ブログNO.55 国東半島に弥生時代前期の製鉄炉? 現地で確認、ガセネタだった | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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ブログNO.55

国東半島に弥生時代前期の製鉄炉?

現地で確認、ガセネタだった


知人からインターネットに掲載されたある「情報」を知らされ、びっくりし、喜んだりした。「弥生時代前期(紀元前800年~450年ごろ)に製鉄炉」とはいくら考えても古すぎると思ったが、その「情報」の趣旨は次のようなものだった。


大分県国東(くにさき)市重藤(しげふじ)の海岸で、弥生時代前期に造られた鉄生産遺跡が見つかっている。生産遺跡では放射性炭素(C14)による年代測定が故坂田武彦氏(九州大学)によって実施され、紀元前695年の測定値が得られている。フェニキア人らが伝えた製鉄技術であることを証明している。

弥生時代前期に日本列島で鉄生産が行われていたことがわかれば都合が悪いので、九州の考古学界を牛耳っている者たちがその事実を隠すように圧力をかけ、潰している。


という内容だった。フェニキア人うんぬんは別として、現在考古学界の主流派は、鉄の生産は朝鮮半島からその技術が伝えられたと考えている。が、筆者は様々なデータからみて、鉄生産は中国から逃亡、渡来してきた熊曾於(熊襲)族や、紀元前5世紀の紀氏一族、あるいは紀元前3世紀の徐福らが直接持ち込んだ技術であり、その開始年代は朝鮮半島よりはるかに古いだろう、と考えている。

「圧力をかけ、事実を隠蔽している」ということであればとんでもないことだ。九州の考古学界を牛耳ってい
るある九州大学の元教授は以前、「定説が崩れる恐れのある遺跡にはコンクリートで蓋をした」と自慢そうに話し、ひんしゅくをかっている。自分たちの主張が正しい、という研究者としての保身のために市民を欺く。
55-1 その手の話の一つで、筆者の考えを裏付ける貴重な「証言」、或は「事実」かな、と思い、さっそく現地を訪ねた。


現地の海岸一帯(写真)は、真っ黒な砂鉄を大量に含む砂浜がえ
55-2 んえんと続いている所だ
った(写真)。熊本県菊池市や鹿児島県頴娃(えい)町、指宿市周辺の砂地や海岸線とそっくりだ。いずれも阿蘇山や開聞岳の火山噴火による鉄など鉱物資源の排出が原因だ。

海岸でエビの養殖をしている人に話を聞いた。「この辺はな、豊後水道という潮の流れが速いところや。瀬戸内と太平洋を往復する潮の影響で、海の底にある鉄分が砂浜に溜まるんじゃ」という。そして今も津久見?にある鉄関連の会社が地域権の設定をしている、という。

『記紀』に記された潮の難所「速吸の門」がこの周辺である。

さらに観光案内所でこの付近の住民に話を聞いた。「僕が小学生のころ、海岸から鉄剣が見つかった」という。

55-3 国東市のお隣、豊後高田市では熊曾於族ら九州の氏族が造ったと考えている横穴墓群(穴瀬古墳群=写真)や、重藤遺跡の隣接地には熊曾於族の鉄関連氏族に関係すると考えられる「鶴川」(水流川)という地名もある。

さらに、国東半島の神社の多くに境内社として「高良社」が祀られている。「高良(こうら)社」は福岡県久留米市の
55-4 「高良玉垂(たまだれ)」(紀氏
=注1)を祀る神社である。隣接する杵築市小野には「紀氏の子孫」を名乗る「財前」氏の墓所(写真)があり、今でも多くの「財前」さんがお住まいだ。

このことなどから国東半島一帯は熊曾於族と、この氏族と合体した紀氏らが蟠踞していた地域であると考えられる。

翌日、市の「弥生の村」に行き、「弥生前期の鉄製錬炉」が存在する事実があるのかお聞きした。「弥生の村」は、海岸線に近い国東市の中心部にある国指定史跡・弥生時代の「安国寺遺跡」を復元展示した施設である。現地では「西の登呂遺跡(静岡)」とPRしている。

しかし「鉄剣が出たのは事実ですが、それは6世紀代と考えられる古墳からであって、弥生時代前期の鉄生産遺跡などはありません」という。

現在「重藤遺跡」と言われているのは、鉄剣が発見されたところから少し西にある。が、中世の遺跡で、「中世の輸入陶磁器である白磁や青磁の土器が見つかっている」という。

付近では鍛冶・精練遺跡が多く見つかっているが、これらもほぼ中世の遺跡である、という。

その年代推定には鍛冶炉の熱残留磁気による年代測定や、出土する「中世の中国陶磁器」からの判定など真面目で行き届いた考察をしているようだ。

坂田武彦氏のC14による年代測定は知らない、というので、大阪・富田林市の自宅に帰り、同氏の「九州における放射性炭素年代測定集成」(九州大学箱崎地区放射性同位元素総合実験室 1974年)を見てみた。

そこには確かに「大分県国東町重藤」で木炭を測定した結果が記されていた(測定番号kuri0051)。2645±30年前という。中心値は確かに紀元前695年(2645年マイナス測定基準年1950年)だ。「kuri」は「九州大学理学部」のことである。

しかし、木炭を採取したのは「古墳の盛り土」の中だと注意書きがある。例の鉄剣が出土した古墳であろう。しかし、これでは古墳の年代を知る手掛かりにもならない。古墳をつくるために盛った付近の土に「弥生前期」に焚いた木があったというだけだ。ましてや「鍛冶炉」関連の測定値ではなかった。

パソコンにあふれている「無記名情報」の危うさがよくわかる。ガセネタだった。

 ではこの地域で「弥生時代前期の鉄生産遺跡」の可能性はまったくないのだろうか。付近には今でも間違いのない弥生時代の遺跡があり、付近の表土に弥生時代前期の木炭があるのだ。

さらに九州、関東、東北の遺跡の年代は世界中の考古学研究者が年代判定の基本としているC14の年代判定では多くの齟齬があることが知られている。近畿の土器の年代よりはるかに古いのだ。

それは近畿以外の地域では熊曾於族や紀氏が中国沿海部から持ち込んだ須恵器の製作技術があり、大阪の陶邑の土器編年では年代判定できないことを物語っている。

とは言っても、先週6日に発表された兵庫・淡路島の松帆銅鐸の年代もこれまでの考古学研究者の推定より200年近く古いという結果だった。弥生土器や須恵器の年代も地域によって全く違うこともあるのだ。確実な年代を抑えるにはそれぞれの地域でC14による年代測定が不可欠である。

国東市教委が「鍛冶・精錬遺跡」の年代判定のよすがとしていた熱残留磁気の測定も完全な年代測定とは言えない。熱によってそれぞれの時代の磁場が固定され、あらかじめ測定されている古代の磁場データと突き合せれば炉の年代が分かる、というこの測定方法の理論はよい。だが、現在の判定は2000年以前までに限られているという。弥生時代の年代判定は不可能といってよい。出土する木炭や灰など有機物をC14で測定するのが最も良い方法と考えられる。

中国の陶磁器の年代にもかなり疑問がある。中国製の陶磁器が大量に出土している福岡県・太宰府の都城は7世紀後半にできたと考古学研究者は考えているが、複数のC14測定では3世紀に建設が始まり、5世紀中ごろに完成していたことを示す測定値がでている(注2)。

太宰府出土の中国陶磁器についても「7世紀中ごろからのもの」とされている。しかし、その年代判定は誤っているのではないか、と考えて、中国浙江省の陶磁器の専門家に話を聞きに行った。だが、氏は確かに太宰府に行って実物を見てはいたが、日本側が言うように間違いのない「7世紀のものである」とは明言しなかった。中国の陶磁器も紀元前からの長い歴史があり(注3)、ちょっと見だけでは年代判定は難しいのだという。

とはいえ、「中世の遺構」と考えた鍛冶炉はもっと古い可能性もあるが「弥生時代前期の遺構」と間違えることはないだろう。間に2000年もの時代差があるのだから。時期が明示されていない浜崎寺山遺跡の存在など周囲の状況から見て今後、国東半島に弥生時代の鍛冶炉が存在する可能性はある。発見され、きっちりした年代測定が行われることを望みたい。


1 古川清久氏(神社研究者)の調査による。鹿児島県南九州市川辺町の高良家の古文書に「武内宿禰(たけし・うちのすくね)、紀氏の末裔である」と記されている

2 ブログ「うっちゃん先生の『古代史はおもろいで』」NO.50など「太宰府水城の年代測定値」参照

3 白磁は3世紀の六朝時代から、青磁は5世紀の南朝劉宋ごろから生産が始まったとされる

             (20176月 内倉武久)