箸墓古墳⑤:『古代日本の超技術 あっと驚く「古の匠」の智慧』① | 古代史ブラブラ

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古墳・飛鳥時代を中心に古代史について綴ります。

志村史夫氏(ノースカロライナ州立大学終身教授。工学博士)の著作の『古代日本の超技術 あっと驚く「古の匠」の智慧』(2023年12月20日。講談社)において、前方後円墳について興味深い内容が記されているので、以下のとおり記す。

 

・古代史において、一般に「古墳時代」とよばれるのは、およそ3世紀中葉から6世紀後葉ないし7世紀初頭までの約350年間である。この間、九州から東北南部の水稲農耕社会において、さまざまな形状の古墳が築造された。その間に造られた古墳の数は、前方後円墳約4700基、前方後方墳約500基、これに円墳と方墳を加えると、総数は10万基をはるかに超える。規模は10m前後のものが大半を占める。

 

・土を高く持ち上げた埋葬施設である墳丘は、大陸から伝わってきたが、「前方後円墳」形は日本独自の形状と言われている。朝鮮半島南西部で、百済時代に日本から移入された15基が発見されている。

 

・農業土木技術者の田久保晃氏の著作である『水田と前方後円墳』では、巨大前方後円墳は、墓所として、また関連する祭祀の場としての目的・機能に加え、何らかのプラス目的・機能を有する施設として築造されたのではないかと主張されている。田久保氏は、水稲耕作と前方後円墳を結び付けた。日本で水稲耕作がはじまった時期と「古墳時代」は一致している。

 

・米がたくさん、安定して収穫できるクニがよいクニ、強いクニであり、そのようなクニの支配者が民衆から支持を得る支配者だった。水田稲作を得意とするクニがヤマトであり、「水田稲作集団」としてのヤマトは、圧倒的な米の生産能力をもつ最新の水田装置・システムを発明していた。

 

・水田耕作にとって最も重要なのは、水の安定確保であるが、「自然の水」に頼らないためには、灌漑用水が必要である。具体的には、溜池と灌漑用水路である。水田の広さは、溜池の容積、つまり貯水量に比例するだろう。

 

・一般的には、水は川から用水路を経て水田に供給される。しかし、このままでは、水田に供給される水量は、天候に依存する川の水量に頼らなければならない。古墳の周濠を「溜池」として利用すれば、水田への水の安定的供給が可能になる。古墳周濠の容積を大きくすればするほど開拓可能な水田の面積が増し、結果的に稲の収穫量が増える。

 

・古墳周濠の容積が拡大するということは、墳丘を造るための盛り上げ土の量が増すということであり、より大きな墳丘の築造へとつながっていく。巨大な前方後円墳は、その周濠に貯めた水によって地域の水田を灌漑することを目的に造られた。ただし、前方後円墳の円墳が墓として使われたことは紛れもない事実である。