ブログNO.115 継体紀のなぞと福岡・巨大前方後円墳 「入来院家文書」に解決の糸口 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.115

継体紀のなぞと福岡・巨大前方後円墳

「入来院家文書」に解決の糸口

 

 鹿児島県川内市で見つかっている「九州年号」を記した古文書『入来院(いりきいん)家文書・日本帝皇年代記』については当ブログNO.56で報告しておいたが、さらに検討を加えたところ、『日本書紀』(書紀)継体紀に記されたふたつの死亡記事のなぞや福岡県田川郡赤村で発見された巨大前方後円墳のなぞが明快に解決することになりそうなので報告したい。


◇『百済本記』の「継体」は九州の天皇

『書紀』継体紀の最後に奇妙な書入れがあり謎のひとつとされてきた。「継体」の死亡年についての記事である。『書紀』はこう記す。


 或る本に云う、天皇、二十八年歳次甲寅(五三四年)に崩ず。しかるを此に二十五年歳次辛亥(五三一年)に崩ずと云へるは、百済本記を取りて文を為すなり。その文に云へらく、太歳辛亥の三月に軍進みて安羅に到り、乞乇城を営(つく)る。この月に高麗、その王、安を殺す。又聞く、日本の天皇及び太子、皇子、倶(とも)に崩薨。この由に言う辛亥の歳は二十五年に当たる。後に勘校する者知らん。(。 、 カッコ内は筆者)


この記事についてはさまざまな研究者がさまざまに考えてきた。いちいち記さないがいずれも的を得ることはできなかった。それは、これまでの研究者は皆「継体」は大和にいた大王だと思い込んでいたからだ。

だが筆者は「九州年号」の研究から、「継体天皇」は福岡県朝倉市に都していた天皇であったことを突き止めた。『日本書紀』は神武天皇、天智天皇などと同じく、大和の大王位についた人に九州政権の天皇に贈られていた諡号をパクって記し、歴史を改ざんしていたのである。『入来院家文書・日本帝皇年代記』はこう記す


廿七(代)継體(「ケイテイ」とルビ)天皇  応神五世之孫彦主人(の)五男、諱男大迹。五十四歳(にて)受禅。元年丁亥(五〇七年)。治(世)廿五年、教到元年(五三一年)正月崩。八十三歳、山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国、即位元年(は)梁(の)武帝天監六(五〇七)年、後魏(の)永平二(五〇九)年(のころにあたる)。・・・壬寅(の年五二二年に)善記治世第十六年年号始之。此の年南梁(の)司馬、達等来朝。・・・丙午(五二六)年正智、延和元年 イ本(=異本・「正和」の誤伝か)。辛亥教到元年二月継躰天皇崩。八十三歳。九州彦山立。無遊始・・・。壬子 癸丑(の)前二年欠主。(。 、 カッコ内は筆者)


『文書』の記す年次は、『書紀』の男大迹(おおど)と『古事記』()に記す本当の「継体天皇・袁本杼(袁氏。「オホド」ではない)の年次、さらに独自の資料による年次がごちゃまぜになっているようで、きちんとした年月日を確定することは難しい。

文中の「山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国」は『書紀』に引きずられた記述であろう。一方の「袁(えん)本杼」は『記』によれば仁賢天皇(袁祁=えん・き)の孫に当たり、「近つ淡海」、すなわち遠賀川河口の洞海湾近辺?(注1)に住んでいたという。そしてこの人は丁未(五二七)年に四十三歳で亡くなったと記す。

年次の伝承は合わないが、「磐井王朝」を潰した新しい「継体朝」ではもう以前からの「二倍年暦」を使わなくなったということだろう。『文書』の最初の方では「継體天皇が死亡したのは『百済本記』と同じ辛亥(五三一)年の正月であった」と記している。

小生が注目している記述は最後の「壬子(五三二年)と癸丑(五三三年)、(即位)(の)二年は欠主」という記事だ。『記紀』は何も書かずに「継体」の死後、次の「安閑天皇」がすんなり跡目を継いだが如く書いている。が、『文書』では「二年間天皇位は空位であった」と伝えるのだ。

この記事に続いて「安閑天皇」が記され、「甲寅(五三四)年、六十八歳で即位し、治世は「二年間」としている。


◇「空位」と「崩薨」も意味は?

筆者の以前からの疑念のひとつは、継体の后「手白髪姫」の正嫡である「欽明」がすぐに跡を継がず、なぜ媛腹でしかもかなり高齢の「安閑」が跡を継ぐことになったのかということだった。

『文書』の記載を見てハッとした。『記』は「欽明」には「大郎子(おおいらつこ)という兄がいたと書く。が、何らかの事情でその兄が継げなくなり、「安閑」「宣化」という媛腹の子が天皇位についたことを記している。その後やっと正嫡の「欽明」が皇位を継いだ、と。

なぜ尋常ではない事態「空位」が起きたのか。宮廷内で激しい権力争いがあり、「尾張の連らの祖・凡連(おおしのむらじ)」が継体の媛として送り込んだ娘「目子郎女(めこのいらつめ)」(『記』)らが、自分の子である「安閑」「宣化」を天皇にするため、「継体の死」に乗じて「太子・大郎子」や太子に組した「皇子」らを殺害したのではないか。こちらの方が現実味のある想定だと考えられる。


古来いずこの国でも権力争いは血で血を洗う凄惨なものだ。が、皇太子などが「殺害」されたと考えれば、それは「毒殺」であった可能性も高かろう。そうでなければ二年間の激闘期間があったにせよ、明らかな加害者らが、宮廷内外の反対勢力の非難に耐えて天皇位を獲得することは難しいだろうからだ。

現今の「和歌山カレー殺害事件」でも犯人が誰かを特定するのは難しい。「太子と皇子」殺害の張本人がどの勢力の仕業であったのかはっきりしないまま、「二年間」の暗闘の末、「凡連」らの勢力が何とか勝ちを得たのではなかろうか。

『百済本記』で使われた「天皇、太子、皇子≪崩薨≫」の字義は、彼らが事故や戦闘で死んだのではないことを如実に物語っている。

この「二年間の空位」こそ『百済本記』にいう「天皇、太子、皇子ともに崩薨」の実情なのではなかろうか。「九州年号」を創始したのはもちろん「九州王朝の天皇・袁本杼」であり、半島と密接な関係をもっていたのはいわゆる「大和政権」ではなく「九州倭(ヰ)政権」であった。そう考えると『文書』と『百済本記』の記載はぴったり一致することになる。


◇福岡県赤村に巨大前方後円墳

この「巨大古墳」がある場所は安閑天皇や「本当の神功皇后陵」、
115-1 そして「日出る処の天子・天の多利思比孤」の都があると考えられる福岡県東部、京都郡みやこ町の隣村、田川郡赤村である。
グーグルアースで計測すると全長は最大に見積もると470、あるいは465㍍ほど。後円部の直径は180㍍前後、前方部の幅は220㍍前後はある。日本一の巨大前方後円墳として知られる大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳)は、全長486㍍というから、これに次ぐ列島二番目の巨大前方後円墳ということになる。

丘を切り取って墳形にした「丘陵切断型」の古墳らしい。後円部の盛り土はきわめて細かい土砂で、石混じりのいわゆる山土とはまったく違っている。さらさらに加工した土を盛っているようだ。

「古田史学会・東海」の石田泉城氏が、グーグルアースを使ってこの前方後円形地形を見つけ、20181月、インターネットブログ『古代日記・コダイアリー』で公開している。当ブログNO.58で紹介した。


◇ほぼ間違いなく安閑天皇の陵墓


もしこの古墳形地形が間違いなく巨大な前方後円墳であるとすれば、誰が埋葬されているのだろうか。もっとも確率の高い人は安閑天皇であろう。それは次のような理由からだ

①安閑天皇は当地赤村周辺に7ヶ所もの屯倉を集中的に設置し、『記紀』によればその都は「勾の金の箸の宮」とされる。隣町の香春町勾金(まがりかね)付近だ。この古墳形地形の脇を流れている御祓(みはらい)川の下流約15キロに安閑の都の一部と考えられる「浦松遺跡」がある。

 ②安閑天皇の御陵について『記紀』は「河内の古市の高屋の丘」にあると書いている。「河内」は今、大阪平野の海岸部を指すと考えられ、宮内庁が指定している御陵は「河内」の羽曳野市古市にある。が、福岡県東部のこの地域は「元祖・河内の国」である。(当ブログNO.59参照)「河内」の地名が集中し、特に古墳のある場所付近は「本河内」と言っていたという。古墳近くに立てられている「圃場整備記念碑」にもしっかり記されている。

③「高屋」は隣接の京都郡みやこ町に現存する。「古市」は行橋市の「椿市」を指していると思われる。古くから「歌垣」も催されていたという市(いち)である。奈良県桜井市の「第二次・椿(海石榴)市」の本家に当たる場所だ。

 ④この古墳には埴輪や葺石などがなく、完成された古墳とは言い難い。安閑天皇は治世わずか2年という〝短命〟天皇だったという。生前から自らの墳墓を築く「寿陵」が当時の常識である。後円部や石室などは何とか造ったが、完成を見ずして亡くなった。後の天皇らも世継ぎのゴタゴタなどで面倒を見ず、ほったらかし状態になったものと考えられる。

 ⑤巨大な墳墓を造ろうと考えたのは「安閑」が安定した権力を持った天皇ではなかったからであろう。実際は宮廷内外に多くの敵に囲まれていたと考えられる。巨大な墳墓を造ってみせ、政敵らに力を誇示したかったと考えたい。関西の巨大古墳と同じ意図「威喝」が感じられる。安閑がゆるぎない権力を持っていたら、三世紀の魏の文帝(曹操)が目指し、日本の九州地方にも伝わっていると考えられる「薄葬思想」に基づいて、他の古墳と同様、小型に造られただろう。


 いずれにせよその御陵には、皇后の「春日の山田の皇女」と妹の神前(かむさき)皇女を合葬したという。その石室も巨大であろう。奈良・飛鳥の見瀬丸山古墳(全長318㍍)をはるかにしのぐ石室(284㍍以上)が構築され、継体朝の文化を証明する数々の遺品が眠っている可能性がある。


 報道では、この‶発見〟に関して何も知らず、さらに「九州にそんなものはないはずだ」といういかがわしい通説だけを頼りにした「研究者」や、「定説に触れる恐れのある遺跡にはコンクリートで蓋をしてやった」と自慢げに放言し、ひんしゅくをかっている九州大学の元教授が「古墳ではない。前方後円墳に似た自然の地形だろう」などとコメントしている。


◇『日本帝皇年代記』とは

『入来院家文書』は、一九八九年に「市民の古代」会員が全国の史書を探索して「九州年号」集めた『市民の古代 第11集』(新泉社)でも漏らし、その後の「九州年号」の研究から抜け落ちてしまっている感があった。

『記紀』や『帝王編年紀』など複数の文献も参考にして記述されているのではないかとみられ、「大和政権一元論」に沿った記述もある。しかし、「継体」以後「天武」までの年代では四十二個の「九州年号」(うち九個は重出)で表記するなど独自の記載もあり実に興味深い古文書である。

「入来院家文書」については東京大学史料編纂所山口隼正氏の著述「長崎大学教育学部『社会科学論叢』第六四号 2004年」によった。


1
九州の「淡海」は、洞海湾近辺のほか博多湾の住吉神社付近、あるいは有明海などを指していたと考えられる。