箸墓古墳⑥:『古代日本の超技術 あっと驚く「古の匠」の智慧』② | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

志村史夫氏の『古代日本の超技術』における前方後円墳に係る説明の紹介を続ける。

 

・周濠の容量を増やせば、掘り出される土の量が増し、前方部の規模(幅、長さ、高さ9が大きくなる。用地に制約がある場合、前方部の幅と長さを狭めて、捨てる土を高く積み上げればよい。前方部は後円部ができてから開発された新田の広さに比例した大きさなのである。

 

・「方」部は「墳」ではなく、「前方後円墳」は円墳であり、その独特な物理的形状から「方形部合体型円墳」とよぶのが適当である。

 

・大林組プロジェクトチームが、仁徳天皇陵の建造について、さまざま仮定のもとに試算した結果によれば、工期は15年8か月、作業員数は延べ680万7000人、総工費は797億円である。これだけの人数の作業員(一般民衆であろう)が、これだけの長期間、権力者の命令あるいは強制によって重労働を続けられるとは考えられない。

 

・ヤマトには、朝鮮半島の戦乱を逃れて、大挙して渡来した「帰化人」がいた。彼らは、中国大陸の最先端の文化・技術を携えた技術者集団であり、彼らが伝えた技術の一つが、水稲耕作と農業土木だった。

 

・方形部合体型円墳が築かれはじめた3世紀から4世紀初頭にかけて実在した最初の天皇と考えられている第10代崇神天皇は、「農は国の本である。人民のたのしみとして生きるところである。今、河内の狭山の田圃は水が少い。それでその国の民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って、民のなりわいをひろめよう」と詔したといわれる。

 

・ヤマト王権は、渡来技術者集団の力を活用し、「米の増産によるクニ造り」を進めた。巨大方形部合体型円墳の周濠を水源として開拓された水田は、古墳築造に携わった人々に分配されたので、民衆は「保存が利き、栄養価が高くうまい食物であり、交易の場においても交換価値が高く、富をもたらす米」の増産のために、自ら率先して重労働に従事したのである。民衆が、300年の長きにわたって、方形部合体型円墳の築造に労力を出し続けたモチベーションが、「自分たちのための米の増産」であった。

 

・ヤマトは徐々に水田面積を増やし、主要な食物であり、物品貨幣でもあった米を増産することによって、富を蓄積して勢力を強め、クニ造りを着々と進めていった。ヤマトが列島内のクニグニに与えた「徳」は、方形部合体型円墳の周濠がもたらす米作りという富の生み出し方と、その巨大墳丘がもたらす政治的効果・信仰的効果であった。

 

・地方のクニグニがヤマトを見習おうとするのは、自然な成り行きである。全国的に見られる方形部合体型円墳は、ヤマト王権の「支配下」にあること、少なくとも「仲間」であることを示す「共通のカタチ」である、というのが古代史の常識と思われていたが、それは表面的なことであり、多くのクニグニが自らヤマトを見習った結果だったのである。巨大な方形部合体型円墳は、その周濠に貯めた水によって、地域の水田を灌漑することを目的に造られたが、同時に、偉大な支配者の威容を示す墳墓でもあった。