ブログNO.107 ‶行方不明〟の長門城を発見 山口県萩市 巨大石塁「グロ」 | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.107

‶行方不明〟の長門城を発見

山口県萩市 巨大石塁「グロ」


  山口県萩市に実家があり、現在鎌倉にお住いの日野さんという方から、去年月中旬だったか、お電話をいただいた。実家の近くに「『グロ』と呼ばれる大きな石組がある。鎌倉時代のもので、元軍の来襲に備えた防塁だとされていますがよくわからない。一度見ていただけないか」と依頼を受けた。このブログの愛読者だとおっしゃる。

博多湾に設けられた元寇の防塁が萩市辺りにまであるのか、とびっくりしたし、初耳だった。まったくその存在も知らなかったので、何か手掛かりはないかと思い、インターネットで調べてみた。

問題の石垣は萩市

(あぶ)
鵜山(うやま)というあるらしい。写真を見る限り、石垣のさはかなり高く、アーチ型の出入り口まである。これは石垣というより石塁だと、何かしら強い興味をおぼえた。そこで、去年11
月下旬に現地を訪れ、日野さんや地域の皆さんの案内でその遺構を見せていただいた。

 ただただびっくり、というのが初めて見た時の感想だ。

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一般的に言って九州、山口の遺跡は「中央の考古学研究者」や九州大学などの研究者らから、「ただの田舎の造り物だ」などと卑屈きわまる評価を与えられていて、人々もそうかな、と思ってしまうケースが多い。なにせ一般の人は、彼らから「日本列島の中心は古代から奈良・大和にあった」と思い込まされているからだ。

鵜山は萩市の東端、島根県境に近いところにある岬だ。小高い丘になっていて、累々と続く石垣は総延長二キロ以上はありそうだ。高さも四メートルを超えるところがたくさんある。恐れ入った。これは何かしら古代史の秘密、例えばもっと古い、国家的な事業による造作物ではないかと直感した。

思い出したのは『日本書紀』天智紀に記されている「長門の城」だ。下関市付近にあると想定され、県教委や全国組織の「古代山城研究会」などが戦後さんざん探しまわっていた。が、影も形もない。最近は『日本書紀』の記述はウソかもしれない、などとあきらめ状態の山城だ。

確かに『日本書紀』は、藤原不比等の命令によって造られたウソ満載の「大和政権PRの史書」だ。しかし「長門城」については二回にわたって記述し、しかも築城者をわざわざ百済から招いた築城技術者の「答本(火偏付き)春初」だと記し、詳しい。太宰府の大(野)城などと並ぶ国家的重要防衛施設であったことは間違いない。

「グロ」は龍という字に土偏をつけた字で、字の意味は「大蛇」らしい。石塁は鵜山全体を囲むように残っている。多くは後の時代に柑橘類の畑として開墾されたため、かなり動かされているらしい。対岸の北、真正面は6、7世紀に我が国と激しく戦っていた朝鮮の「新羅」国だ。


現在この遺跡は13世紀末の「蒙古襲来」の折に築かれた防塁であるということになっているようだ。現地の近くで以前、石製の碇(いかり=写真。長さ2㍍以上、太さ約30センチ)が採集されており、これが元
107-2 軍のものであるとされた。そして鎌倉幕府により、鵜山近くに元軍の襲撃に備えて数人の御家人が配置されたという記録がある。そのことによる想定である。


いろいろ検証してみた。まず「元軍の碇」について


元軍が襲来を繰り返したのは博多湾と西側の鷹島周辺だけであり、船が台風によって大挙沈んだのもこれらの海岸付近である。博多湾から鵜山までは200キロ以上も離れており、巨大な石製碇(写真)が博多周辺から鵜山周辺まで流れ着く可能性は全くない、と考えられる。

しかもこの鵜山周辺に元軍が来たという記録もない。

九州大学教授で中世史に詳しく「蒙古襲来」(山川出版社)の著書もある服部英雄氏は、著書の中で同様の見方をし、次のように述べている。

碇は江戸時代末までに使われた船の碇であることは間違いない。しかし、当地(阿武大井奈古)は毛利藩が密かに設けていた密貿易の拠点(東方=唐坊)であり、宋や明の商船が絶えず来航していた。これら商船の碇である可能性が高い。元軍が使用した碇がここまで流れ着くなどと言うことは考えられない。

 とされる。小生はこのほか江戸時代の北前船に使われていた碇の可能性も考えなければならないと思う。いずれにしろ元軍の碇とは関係なさそうだ。

②防塁説について

 対元軍の防塁が築かれていたのは博多湾周辺のみであり、鵜山周辺に防塁や警固所を築いたという記録はいっさいない。また、博多の防塁は高さがほとんど2メートル内外であり、「グロ」の如き高さ4メートルもある石垣は対騎馬戦用として必要ない。築造記録もなく様式も全く違う。「防塁と同じものだ」という見解はまったくおかしい。

③ 『日本書紀』天智紀によれば7世紀ごろに唐と新羅の来襲に備えて西日本各地に11の城を築いたと記されている。多くの城は発掘調査などにより、その場所や施設の大要が分かりつつあるが、「長門城」は長年の捜索のかいもなく、唯一いまだにそのおおよその場所さえ分かっていない。

 ④ 山口県教委や民間の全国組織・古代山城研究会(本部・西宮市)は、当時の政府は大和にあったといういかがわしい通説に惑わされ、「長門城」があるとすれば瀬戸内側しかないと思い込み、その方面を虱(しらみ)潰しに探していた。もちろん探し出すことは出来なかった。

⑤ 鵜山は北方真正面に朝鮮・新羅に相対する位置にあり、唐・新羅の連合軍に対する防衛拠点としてうってつけの場所にある。

⑥ 新羅から鵜山に向かう途中に孤島・見島があり、奈良・平安時代という防衛の前線基地だとされる遺跡が発見されている。九州、山口の遺跡の年代は理化学的年代測定を実施することなく、九州・山口は後進地域だとの誤った考えから、九州大学などによって百五十年から三百年新しく考えられているケースが多い。見島の遺構も二百年前後間違えられている可能性が高い。鵜山とともに強敵・新羅を意識した防衛拠点である可能性が高い。

⑦ 「グロ」の内部で一か所、焼けた粘土の塊が数多く見受けられた。古代山城に欠かせない武器修理用の「鍛冶炉」の可能性がある。

筆者もここ二十数年、太宰府を囲み、さらに瀬戸内海を望む四国、中国
107-3 地方の要衝に築かれた山城はほとんど見て回った。また、朝鮮半島でも数カ所の古代山城を見て来た。

朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国に加えて倭(いぃ)国による四百年近い激闘の現場だ。山城は合計二千を超える。朝鮮半島のものは格好良く整備されたものが多く、見学してもあまり参考にならなかった。が、雰囲気だけはなんとかつかめた。

答本氏ら百済の築城技術者が築いた古代山城の石塁の多くも、切り石でなく自然の石をたくみに利用している。(写真=百済・仁存城の石塁)「グロ=大蛇」と同じだ。

検討した結果、この遺跡は元軍の襲来に備えた防塁などではなく、防塁より七百年以上古い七世紀前半ごろ、唐や新羅との衝突を覚悟した九州倭(いぃ)政権が国家の存亡をかけて築いた防衛施設・「長門城」の遺構であると判断するに至った。

もちろんこの直後、九州倭政権から列島の支配権を奪った大和政権とは関係のない遺蹟であり、「白村江の戦い」に負け、唐の進駐軍が太宰府などに来ている状況下で造れるような代物ではないことは言うまでもない。

 それにしても「グロ」は荒廃一歩手前にある。「グロ」の内外を早急
104-4 に発掘調査してほしいものだ。きっと兵舎や倉庫、鍛冶工房など当時の山城に欠かせない施設、遺構が発見されるだろう
。その際欠かせないのは放射性炭素(
14C)や熱残留磁場測定などによる理化学的年代測定だ。

城の築造年代についての『日本書紀』の記述はまず虚偽であることは間違いない。出土土器などによる思い込みや安易な年代判定ではもう世間は納得しない時代だ。世界の考古学界が信頼し、使用している年代判定で間違いのない築造年代をはじき出し、市民の負託に応えてほしいものだ。