ブログNO.56 『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口 ―「九州年号」記載「入来院家文書」に― | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.56

『書紀』継体紀のなぞに解決の糸口

―「九州年号」記載「入来院家文書」に―

 

はじめに

 鹿児島県で見つかっている「九州年号」を記した古文書『入来院(いりきいん)家文書・日本帝皇年代記』について検討したところ、『書紀』継体紀に記されたふたつの死亡記事や「二人の神武天皇」のなぞが明快に解決することになりそうだ。『文書』の実態と「なぞ」について報告しよう。

一九八九年に「市民の古代」会員が全国の史書を探索して集めた『市民の古代 第11集』(新泉社)でも漏らし、その後の「九州年号」の研究から抜け落ちてしまっている感があった。

その原因のひとつは、記された「九州年号」を「後世に作られた架空の年号」

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とした国史学界の姿勢や、『記紀』とは違う伝承を多く含む内容から、積極的にその存在がアピールされなかったことにあろう。

①最初に朝河氏が紹介

 『入来院家文書』は、鎌倉中期に関東の相模国から鹿児島県薩摩郡入来(いりき)町周辺に地頭として下向した渋谷氏の一支流・入来院家に伝わる文書。渋谷氏一族は南九州では島津家に次ぐ大族であった。文書が発見、公表されたのは一九二五年で、米エール大学教授の朝河貫一氏(後に東京大学史料編纂所長)の英文と和文両方によるものであった。その後同史料編纂所の山口隼正氏らの探索、研究で古文書のすべてが完全にそろったという。

この『文書』がほぼ完成したのは一五五七~八六年の正親町天皇の時代で、引き続き一六四六年ごろまで加筆が続いたらしい。特に中世史の貴重な資料として注目されているようだ(注1)。

『記紀』や『帝王編年紀』など複数の文献も参考にして記述されているのではないかとみられ、「大和政権一元論」に沿った記述もある。しかし「神武」以後の‶天皇〟については即位年や没年、中国王朝との年代比較、特記事項を、「仲哀」以後の天皇については都の所在地なども加え、「継体」以後「天武」までの年代を四十二個の「九州年号」(うち九個は重出)で表記するなど独自の記載もあり実に興味深い古文書である。



②「天神」に地元の神?

問題の「九州年号」は年代記の「第二九番」に記されている。天神七代~地神五代から始まる系図の様式をとっている。

天神七代の名は『古事記』(以下『記』)と少し違い、「国常立尊(くにのとこたちのみこと)」から始まるが、第二神を「国狭槌(くにのさづち)の尊」(『記』は「豊雲野神」)、第三神は「豊斟渟(とよのくむぬ)の尊」(同・宇比地邇、須比智邇の神夫婦)、第四神を「泥土瓊(うひじに)、沙土瓊(すひちに)の尊」夫婦(同・角杙(つのくひ)、活杙神夫婦神)。

第五、六、七神は、使った漢字は違うものの『記』と同じでそれぞれ「大戸之道之尊、大戸間邊の尊」、「面足(おもだる)、惶根(かしこね)の尊」夫婦。「伊弉諾(いざなぎ)、「伊弉册(いざなみ)の尊」夫婦となっている。

興味深いのは第二神の「国狭槌尊」で、『記』では「天神」ではなく山の神「大山津見」と「鹿屋の比売」夫婦の子として登場する。薩摩ではこの夫婦は「地元の神」としてとらえられていたのだろう。「大山津見」の娘でニニギと結婚したという「阿多の姫」(神阿多都比売、別名木の花の咲くや姫)には薩摩半島南端を表す「阿多」という地名が付けられ、「阿多の姫」の母親「鹿屋の姫」の名も現在もある大隅半島の中心都市・鹿屋市として残っているからだ。


興味深いのは「天照」は「治天二十五万歳」、「正哉」は「治天三十万歳」、「彦火々出見」は治天下六十三万七千八百九十二年」など『日本書紀』に記す長大な年暦が記されていることだ。いったいどんな数え方があったのか。わからないが単なる想像上の年暦ではなかろう。古代インドの経典にも長大で不思議な数字が躍っている。

その下段には「震旦」(オーロラ。中国のこと)として、「盤古首王元 一万八千歳」とある。「盤古」は「犬祖伝説」にも出てくる中国の少数民族の始祖犬の名前でもある。鹿児島は中国沿海部から渡来した熊曾於族の日本列島における故地であるからわざわざ書いているのかもしれない。さらに「黄帝有熊氏」「堯」「舜」「禹」など神話上の名も連ねている。


③神武天皇は紀元前後の人?

「神武天皇」については

ヒコナギサ・ウガヤフキアエズの尊の第四の御子、母は海神の女(むすめ)也、五十二歳で即位。元年辛酉、治七十六年二月崩。百二十七歳。即位元年は周の恵王十七年(紀元前八世紀)辛酉、仏滅(紀元前5世紀)後二百九十年なり。四十五歳(の時)日向国より備国中高嶋宮に移る。次に大和国に移る。即位三十三年この国名秋津嶋。五十八年熊野に始めて神が降りる(現代風に 。 、付きの読み下し文にした。カッコ内は筆者)

と書く。

筆者は、『日本書紀』(以下『書紀』)は九州に実際にいた大王の諡(贈り名)をパクり、別人をそれぞれ「神武天皇」や「継体天皇」に仕立て上げて記述していることを‶発見〟した。


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現在出回っている『記紀』は実際九州にいた「神武天皇」のことをいっさいカットしていると考えている(注2

重要なことは『文書』でも「神武天皇」をはじめ古代天皇の年齢はすべて「二倍年暦」(3)で書かれていることだ。当時は間違いなく年の数え方は『魏略』に記録されたこの「二倍年暦」であったことがわかる。『文書』の筆者らはこのことに気付いていないが、言い伝えを正確に伝えようと努めていたことがしのばれる。

ちなみに「神武」は百二十七歳(『記』は百三十七歳)、「綏靖」八十四歳(同四十五歳)、「崇神」百二十歳(同百六十八歳)、「垂仁」百四十歳(同百五十三歳)、などとしていて『記紀』とは違う伝承を伝えている。

「二倍年暦」伝承の結果『文書』では「神武」の時代を「周の恵王」の時代、ととんでもない判断をしてしまっている。また『文書』の筆者が「仏滅」がいつのことと認識していたかはよくわからない。

『文書』が貴重なのは各天皇の「治世」をもれなく記録していることだ。そこで年代がはっきりしている「継体天皇」までの各天皇の「治世」を合計すると計「千百六年」となった。

「二倍年暦」だからその半分が実際の年で「五百五十三年」だ。「継体」の「治世」が「二倍年暦」かどうかははっきりしないが、その死亡年について『文書』は「教倒元年(五三一年)」と記録している。

五百三十一年-五百五十三年=マイナス二十二年。すなわち、記された伝承に誤伝や書き間違いがなければ、「神武」は「紀元前二十二年に即位した」こととなる。筆者のこれまでの推測では『記紀』に記す「神武天皇」は「倭国の大乱」後、卑弥呼勢力に追われて大和へ逃げ、西暦百八十年前後にヤマトの大王位についた人だ。『文書』の記載とは四〇年前後の違いがある。

『文書』は独自の伝承と『記紀』の記載(例えば各天皇の宮など)が整理できずにごちゃまぜになっている様子も見受けられる。『文書』中の「神武天皇」は「大和へ逃亡したサの尊」のことを指しているようだ。

、「神武天皇」が二人いたとすると、『文書』中の文言「紀元前二十二年に即位した神武天皇」の部分は、九州倭(ヰ)政権、あるいは伊都(倭奴)国の大王に贈られていた諡号であった可能性がある。


④『百済本記』の「継体」は九州の天皇

『日本書紀』継体紀の最後に奇妙な書入れがあり謎のひとつとされてきた。「継体」の死亡年についての記事である。『書紀』はこう記す。


 或る本に云う、天皇、二十八年歳次甲寅(五三四年)に崩ず。しかるを此に二十五年歳次辛亥(五三一年)に崩ずと云へるは、百済本記を取りて文を為すなり。その文に云へらく、太歳辛亥の三月に軍進みて安羅に到り、乞乇城を営(つく)る。この月に高麗、その王、安を殺す。又聞く、日本の天皇及び太子、皇子、倶(とも)に崩薨。この由に言う辛亥の歳は二十五年に当たる。後に勘校する者知らん。(カッコ内は筆者)


この記事についてはさまざまな研究者がさまざまに考えてきた。いちいち記さないがいずれも的を得ることはできなかった。それは、これまでの研究者は皆「継体」は大和の大王一人と思い込んでいたからだ。

だが筆者は、先に述べたように「九州年号」の研究から、「継体天皇」は実は福岡県朝倉市に都していた天皇であったことを突き止めた。『書紀』は「神武天皇」と同様、大和の大王位についた人に九州政権の天皇に贈られていた諡号をパクって記し、歴史を改ざんしていた疑いが濃い。

『入来文書・日本帝皇年代記』はこう記す


廿七(代)継體(「ケイテイ」とルビ)天皇  応神五世之孫彦主人(の)五男、諱男大迹、五十四歳(にて)受禅、元年丁亥(五〇七年)、治(世)廿五年、教到元年(五三一年)正月崩、八十三歳、山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国、即位元年(は)梁武帝天監六年、後魏(の)永平二年(にあたる)・・・壬寅善記治世第十六年年号始之、此の年南梁司馬達等来朝・・・丙午(五二六年)正智、延和元年 イ本(異本・「正和」の誤伝か)、辛亥教到(五三一年)二月継躰天皇崩、八十三歳、九州彦山立、無遊始・・・壬子 壬癸、前二年欠主(カッコ内は筆者)


文中の「山城国綴喜郡盤戸玉穂宮住、天皇生越前国」「辛亥教到二月崩」は『記紀』(異本)に引きずられた記述であろうが、最初の方では「継體(ケイテイ、とルビ)天皇が死亡したのは『百済本記』と同じ辛亥(五三一)年の正月であった」と記している。

さらに重要な記述は最後の「壬子(五三二年) 癸丑(五三三年)、前(に記す)二年欠主」という記事だ。『記紀』は何も書かずに「継体」の死後、次の「安閑天皇」がすんなり跡目を継いだが如く書いている。が、『文書』では「二年間天皇位は空位であった」と伝える。

この記事に続いて「安閑」が記され、六十八歳で即位、治世は「二年間」としている。

筆者の以前からの疑念のひとつは、継体の后「手白髪姫」の正嫡である「欽明」がすぐに跡を継がず、なぜ媛腹でしかもかなり高齢の「安閑」が跡を継ぐことになったのかということだった。

『文書』の記載を見てハッとした。『記紀』は「欽明」には正嫡の兄がいたのを隠しているのかもしれない。何らかの事情でその兄が継げなくなり、二年間の空位を経て「安閑」「宣化」という媛腹の子に天皇のお鉢が回ってきたのかもしれない。やっとその後天皇位を継ぐことができた、と。

宮廷内で激しい権力争いがあり、「尾張の連らの祖・凡連(おおしのむらじ)」が宮廷に送り込んだ娘「目子郎女(めこのいらつめ)」(『記』)らが自分の子である「安閑」「宣化」を天皇にするため、「継体の死」に乗じて「太子」や太子に組した「皇子」を殺害したのかもしれない。こちらの方が現実味のある想定だ。

古来いずこの国でも権力争いは血で血を洗う凄惨なものだ。が、この「殺害」は「毒殺」であった可能性が高かろう。そうでなければ明らかな加害者らが、宮廷内の反対勢力の非難に耐えて天皇位を獲得することは難しい。

現今の「和歌山カレー殺害事件」でも犯人が誰かを特定するのは難しい。「太子と皇子」殺害の張本人がどの勢力の仕業であったのかはっきりしないまま、「二年間」の暗闘の末、「凡連」らの勢力が何とか勝ちを得たのではなかろうか。

『百済本記』で使われた「天皇、太子、皇子≪崩薨≫」の字義は、彼らが事故や戦闘で死んだのではないことを如実に物語っている。

とは言え、今ははっきりした事情は不明としか言いようがないが、この「二年間の空位」こそ『百済本記』にいう「天皇、太子、皇子ともに崩薨」の実情なのではなかろうか。「九州年号」を創始したのはもちろん「九州王朝の天皇」であり、半島と密接な関係をもっていたのはいわゆる「大和政権」ではなく「九州倭(ヰ)政権」であった。そう考えると『文書』と『百済本記』の記載はぴったり一致することになる。

このほか『文書』については興味深い記述がいくつかある。機会を見て報告したい。


注1 写真と解説は山口隼正氏の著述「長崎大学教育学部『社会科学論叢』第六四号 2004年」によった

注2 当ブログNO.1315「継体・安閑」、NO.31「神武、その2」参照。

NO.31に付け加えれば、熊本県高森町の草部(くさかべ)吉見神社近くに神武天皇の長男「八井耳命」の墓という伝承をもつ古墳が存在する。本当の「神武天皇」は九州にいたことを示すひとつのデータと考えたい

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『魏志』に記された裴松之の注として「魏略に曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕、秋収を(はか)りて年紀となす」とある。日本の多くの神社で行われる一年のけがれをはらう儀式・「大祓(おおはらえ)」も六月(夏越祭)と十二月の二回行われている。

宮中でも「二倍年暦」廃止後も大晦日(おおみそか)に行われる大祓(おおはらえ)の儀式を六月にも行うこと が決められていた(「延喜(えんぎ)式」並びに「続日本紀・養老五年七月紀」など)。「二倍年暦」が実際に行われていた名残であろう。

2017年6月)