橿原神宮②:関裕二氏の古代史観 | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

古代史作家でる関裕二氏の著作を踏まえて、神武天皇に関する関氏の古代史観を以下のとおり記す。

 

・神武天皇と応神天皇は同一人物(神武東征は神功皇后の子の応神天皇の足跡と考える)。ヤマト黎明期の崇神天皇の時代、疫病が蔓延し、人口が半減した。大物主神は「日本海(山陰)の神」だから、日本海勢力(神功皇后ら)が瀬戸内海勢力に追い落とされたことを恨んでいたのだろう。日本海の怒りを鎮めるために、神の子を連れてくる必要があった。大田田根子の正体は神武(応神)天皇であった。三輪山の山頂に祀られるのは、日向御子(ひむかのみこ)で、南部九州の日向で荒ぶっていた貴種=神武である、

 

・豊玉姫と玉依姫は安曇氏が祀る女神で、神武天皇の母系は二代続いて海人の女神だった(北部九州沿岸のかっての奴国の王女たち)。安曇氏の発祥の地は、筑前国糟屋郡安曇郷(福岡市東部)で倭の奴国の領域。弥生時代から続く一族と考えられ、志賀島の志賀海神社を祀ってきた。志賀海神社の祭神は、綿津見三神で、安曇氏は日本中の海人(海部)を統率する伴造で、膳氏(かしわでし。安倍氏同族)とともに、天皇の食膳にかかわっていた。天皇家の祖はヤマトから北部九州に乗り込んだが、ここで奴国の安曇氏の女性と結ばれ、子を産んだということだろう。

 

・北部九州を制圧したヤマト政権だったが、日本海勢力と瀬戸内海勢力の主導権争いが勃発し、今度は、瀬戸内海勢力が伊都国と手を結び、奴国の「神功皇后たち」を追い詰めてしまったのだろう。神功皇后や奴国の貴種たちは、海人のネットワークを頼って、海に飛び出し、南部九州の笠狭碕(野間岬)に逃げたにちがいない。これが天孫降臨神話となり、のちに、神武は日向からヤマトに向かったのだろう。

 

・ヤマトの貴種たちが南部九州に逃げてきた時、南部九州の隼人は困惑したはずだ。すでに、ヤマト政権は日本列島の広い地域と交渉を持ち、広域連合を構築しつつあった。海人の隼人は、その情報を持っていただろう。ヤマト政権は内部分裂し、片割れが北部九州で敗れ、その「負け組」が助けを求めて流れ着いた。隼人は「負け組」を匿い、婚姻関係を結んだ。王家にとって見れば、零落して逃げてきたのに、助けてくれた隼人たちをどれだけ恩に感じただろう。

 

・崇神天皇(物部系。ニギハヤヒ)は神武を呼び寄せ、祭祀王に立てた。この時、ヤマトの中で意見が統一できず、ナガスネヒコ(東海の王)が抵抗し、殺されてしまったのだろう。物部氏は政治の主導権は手放さなかった。ヤマトの王は祭祀王で、畿内豪族層が実権を握る体制であった。

 

・神武はヤマトに乗り込んだあと、纏向から西側に少し離れた橿原に宮を建てたが、周辺には、大伴氏や久米氏ら、九州時代の苦労をともにした人々が固まって暮らしていた。隼人は天皇に近侍し、大嘗祭でも重要な役割を果たした。常に隼人が天皇を守っていたのは、両者の間に絶大な信頼関係があったからであろう。古代豪族の中で、もっとも格式を誇り、王家に近かった一族は大伴氏だった。のちに、大伴氏は最後まで王家に寄り添い、藤原氏と対立することになった。