ブログNO.109 「九州古代史の会」を惜しむ 「雑物」に乗っ取られ衰微進む | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.109

「九州古代史の会」を惜しむ

「雑物」に乗っ取られ衰微進む

 

 故古田武彦氏が切り開いた列島の古代史解明に、一定の役割を果たしてきた「九州古代史の会」が約40年の歴史を終え、終りを迎えつつあるようだ。古田氏の業績を引き継ぎ、それを発展させようとする会員は少なくなり、会誌の内容も年一日のごとくすでに分かりきっていることを繰り返したり、他人の業績を盗んで、自分が発見したかの如く発表するなどその研究、普及機関としての衰退ぶりは目を覆いたくなる。

 会が発足したのははっきりしないが1978年ごろだと思う。古田氏が著書『「邪馬台国」はなかった』や『失われた九州王朝』を発表。古代史学界に大旋風を巻き起こした。これに触発されて古田氏の研究に賛同し、支援しようとする人々が「古田武彦を囲む会」を結成。すぐに全国組織「市民の古代」が結成された。

 「市民の古代」の会の九州在住者があらたにつくったのが「九州古代史の会」だ。会員には灰塚照明、荒金卓也、兼川晋ら隠された九州各地の伝承や新資料の発掘を通して新たな見解を披露する論客がたくさんいた。

もちろんすべての論客が間違いのないことを主張していたわけではないが、なにせ生き生きと議論し楽しんでいた。議論はやがて押しも押されぬ古代の真実を浮き彫りにしていった。

このうち灰塚、荒金氏は鬼籍に入り、兼川氏も脳梗塞で倒れている。

 小生は当初から彼らと接触し、情報を得て記事を書き、古代史の真実をひとつでも市民に知ってもらえば幸い、と九州政権説の周知に努めた。新聞記者という職業柄、ひとつの組織に入り込むことはできないので、組織の外から会員と親しくし、多くの貴重なデータを学んだ。

 会が転機を迎えたのは1996年ごろだ。古田氏と会の幹部らとが機関誌の編集や考え方の違いをめぐって対立。互いに不信感が高まり、抜き差しならない状態に陥った。そして会は古田氏抜きでともかく「倭国を徹底して研究する-九州古代史の会」とし再出発した。

 小生は2003年に新聞社を退職し、記者というしばりもなくなり、関西に住み始めたので同じ「市民の古代の会」を引き継いだ関西の「古田史学の会」の会員になった。すでに小生はこの時、古田氏の論をさらに進めた『太宰府は日本の首都だった』(ミネルバ書房)などを発表していた。

 ところが「古田史学の会」もだんだん古田氏が命をかけて切り開いた説をさらに裏付けたり、発展させる努力もできず、古田氏の業績を賛美するだけの会になってきた。

 小生は中国の史書に記された日本の国名「倭」について、『説文解字』の記述などについて検討を重ねた結果、「わ」でなく「ヰ」としか読めない漢字であることを知り、このことを会で発表したことがある。

 ところが会の会長の座を狙っていたらしいある会員は「古田先生はそんこと言っていない」などと猛烈に噛みついてきた。会誌で何度かやりとりをしたが、本質的な議論は全くせず、ほとんどでたらめな足引っ張りといっていいような文言を並べたてて、何回も狂犬の如く「先生の言う通り≪わ≫と読むべきだ」と繰り返す。

 こんな話にもならないバカを相手にするのは時間の無駄だ、と会を辞めた。この「狂犬男」?は首尾よく会長の座に収まったが、同じように狂犬ぶりを発揮し、そのツケは会員に跳ね返って会は今、会員も激減しガタガタの状態という。

 「九州古代史の会」の会長をしていた兼川氏が脳梗塞で倒れた。2009年ごろのことだ。氏は「会も終わりにしたい」という。それでは古田氏の新しい業績を発展させる九州の拠点が亡くなる。惜しいと思い、仲間と語らって会を存続させることにした。小生も新発足の一員として会の顧問を務めさせていただくことになった。

 去年のことだが、ここに例の関西の会の「狂犬ども」が乗り込んできた。彼らは晩年の古田先生と同様、九州に足場を持たず困っていた。そこで言葉巧みに「九州の会」の役員に近づき、「関西の会」との合同話しを持ち込んだ。

「九州の会」の役員らは「会は研究機関としてレベルが低い」という会員の声もあり、会員の不満に直面していたためか、すぐに話に乗った。「古田会」の役員らのレベルと「九州の会」の役員らの研究レベルはよくあい、俗世の名誉欲も同じだったらしい。

会報には「古田会」役員らの間違いだらけや根拠の薄い論が堂々と掲載されるようになってきた。特に最近では、すでに世界の考古学界の常識になった遺跡の年代を放射性炭素(C14)によって測定するという方法に対して、『日本書紀』による年代判定を基礎にした旧来の方法を採用して遺跡の年代を想定しようというバカげた主張を繰り広げている。

 自らの努力で新しい事実やデータを発掘することができず、遺跡の年代を偽り、列島の古代史をごまかしてきた、あるいは勘違いしてきた「守旧派」の主張を「よし」としようという主張だ。「九州古代史の会」はさらに進んで、疑いを持った会員の反論を掲載しないという「暴挙」にまで進んだ。

いかがわしい旧来の論に組みする論を展開しようとするこんな会の、「顧問」を務めているということが恥ずかしくなって、すぐに退会することにした。

 亡くなった古田先生が会の現状をみてどう見ているか気になる。先生は生きておられる時から、会員と意見が合わないとみると「あなた方勝手にやりなさい。私は私ひとりでやる」と言っていた。だから自分の研究が発展しようと発展しまいとあるいは平気かもしれない。

 単独で研究を進めるというのは多くの愚論に左右されないといういい面をもち、すごくいい事である。だが一方で他人の業績に無頓着になると、自分の間違いに気づかない、あるいは重要なことがすっぽり抜け落ちてしまうという弱点もある。小生は先生ほど強くはないが、世間体はあまり気にならない。今後も自分ができる範囲で多くの方の業績に学びながら研究を進めていくつもりだ。(2019年3月)