱責の声だ。媛はいたたまれなくなり、故郷を後に景行を頼ることにした。

長洲までたどり着いた媛は景行の宮廷に対して使いを送り、息子が景行の子供であることを認め、何らかの保証をお願いした。

だが、宮廷にいた正妻や媛たち、そしてその背後に控える勢力らの厳しい抵抗にあい、景行自体の愛も疑わざるを得ない状況になった。要求も容れられず、いまさら故郷にも帰れず、万事休した媛は絶望し、自ら命を絶つしか方法がなかったのだろう。


このようなことを物語っていると考えられる。景行の都が近くにないと起こりえない話だ。話しの時代は4世紀始めごろで、景行が日向にいたのは現在の数え方では3年だ(二倍年暦)。「西暦90年」は誤伝だろう。

『記紀』によれば景行には記録されているだけでも7人の妻がいて、皇子は合計80人もいたという。おそらく征服地との関係をより深く築くためもあって、景行はさらに多くの女性と関係したものと思われる。

そして皇子らはそれぞれ関西や関東に派遣され、「国造(くにのみやつこ=国主)」とか「稲置(いなぎ=軍の長官)」、あるいは「県主(あがたぬし)」などに任命された。御刀媛の息子・豊国別皇子は「日向国造」になったという。


この後、近くの「四王子神社」も訪ねた。小碓の命ら景行の息子4人を祭っているという。なぜ4人だけなのかはわからない。おそらく小碓の命らを生んだ正妻「針間(はりま)の伊那毘能大郎女(いなびのおおいらつめ)」の居所であったとか、何らかの関係の深い場所だったのではないだろうか。

「名石神社」や「四王子神社」を訪ねて、改めて「景行天皇」は、九州倭(いぃ)政権の大王で。その都は鳥栖辺りにあったことを確信した。


注1 唯一『播磨国風土記』賀古郡に記されている「景行天皇と川の渡し」の話は、九州遠征の折、天皇が「日向の大川を渡った」時の話を脚色して「摂津国の淀川」での話に変えた、と考えられる。摂津の国の淀川上流は「木津川=紀(木)氏が管理する川」とか「宇治川=熊曾於族・内氏が管理する川」になっている。周辺には「紀伊郡」や「内郡」があった。熊曾於族の地下式横穴墓や紀氏の前方後円墳が築かれている地域だ。九州から来た紀氏や熊曾於族の人々が伝えた話であろう(拙著『熊襲は列島を席巻していた』(2013年 ミネルヴァ書房 252頁参照)。

景行天皇の正妻が「針間(播磨)」の人で、九州の播磨(福岡県筑紫野市付近?)のことを言っているのに、関西の播磨(兵庫県)の話だと読者が間違えるように、わざわざ「風土記」にこの話を挿入した疑いもある。(20199月)