006 九州倭政権が制定していた年号 ―教科書から抹殺された「真実の古代史」― | うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」

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006 九州倭政権が制定していた年号 ※3/30・6/8記事一部改正

 

―教科書から抹殺された「真実の古代史」―

 

)実体のない『日本書紀』の年号記載

 

いわゆる「大和政権」に先行して7世紀末まで日本全国を統一していたと考えられる「九州倭(いぃ)政権」(注1)は現在、文部科学省が検閲するいっさいの教科 書から抹殺されている。十年ほど前だったか、一時はその存在がちらりと掲載されたことはあるが、その後再び消えた。「九州倭政権」実在のさまざまなデータ は次々と明らかにされているのに、そのことにいっさい目をそむけている。教科書を執筆している者の仕業か、検閲官が「間違いだらけの古代史」を掲載するよ うに強要しているのか、どちらかだろう。いずれにせよ市民の信頼を裏切るとんでもない所業だ。彼らに人間として、そして研究者としての「良心」はないのだ ろうか。

「権力」によって市民は目をふさがれ、さらにこの件にまったく無知なマスコミが「いかがわしい古代史」を増幅しているようだ。

こんなひどい構図ができあがった大きな原因は、この件が日々の生活に直接結び付くものではないことだろう。マスコミはこの件を「ただのお話」、「ロマン」と しかとらえられず、事実を伝えるさまざまなデータに目をつぶり、「真実を市民に伝える」という最低限の義務を放棄してしまっているようだ。

しかしこの件は、日本と言う国のアイデンティティ、誇り、将来の国の指針を決めてしまう重要な視点になる事柄である。「過去」の事実をしっかり見据えなけれ ば「将来」の指針もゆがんでしまう。それはなにも「近現代史の歴史事実」だけではない。古代史も重要な視点のひとつである。人間や集団にとって「温故知 新」や「経験則」が大事なのだ。

ということで、今回は「九州倭政権」実在のさまざまなデータのうちまず「九州年号」についてお伝えしよう。古来「年号(元号)の制定」というのは天皇のもっとも 大事な権限であった。どこかの〝馬の骨〟が「明日から平成という年号を使いましょう」と言っても誰も従わない。「天皇」や政府が発するから従う。

いわゆる「大和政権」が初めて建てた年号は701年の「大宝」である。このことは『日本書紀』に続いて記録された『続日本紀』にきちんと書かれている。

『続日本紀』」〈文武天皇五(701)年正月〉

 

 甲午(21日)、対馬嶋(つしまのしま)金(かね)を貢ぐ。建元して大宝元年としたまう。始めて新令により官名・位号を改制する

 

 

ここで大和政権ははっきりと「建元」という字句を使っている。「建元」という熟語は「初めて(永続的な)元号を建てる」という意味である。

 

しかし読者は、社会科の授業でそれ以前に「大化」という年号があったと教えられている。有名な「大化の改新」などである。戸籍をつくり班田収授の法をつくるなどして国政の刷新を図ったという。だがこの「大化の改新」についてはさまざまな疑問が研究者の間からもちあがり、今は否定する意見が有力だ。用いら れた「郡」などの字句は実施した時期よりはるかに新しいものであることや、条里制など実施された形跡がほとんどないことなどだ。「大化の改新」はなかっ た、と。

何より数十種類の「史書」が伝える九州倭政権が建てていた年号のなかにこの「大化」という年号が記されているのだ。しかもその時期は『日本書紀』がいう645年ではなく、諸説あるが40年以上新しい7世紀末の686年、あるいは695年からである。『日本書紀』はそれ以前に元号を建てたことがないのに「改元して大化とする」(孝徳天皇4年)などとごまかして記している。「元号を改める」はそれ以前に「元号」がある場合だけに使える言葉である。社会科教師の多くはこのことをあいまいにし、いかがわしい古代史を説く先兵となっている。

「大化」のつぎに「白雉(はくち)」という年号も『日本書紀』に書かれている。しかし、この年号がいつまで続いたのか、『書紀』はまったく知らん顔で口を拭い、そのまま消えている。「白雉」も九州年号の中に記録されている。『日本書紀』は「白雉年号」制定のおりの仰々しいまでのいきさつや祝賀行事のありさま を記録している。


006-1 実はこれは「九州倭政権」の史書である『日本(旧)記』の記載をそっくりいただいて転載したものと考えられている。「改元」は天皇が変わった時には必ず行わ れる。しかし、「白雉」と改元されたという年は孝徳6年にあたり、次の斉明天皇が即位したという年には全く改元の記事はない。『日本(旧)記』の書名は『書 紀』雄略天皇紀や福岡県糸島市の『雷山千如寺縁起』に出てくる。

天武天皇の時代に「白鳳(はくほう)」という年号もあったという。美術史で7世紀後半を「白鳳時代」という。「白鳳」という年号は多くの社寺の言い伝え(縁起)などにも登場する(写真上は福岡県直方市の鳥野神社の由緒書き)。一般の人はてっきり大和政権が制定した年号だと勘違いさせられている人が多い。が、『書紀』には書かれていない。代わりに『書紀』は天武14年に「朱鳥(しゅちょう)」という年号があったとする。これは九州年号の「朱鳥」と同じ年の制定で、これにあわせて強引に挿入したものであろう。改元する理由など全くない時だ。二年後の持統天皇の即位時には何の「改元」もない。

『続日本紀』〈聖武(しょうむ)天皇神亀(じんき)元(724)年〉には、聖武が

 

白鳳以来朱雀(すじゃく)以前、年代玄遠にして尋問明らめがたし

 

 

という詔(みことのり)をし、世間一般にはこうした年号が使われていたことを認めている。しかし「おれ(大和政権)たちはそんな年号は知らん」と頬かむりしている詔だ。

 


006-4 要するに『日本書紀』に記されている「大宝」以前の「元号」はまったく実態がないのである。「続日本紀」が「建元」したと言っているのは正しい。以後「大宝」からはとぎれなく「元号」が続く。始めて永続的な年号を建てられたから「建元」なのだ。

2)九州年号の実際

九州倭政権が制定していた「年号」は522年 の「善記(ぜんき)」から始まるらしい。「らしい」というのは、これらの年号を記録した数多くの「史書」にかなりな異同があるからだ。大和政権が自身の史 書である『日本書紀』から「九州倭政権」を消し去った時、「九州年号」も消し去る必要があった。おおっぴらに時代を知る手段として通用していたら、この期 間、大和政権に「天皇」がいなかったことがばれてしまうからである。おそらく徹底した「元号隠し」の策略が実行されたのだろう。「九州年号」も「地下に」 もぐった。だからきちんとした完璧な記録がないのである。しかし、「継体天皇」が年号を制定し始めたとする資料は一部を除いて一致している。

今、八世紀初頭の「大長」まで営々と続く三十数個の「元号」が伝えられている。そのひとつを掲げてみよう。鎌倉時代初期に編纂された百科事典「二中歴」(上記写真)の記録だ。(洋数字の書入れは発布された年。筆者)

これには最初の年号が「継体」であるとしている。しかし他の 史書たとえば江戸時代の鶴峯戊申の『襲国偽僭考(そこくぎせんこう)』や桃山時代に日本に駐在したポルトガル宣教師ジョアン・ロドリゲスの『日本大文 典』、筆者不明の『興福寺年代記』、『麗気記私抄』などはすべて「善記」が最初だと記録している。使用例は鹿児島から青森まで全国で約400件も発見されている。実際の使用例でも「継体」年号は使われていない。従って「継体」年号は九州倭政権の天皇のおくり名「継体」を年号と見誤った記録と考えられている。

さらに『二中歴』の記録には「聖徳」年号や最後の年号「大長」が記録されていない。『二中歴』の筆者は「大化」のあと「大和政権」が支配権を奪取して「大宝」に引き継がれたと勘違いしているようだ。

しかし「大長」は、大和政権が新しく制定した「大宝」の後も続けて使われていた記録がある。九州倭政権の中心氏族のひとつであった熊曾於族が養老5721)年、大伴旅人ら「大和政権」の軍に殲滅(せんめつ)されるまで生きていたらしい。九州倭政権は実質的には663年の「白村江」の戦いで力を失い、じわじわと攻められやがて「大和政権」に取って代られた。「大和政権」は701年の文武天皇になって初めて名実ともに列島の覇者となった。そのいきさつについて『書紀』は一切口をとじている。それでも熊曾於族や紀氏など九州政権の残存勢力は8世紀初頭まで抵抗を続け、細々ながら生きながらえていたのだろう。年号からもそう読み取れる。

 

3)新しい使用例発見される

 



006-2 平成142月、九州年号の新しい使用例が熊本県で見つかった。同県玉名郡和水(なごみ)町にお住いの前垣芳郎氏が近くの元庄屋石原家宅に保存されていた古文書を整理していたところ、九州年号(善記から大長まで31年号)と大和政権の年号(大宝~)を年代順に並べて記した一枚の紙が出てきた。(写真=部分)江戸時代の天明元(1781)年までに石原家の当主らが作ったもの
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らしい。通報をうけて調べた近くの泗水(しすい)町、久米八幡神社宮司吉田正一氏は「生まれ年による運命や健康占いのためにつくられた納音(なっちん)というものだろう」と考えている。

 福岡県小郡市鰺坂(あじさか)の鰺坂小学校東側にある若宮八幡宮の立柱にも「貴楽」という年号がきざまれているのが見つかっている。本殿に向かって左側にある立柱だ。(写真左)「欽明天皇御宇 喜楽二年 建立」と。地元に伝わっていた伝承を昭和31年に記したという。

 大和政権の懸命なもみ消し作業にもかかわらず、一般人の間、それも知識人の間では一連の九州年号が時代の物差しとして使われていたことを実証する資料である。それは「常識」でもあったことが間違いなく」わかる貴重な資料である。

 
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垣さんらはすぐに地元紙である熊本日日新聞に通報したが、同紙の“専門記者„は「それは偽年号とされている」と言って記事にしなかったという。無知なうえ読者に事実を伝えようという意欲もないマスコミの退廃ぶりをまざまざと見せつけた。

 

4)「事実」知られることを恐れる専門家たち

 

  日本の古代史を知るうえで重要な文献と言えば、国内の現状では『日本書紀』と『古事記』だ。しかしこれまでこのブログなどで何回も指摘している通り『日本 書紀』は大和政権が権力を握ったあと作った史書である。客観性はゼロ。日本国内の権力構造と関係のない外国の史書、とりわけ中国と朝鮮の史書とは内容的に 大きな齟齬がある。『古事記』も完成から再発見されるまで約500年間の空白があり、『日本書紀』の記述とあまり齟齬をきたさないようかなりな削除や改作がなされているらしい。

国史学者や考古学者の多くが『日本書紀』を柱にした古代史を描いてきた。衆を頼んでいかがわしいというか、事実とはかけ離れた古代史を市民に広めてきた。こんな「裏切り行為」がいつまで続くのだろうか。彼らに「良心」というものがあるのだろうか。伝えるべきデータを意図的に隠し、俗世の栄達のみを気にし、「面子(めんつ)」だけを保とうとしているようだ。

「年号学者」という久保常晴や所功らはこの年号群について「公のものでなく、鎌倉時代にどこかの僧侶がでっちあげた私年号である」と主張し、多くの古代史‶専門家〟は調べもせず盲従してきた。

鎌倉時代に作られた年号がなぜ奈良時代、724年の詔勅に出てきて全国の史書にも記載されているのか。久保らの主張は、実態をわきまえないおかしな主張であることは中学生でもわかることだろう。

 

 

「九州年号」を勉強していていつもひっかかることがひとつあった。400個近くも採集されている使用例の多くに「継体天皇」とか「安閑天皇」「欽明天皇」「敏達天皇」「推古天皇」「天武天皇」「持統天皇」など一般に「大和政権の天皇」と考えられている天皇の贈り名(漢風諡号=しごう)がつけられていることだ。

最初この伝え方は「大和政権の天皇でいえば○○天皇」という言い方が強制されたか、あるいは便宜的に使っているのか、とも考えていた。しかしこの年号を使った人たちはそんな“強制„に屈するような人たちではなかったろう。そうではなく、この天皇群こそまさしく「九州政権の天皇たちの諡号(贈り名)」なのではないか、と気づいた。「『書紀』の巧みな書き方から導かれた虚構の大和政権」の幻影に取りつかれた国史学者らが「これらの天皇は大和にいた」と勘違いしてしまっていたのだ。事実、これらの諡を誰が作ったのかはなぞなのだ。現在候補者として淡海三船があげられているが、その確実な証拠は何もない。

確かに奈良国立文化財研究所や奈良県立橿原考古学研究所の発掘調査にもかかわらず、7世紀前半までの奈良大和では「天皇が都し、全国を支配するための大勢の官僚群が仕事し、住んだ」と考えられる都城遺構は全く出ていない。『書紀』が「〇〇天皇は××に都した」というに記載してい
006-6 る場所は掘りつくした感がある。それでも出てこない。このことと深い関連があったのだ。この天皇群は筑紫太宰府、あるいは豊前京都(みやこ)郡、そして「孝徳天皇」からは関西に
副都を置いた天皇たちなのだ。放射性炭素による年代測定で太宰府の都城遺構は5世紀前半には出来上がっていたことが判明している(ブログ5「九州、東北の遺跡年代」など参照)。

 

「九州年号」については、江戸時代の国学者鶴峯戊申が「九州年号」と題した古写本の内容を紹介。1970年代に、古田武彦氏が九州王朝実在の大きな証拠の一つとして再提唱。旧「市民の古代」グループが全国の史書や金石文などを調べあげ、そこに記された九州年号を収集した(写真上下=『市民の古代』第11集 新泉社刊から=部分)。客観性ゼロの『日本書紀』を真っ当な「史書」と考え、古代史解明の柱としてきた国史学者らは今でも頬かむりを続け、市民を騙し続けている。

 

 

1 「倭」を呉音の「わ」と読むのは間違いである。中国の史書が書かれた中原の漢音で「ヰ」と読まなくてはいけない。ブログ1「神武天皇」注など参照