財宝伝説のドクロ岩と堂ヶ森巨石文明列石を探訪(足摺岬地区) | 次世代に遺したい自然や史跡

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毎年WEB初公開となる無名伝承地や史跡、マイナーな景勝・奇勝を発表。戦争遺跡や鉄道関連、坂本龍馬等の偉人のマイナー伝承地も。学芸員資格を持つ元高知新聞主管講座講師が解説。

<ドクロ岩周辺は石切場だった?>

前回の記事で紹介した、ソロモンの秘宝や村上海賊の財宝の在り処を示す岩ではないかと言われている、高知県土佐清水市足摺岬地区のドクロ岩と、その山の山頂にある超古代巨石文明遺跡である堂ヶ森列石を昨日、探訪してきた。驚くことに堂ヶ森山頂の西には、昭和期に設置されたと思われる展望台も残っていた。

前回の記事では、ドクロ岩へは明瞭な道がない旨、説明してしまったが、それは高知放送の番組「こうちeye」の「演出」という名のヤラセのせいで、実際はドクロ岩の下を踏み跡が通っており、登山口から迷うことなく、僅か3分ほどでドクロ岩に到達できた。そしてそこから堂ヶ森(144m)を回遊することができた。

登山口は以前紹介した足摺海崖の滝、ミジリ(かつての仮称「千崎の滝」)の北西兼、足摺岬中学校(閉校)の南に位置する。

 

「喫茶・緋羅里」(多分休業中)のすぐ西兼、ポニー牧場跡の私道(歩道のように見える)入口の向かいにある。私道入口付近の路肩に3台ほどの縦列駐車スペースがある。

登山口から樹林帯に入るまでは膝から太腿位までの藪になっているが、山中に入れば藪はない。「こうちeye」内、土佐遺産コーナーのドクロ岩担当リポーター、「ちゃがまらん」メンバーの一人が顔を土まみれにしていたのも、視聴者を楽しませるため(?)のヤラセ。

山中に入ると踏み跡や獣道のようなものがいくつもの方向に分かれているが、東方向に県道に沿って進む、石ころが多い踏み跡が最も明瞭で道幅も広い。山中は見渡す限り、巨石や岩だらけだが、その踏み跡を進むとすぐ、広場風になった箇所があり、奥に切り立った何段かの岩がある。

その中程の東寄りに、既にドクロマークが見えている。恐らく、ちゃがまらんと観光協会の専務が訪れた際、岩の表面をきれいにしたのだろう。しかしまさか登山口から僅か3分で迷うことなく、訪れることができるとは思ってもなかった。

前回の記事では記すことを忘れていたが、ドクロマークの右には「下矢印」(↓)が刻まれている。また、左端の文言「一〇**入ル」についてだが、もしかするとそれは「一〇人位入ル」なのかも知れない。だとすればそれは洞穴や岩屋の可能性がある。

「九ツ(若しくはシ)上一〇」は、森林管理署設置の境界目出し標の番号かとも思ったが、境界は堂ヶ森の西の尾根と山頂付近だったので、位置的に違う。それに下矢印が刻まれているのに「上一〇」というのも可笑しい。暗号か何かか。

ドクロ岩の東にも同様の広場と岩があったが、そこの地面には荒削りの石柱のような直方体の石があった。更に付近の岩の二ヶ所に、人工的な斜めの線彫りがあり(上画像)、他にも岩を貫通した直径数センチの穴もあった。

この雰囲気からすると、ここは石切場ではなかったのか。ノミの跡がないのは、藩政期のものではなく、近代か現代のものだからだろう。ドクロ岩がこれに関係しているものとすれば、ドクロマークは海賊ではなく、危険マークとして刻んだものでは?ダイナマイトとか。いや、近現代なら、岩に文言を彫るような原始的なことはしないか。

足摺岬中学校は当初、陸軍の兵舎を使用していたらしいが、陸軍と関係していたとすれば、ドクロマークは毒ガス弾等を表しているのか?米軍は原爆の使用許可が大統領から下りなかった頃、南九州に上陸する陽動作戦として、土佐湾から高知県へ上陸する予定で、それは大本営も察知していた。

高知県への敵機や敵艦隊接近を探知するのに、足摺岬地区の陸海軍のレーダー基地は最も重要だった。堂ヶ森のすぐ近くに以前紹介した陸軍のレーダー基地があった。これを死守するため、毒ガス弾を用意していたのか。いや、そんな機密事項を岩に彫るようなことはしないか。

村上海賊は中世の海賊故、数字の「5」を用いるはずはない。ソロモンの秘宝や西欧の海賊関係のものなら、日本語を用いるはずはない。

ドクロ岩は70年以上前に発見されたらしいが、地元にドクロ岩の文言の内容を知る者がいない、というのも解せない。「こうちeye」では今週木曜、ドクロ岩の後編を放送するようだが、一体どんな見解を示すのか。

謎は置いておき、堂ヶ森へはドクロ岩とは反対方向の踏み跡を辿ってみた。案の定、これは前述の堂ヶ森の西の尾根に出た。その尾根は岩だらけだが、途中から北直下に歩き易い踏み跡があるのが分かった。

これを登って行くと、地形図に記載されている破線の登山道に出た。これを辿ると山上部の西に出たのだが、その出る手前の岩の表面には、輪っかの凹みがあった。超古代の人工のものだろうか。

山上部の西端には何と土台がセメントの展望台が設置されていた。樹林で何も見えないので、昭和期のものだろう。

 

山頂には尾根に沿う形で4個二列の列石があった。南側の列石は一つだけ立石になっている。以前紹介した臼碆の巨石遺跡や岡山のストーンサークルでも、一つだけ立石があった。この石は神籬的存在なのか。

この南北の列石の間は人一人が何とか通れる位だったと思うが、この中を通り抜ける神事的なことがあったのだろうか。死と再生を体現する機能とか。

復路は東の尾根を下り、足摺岬中学校に出て、通学階段を下って県道に下り、回遊した。

堂ヶ森から白皇山ピラミッド(拝殿山は三ツ石)と唐人駄場遺跡(昭和50年代初頭まで西日本最大のストーンサークルがあった)を結ぶと、巨大な三角形が浮かび上がる。果たしてこの意味するものとは・・・。

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