007 「前方後円墳」は〝大和政権〟が造ったものか(その1) | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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007 「前方後円墳」は〝大和政権〟が造ったものか
(その1)

 

「前方後円墳」は円墳に長方形や撥(ばち)型などの方墳?をくっつけた古代の墳墓である。撥型の方で祭りをしたのではないか、と考えられているので「参拝者の 目の前にある方墳」、奥の円墳に被葬者が葬られているので「後円」の名がある。ほとんどの教科書に「この形の墳墓は大和政権が造ったもので、葬られている 人は大和政権の人か、その関係者である。全国的に展開されているが、その造られた時期をたどれば大和政権の勢力がいつどこに及んだかがわかる」と記述され ている。これはもう古代史フアンならずとも世間の常識にもなっている。

 だが、このブログで再三述べているように本当に「大和政権」なるものがこの形の古墳が造られた~七世紀に存在していたか、というと、確実な証拠は全くない。反証だけがわんさとあるという状況だ。大学教授など国史や考古学の〝権威者〟が『日本書紀』という客観性ゼロの記述を鵜(う)呑みにし、まぼろしの「大和政権」を存在したと思い込んでしまったことが大間違いのもとだったのだ

教科書でいかがわしく、事実とは程遠い古代史像を叩き込まれる市民は哀れだ。しかし、ここは市民は怒らなくてはいけない。いいかげんにしろ、真面目にやれ、 と。真面目にやっていかがわしい古代史像しか考えられないのだったらやめろ、と。誰のためにやっているんだ、税金の無駄使いだ、と。

一方、地方自治体などで勤務し、発掘調査や遺跡の保存に努めている人々のなかには真剣に仕事している人が多い。しかし悲しいかな、いかがわしい大学教授らの いかがわしい考えに影響されることが多いことも事実だ。生真面目、真剣に古代史に取り組む人が仲間はずれ、村八分のような扱いを受けるケースもあるよう だ。

そこで今回は、「前方後円墳の時代に全国を支配していたのは〝大和政権〟ではなく、九州倭(い)政権であった」いう文献上の事実はさておいて、前方後円墳について「大和政権が造った」と言えるのか、発掘調査の成果などから探ってみよう。

 

1)前方後円墳に九州製の石棺

 

この形の古墳は大和政権が造った、という教科書でも教えられるこの「常識」に疑問を投げかける最大のデータは、この形の古墳の多くに九州で造られた石棺が 入っていることだろう。古代史ファンの間ではわりとよく知られている事実でもある。石材は阿蘇溶結凝灰岩(あそ ようけつ ぎょうかいがん)という。阿蘇 山の噴火で噴出した溶岩が固まってできた石である。

熊本県北部、紀氏一族が蟠踞(ばんきょ)し、装飾古墳の発生地帯でもある宇土半島や菊池川、氷川下流域に産する石だ。なかでも著名な石は宇土半島で採れる 「ピンク石」と呼ばれる石だ。「ピンク石」は黒褐色だが全体的にピンクがかった色合いをしている。地元の菊池温泉街などでは今でも橋や石垣の石材として使 われている。宇土半島には石棺を切り出した跡がはっきり残っている場所もある。

宇土市の文化財担当者だった高木恭二氏と熊本大学教授の渡辺一徳氏が九州内の古墳に限らず、近畿の古墳にも同じ石を使った石棺が納められていることに気づき、蛍光エックス線解析機などを使って調べた。その結果、調査された近畿の「大王墓」と考えられている大前方後円墳のほとんどから阿蘇石で造った石棺が出土していたことがわかった。その数二十九個。ほとんどは五~七世紀のものである。

なぜ九州で造った石棺が近畿の古墳に入っているのか。古代史上の大きな謎だ。近畿には大阪府と奈良県境にある二上山のどんづる峰に石棺に適した石があり、近 畿の多くの古墳の石材として使われている。兵庫県高砂市の竜山石もよく使われている。別にわざわざ九州に石棺の石材を求めなければならないという状況では ないのである。

高木氏らが明らかにした九州の石棺が入っている近畿周辺の主な古墳は次の通りである。(○印は前方後円墳)

①大阪藤井寺市 唐櫃山古墳  舟型石棺  産地菊池川下流 ○

②大阪藤井寺市 長持2号墳  舟型石棺    宇土半島  ○?

③大阪藤井寺市 長持1号墳 舟型石棺   菊池川下流 ○?(写真左下


007-1

④大阪市    四天王寺古墳 舟型?石棺   宇土半島 ○不明(写真右上

⑤和歌山市   大谷古墳   家型石棺    氷川下流 ○

⑥奈良市    野神古墳   舟型石棺    宇土半島 ○

⑦奈良天理市  別所カンス塚 舟型石棺    宇土半島 ○

⑧奈良天理市  東乗鞍古墳  家型石棺    宇土半島 ○

⑨奈良桜井市  慶運寺古墳  舟型石棺    宇土半島

⑩奈良桜井市  ミクロ谷古墳 舟型石棺    宇土半島

⑪奈良桜井市  兜塚古墳   舟型石棺    宇土半島 ○

⑫京都八幡市  茶臼山古墳  舟型石棺    氷川下流 ○

⑬滋賀野洲市  円山古墳   家型石棺    宇土半島

⑭滋賀野洲市  甲山古墳   家型石棺    宇土半島

⑮大阪羽曳野市 峯ヶ塚古墳  家型石棺    宇土半島 ○

⑯大阪高槻市  今城塚    家型石棺    宇土半島 ○

⑰岡山市    造山古墳   長持型石棺   宇土半島 ○

⑱岡山瀬戸内市 築山古墳   舟型石棺    宇土半島 ○

⑲岡山赤磐市  備前小山古墳 舟型石棺    菊池川下流

⑳香川観音寺市 丸山古墳   舟型石棺    菊池川下流

㉑香川観音寺市 青塚古墳   舟型古墳    菊池川下流

㉒愛媛松山市  蓮華寺古墳  舟型古墳    菊池川下流

㉓兵庫竜野市  御津中島古墳 舟型古墳    氷川下流 ○

㉔奈良橿原市  植山古墳   家型石棺    宇土半島

 

・解釈に困る事態

高木氏らが研究の成果を発表した後、一部の考古学研究者らはそれぞれの考えを明らかにした。

そのうちの一人、岡山県倉敷市のある博物館長は「大和政権の人々は征服したことを実感するために九州の石棺を運ばせたのではないか」と発表した。

そんなことがあり得るだろうか。どこの人であろうと自分の生まれ育った土地に愛着と誇りを持つものだ。亡くなった後、見も知らない土地の石棺に入って眠りに つくなどとても考えられる事態ではなかろう。第一、被葬者の周りにいた人がそんなことを許すはずがない。「征服地」という自分らより劣っていると思ってい る地域の石棺を使うなど「もっての外の所業」だ。

また大阪府のある博物館長は「多くの場合、石室には複数の石棺がある。被葬者の嫁さんが九州の人だったから九州から運ばせたのではないか」という意見を公にしている。

これも実にいいかげんな見解だ。なぜなら九州製の石棺に入っている人が皆女性かどうかはまったく判明していない。しかも逆であろうと考えられるケースも多 い。たとえば表⑦の天理市別所カンス塚では主体の後円部にピンク石製の石棺が納められ、前方部には二上山産の石棺が納められていた。五世紀段階では王はほ とんど男性であったから古墳の主が九州産の石棺に収められていると考えられるのだ。

要するに近畿の前方後円墳などに九州製の石棺が納められているという事実は、「前方後円墳イコール大和政権」説を主張する国史学者や考古学者らにとってはま さしく「目の上のたんこぶ」なのだ。もし近畿以外の地域の古墳に二上山や竜山石製の石棺が入っていたら、彼らは「前方後円墳イコール大和政権」説の最も重 要な証拠として扱うだろう。世間も納得する。しかし「事実」はその逆なので困ってしまうのだ。それでも実体がないとはいえ理由をつけて説明しようという研究者はまだましだ。誠実に対処しようとする姿勢だけはみられるから評価できる。

 

・無視することで論議さける

だが、評価もできないのは「事実を隠す」方法をとっている研究者らだ。去年和歌市の博物館を訪れた時、そこには表⑤の大谷古墳出土の石棺が展示されていた。 ところが説明に立った館員はその石材について「凝灰岩です」とだけしか言おうとしなかった。この種のことに詳しくない一般の人はこの石棺がはるばると遠い 九州の熊本から運ばれてきたものであることを知らずに博物館を後にすることになる。同館には朝鮮半島由来と言う馬冑が飾られている。同じ大谷古墳から出土 したものだ。館側は各種の解説文でも盛んに「朝鮮半島との交流」を強調している。そこになぜ被葬者を葬った九州の石棺があるのか。説明に困るのだ。館側は 「あまり知られたくない」事実だから徹底して隠しとおそうとでも思っているのだろうか。それが「上からの指示」であったかどうかは知らないが・・・。

余談だが、馬冑は日本では埼玉古墳群の将軍山古墳と福岡県古賀市の舟原古墳でしか見つかっていない珍しいものだ。朝鮮半島には十例ほどあり、ここが馬冑の故郷である可能性は高い。どうして列島にもたらされたのか。

『日 本書紀』には四世紀から六世紀にかけて紀氏一族が朝鮮半島に渡り、新羅(しらぎ)や百済(くだら)を攻めた。支配下におくために人質までとったことが記さ れている。この件については朝鮮の史書『三国遺事』や高句麗の『好太王碑文』にも記録され、裏付けがあるからほぼ事実とみてよい。

埼玉・将軍山古墳の隣にある稲荷山古墳から出土した鉄剣には「記呼獲居臣(きのおわけのおみ)」という銘文が象嵌(ぞうがん)されている。この「記」は銘文の最 後に出てくる「記(しる)す」の意味でなく、姓で「紀氏」のことであるとする研究もある(京都大学 故宮崎市定氏)。古代には音が同じであればいろんな字 を使う。付近には「紀伊郡」もあった。埼玉古墳群と言うのは紀州と同様、紀氏勢力の進出先の墳墓群である可能性が高い。

馬冑は紀氏が朝鮮半島で購入したか、戦利品として持ち帰ったものだと考えることもできる。「美しい交流」の産物ではなく、半島人にとっては「悲劇の象徴」である可能性もある。

表 ⑨桜井市の慶運寺古墳の場合も市が造った説明板などではいっさい「九州製の石棺」であることを説明していない。桜井市教育委員会は市内の纏向(まきむく) 遺跡や前方後円墳・箸(はし)墓が「邪馬壹(台)国・卑弥呼関連の遺跡だ」という説を強調している。市内に九州との関連がある古墳があるということはなる べく知られたくない、という底意がありありだ。いろんな「言い訳」を考えて弁解に努めるだろうが・・・。

二番目の「事実を隠す」方法としてとられているのが「いっさいを無視する」という方法である。一例をあげると、大阪大学のある考古学名誉教授は2011年、『古代国家はいつ成立したか』という新著をだした(岩波新書)。この名誉教授は京都大学考古学教室の出身でごちごちの「大和政権一元論者」である。

著書を読んで「またやってるな」と思った人も多いだろう。前方後円墳を主体にして大和政権が全国を支配していったということをるる述べているが、「調査された近畿の大王墓級前方後円墳に九州製の石棺が数多く入っている」という事実にはいっさい言及していない。完全無視を貫いている。もし言及したらきちんとした説明ができず、自分らの説が崩壊してしまう恐れがあるから隠さざるを得ないのだろう。もし「説明できる」というのであればこんな重要なデータを隠す必要はまったくない。きちんと書くべきだ。

この著作では邪馬壹(台)国についても言及しているが、著者がろくすっぽ『魏志倭人伝』を読んでいないことがみえみえの内容だ。『倭人伝』に書いていないこ とをあたかも記録しているように書いている。考古学者だから文献に疎(うと)いのだから仕方ないじゃないか、という弁解が聞こえそうだが、あまりにも無責 任だろう。

この著作については後日談がある。「K」という考古学界の重鎮?が「人間文化研究機構」なる組織を作って各県の教育委員会に働きかけ、この著を名著として持ち上げようとした。宮崎、島根、三重、奈良四県の教委が賛同し同機構の第一回「大賞」とし、賞金100万 円を贈った。「大賞を受賞した」という事実だけを強調し、「この名誉教授の説が正しい、ということを世間に示そうとしたもの」と受けとめられている。古代 史に関しても〝権威(肩書き)主義〟〝いかがわしい説の代弁者〟に成り下がっている朝日新聞が誇らしげに?記事にしている(2014911日付大阪)。

なぜ四県教委の賛同しか得られなかったのだろうか。いろいろ理由はあろうが、大方の県教委がもし「著作の内容に疑問がある」として賛同しなかったとしたら、 立派なのだが…。「事実を知られそうな遺跡にコンクリートでふたをした」と発言した九州大学の元教授(ブログ3「武内宿祢)参照)といいまったくあきれ た、というかとんでもない連中ではある。

 

・石棺以外にも九州産石材を使用

表 ①藤井寺市の唐櫃山古墳と⑭の羽曳野市峯ヶ塚古墳は大阪平野を代
007-2 表する古墳群のひとつである「古市(ふるいち)古墳群」のなかのひとつである。「大和政権 の枠の中にある〝河内王権〟の地」という古市古墳群になぜ九州の石棺が入っているのか。古市古墳群とは何なのかを探る大きなテーマのひとつだ。

石棺ではないが石室に九州の石を使った前方後円墳もある。岡山市の千足5号墳がその一例だ。横穴式石室のなかに石障(せきしょう)という衝立(ついたて)状のものを設けている。(写真右)熊本の古墳に特徴的な構造として知られる。その石障にはこれも熊本、福岡両県などの古墳によく描かれている直弧文(ちょっこもん)が刻まれている。この石障に使われていた石は佐賀県唐津市産の砂岩だとわかった。きちんと石材の産地を探索した誠実な研究者に感謝したい。

直弧文は直線と曲線を複雑に組み合わせた図柄の文様で、南海産のゴホウラ貝から生まれた文様であるとする説もある(元九州歴史資料館員 故橋口達也氏)。直 弧文は石棺に刻まれる例もある。福岡県八女郡広川町の石人山古墳や大阪府柏原市の安福寺境内石棺。福井県にもある。足羽
007-3 (あすわ)山出土石棺などだ。(写真= 福岡・石人山古墳の石棺ふたに刻まれた直弧文)九州から始まったとみられるこの風習は列島の広い地域に広がっている。この風習をもった人々の移動がたどれそうだ。直弧文はこれら石棺より古い桜井市の纒向石塚古墳の周濠から出土した板円盤や岡山県倉敷市の楯築(たてつき)弥生墳丘墓の石にも刻まれている。

表 ⑯大阪府高槻市の今城塚は主軸長百九十メートル、二重濠を備えた巨大古墳で、考古学研究者の間では『日本書紀』にいう「継体天皇」の墓ではないかとされて いる。しかし九州製の石棺と同時に「熊曾於(熊襲)族」の風習であった相撲取り(力士)の埴輪や、付近の古墳から出土する太刀や短甲も熊曾於族独特の墳墓 である地下式横穴墓から出土するものと共通する。墳形も福岡県八女市の「磐井の墓」という岩戸山古墳とそっくりだ。明らかに九州に故郷を持つ人が葬られて いると考えられる。表㉙奈良県橿原市の植山古墳は「推古天皇陵」という見方もあった長方形墳である。

石棺や石材をはるか九州から運ぶのは大変な作業だ。金もかかる。きちんと計算したわけではないがおそらく現在の貨幣価値に換算すれば一千万円以上はかかっただろう。しかし、発掘調査が続けば今後こうした例はうんと増えるのではなかろうか。(続く)